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CASE1 菅池しおりの場合 ⑪

 店を出ると、幾分か日差しは和らいでいた。

 先程のようなジトッとした湿気は嘘のようで、カラリと爽やかな風が髪を揺らす。


 二千円を収めたポーチを肩に、しおりは軽い足取りで坂道を下る。

 湾に架かる橋は、相変わらず渋滞している。

 けれど碧い水の色は、何故だが澄んで煌めいているように見えるのだ。


 心が軽い。

 こんな気分は、生まれて初めてかもしれない。

 過去が変わった訳ではない。やった事が消えた訳ではない。

 けれど、それを言葉にして、それを受け入れてくれる人がいて、ようやく心に澱んでいたわだかまりを、自分のものとして受け入れられる気がした。


 せせこましくて古臭い空気が嫌で、そんな場所にいる自分が嫌で、留学を選ぶほど離れたかったこの町も、少し好きになれたかもしれない。


 坂の途中で足を止め、しおりは後ろを振り返る。

 そして呟いた。

「ありがとう……」


 だがその時、心の隅にわずかに引っ掛かっていた違和感の正体に、気付いてしまった。



 ――なぜ獄楽(あの人)は、彼女の祖父と祖母が幼い頃に亡くなったのを、知っていたのか?



 ***



 ――五年と五ヶ月後。

 菅池しおりは再び、この坂にやって来た。


 一月の寒空に、山茶花(サザンカ)の紅だけが映えている。狭い坂を吹き抜ける風に、しおりはコートの襟を立てた。

 ブーツの音を響かせながら、急坂を上り切ったところで、しおりは足を緩めた。


 ――恐ろしく何も変わっていない。


 剥がれた板壁も錆びたトタンの軒も、煤けた色の看板も。

 ただ時期的に、竹藪の笹葉は黄ばんで、道祖神の周りに枯葉が積もっているだけだ。


 寒風に靡く藍の暖簾もそのまま。

 しおりは『獄楽堂』と書かれた虫喰いだらけの看板を見上げた。


「……本当にここなんだよな?」

 隣で不安そうな声がした。

「そう、間違いないわ」

 しおりはそう答えると、ダウンジャケットに包まれた腕を取り、暖簾を潜った。


「ごめんください」

 格子模様のガラス戸を引くと、ビオラのような落ち着いた響きが返ってきた。

「おやおや、お久しいですな。……それに、お二人連れとは」

「は、初めまして。――圭人といいます」

 ダウンジャケットの青年がペコリと頭を下げる。

「なるほど。……どうぞ」



 導かれた店内は、五年前から時が止まったようだった。

 違うところといえば、氷水を満たした木桶の代わりに、青い釉薬で山水画が描かれた火鉢が置かれ、土間に置かれた石油ストーブの上で、薬缶(やかん)が湯気を立てているくらい。

 

 上がり端の座布団に二人を招いた賽憂亭獄楽も、その容貌は変わらない。

 艶のない白髪を乱雑に束ね、髑髏柄の羽織を肩に掛ける。

 そして、彫りの深い顔立ちに不釣り合いな糸のように細い目で、二人を眺めた。


「例の品を、お引き取りに来られましたかな」


「はい。……二人の思い出に、手元に置いておきたくなって」

 しおりはハンドバッグから、少々皺の入った名刺を取り出した。獄楽はそれを受け取り、シャンと鈴を鳴らす。

「ココがお品を持って参りますので、少々お待ちを。……その間に、少しお話を。これはただの私の興味ですが、お二人は、どのような馴れ初めで?」


 二人は顔を見合わせると、若干頬を赤らめた。


「正直言うと、彼女の――しおりさんの消しゴムを盗んだのは、……彼女の事が、好き、だったからなんです」

 圭人はそう言って顔を伏せた。

「ガキの馬鹿な考えです。多分、好きな気持ちの裏返しだったんです。お恥ずかしい……」

 頭を掻く圭人に、しおりは照れ臭そうな顔を向ける。

「三年間の留学を終えて、日本の大学に進んだのですが、先月の同窓会で久しぶりにこちらに戻ったら、彼も来ていて。その時に真相を聞きました」

「心の底から謝りました。本当に申し訳なかったと。そうしたら、あの時のお詫びの消しゴムを、こちらに預けてあると聞いて……」

「懐かしくなってしまい、出来れば、二人の再会の記念に残しておこうと」

「それはそれは」


 獄楽はニヤリと口角を吊り上げた。

「お仲がよろしいようで」


 すると廊下の奥から、狐面の子供が高坏を掲げて現れた。――五年前と、同じ姿のまま。


 しおりは眉を顰めた。……子供にとっての五年は、大人の比ではない。あの頃が十歳くらいとして、もう十五歳にはなっているはずだ。

 ならば、同じく「ココ」と呼ばれるこの子供は、以前とは別人なのだろうか?


「こちらでございます」


 ココは相変わらずの抑揚のない声でそう言い、二人の前に高坏を置き、獄楽の隣に退がる。


 二人の目線は、朱塗りの丸皿に置かれた。

 丁寧に畳まれた、紺色の袱紗。

 顔を見合わせてから、しおりが金色の房に手を伸ばした。

 その角を開くと、そこに鎮座する、少々時代遅れのキャラクターが描かれた消しゴム。


 圭人がそれを取り上げると、

「お間違いありませんか?」

 とココが確認した。

「はい、これです……。いやあ、懐かしい」

「では……」


 柵の向こうで、獄楽が算盤を弾く。

「お支払いした金額が二千円に、利息を乗算し、そこに五年四ヶ月の日数を掛けます」


 そして獄楽は、ジロリと薄目を開けた。


「合わせまして、五万八千円となります」

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