09. 知らない音楽
「身体死ぬ。死んだ。心の配管工が十機くらいさよならだ」
幸い静かな車内は快適だったが、私の慣れの問題でよく眠れたとは言い難い。
お陰で休憩自体があるとはいえ、それでも長時間のバス移動が堪えた。座っているだけでも体力が削られるなど、なんて不便な生き物だ人間。
「お星様あげます」
冷たいペットボトルをぴとりとおでこに当てられる。いやっふー。
「やだあキノコがいいー緑の」
「はいはい頑張って。甘い物でも食べましょう」
「うー頑張るぅ」
ソーダで潤いつつ、前に踏み出す。
駅の時点で人は入り乱れていたものの、さすが新宿とは人が多い。テレビで観た光景だ。
「おやおやくじらくん。お姉さんに手を引いてほしいかね?」
それにやや怯んだ様子のくじらくんに、したり顔で意地悪してやる。
「やらしいなあ……行きますよ、もう」
呆れた様子で私の手を取り、だだ広い道路を渡って行くアサナギ少年。冗談の通じないやつめ。それに、これ、子供扱いされている気がする。憤慨だ。
しかし強い陽射しと照り返すアスファルトの熱烈な歓迎は厳しく、すぐに百貨店へと避難することとなった。
「結構元気だよね君。無理していない?」
歩くことで身体はほぐれて来たけれど、まだ完全体とはいえない。あと二回くらい変身は残しておきたいものだ。
「大丈夫ですよ。小、中と吹奏楽部だったので、体力はまだそれなりに」
「ああ……実質運動部らしいね」
「運動量は違いますが、そうですね。コンクールに向けての移動もあったので、乗り物に慣れているのかもしれません」
なるほどと納得する私に「先輩こそ目を回しちゃだめですよ」と釘を刺される。やっぱり子供扱いしていないか。
エスカレーターに乗りながら、書店フロアを見たいと言うと、じゃあ自由行動しましょうかとくじらくんは携帯を開いた。
「……ご両親はなんて?」
その画面に、彼は僅かに眉根を寄せる。
「……中身までは、読んでいませんが、着信とメールが結構来ていて……。僕もこのフロアから出ないと思いますが、見つからなかったら連絡ください」
内容が読まれた様子もなく、携帯はポケットに仕舞われた。
くじらくんの感情は、小さな笑みの奥にあまりに曖昧に隠されて、彼が本来表したのだろう眉や目尻の動きに鍵が掛かってしまった。
規則正しい迷路のように並んだ、広い本棚に吸い込まれて行くくじらくん。
今ならまだ、ちょっとした家出で済む時間だ。
彼が帰りたいと言ったなら、それも自由だろう。
○ ○ ○
「こういう大きな本屋さんって良いですね。非日常的な感じがして」
くじらくんは楽しげに報告してくる。お互いに本は買っていないようだが、それでも眺めているだけでも飽きないものだった。
一時間ほど過ぎていて、昼食を摂ろうと再び外へ出る。ついでなので少し観光しようかと話すと、大型レコードショップに行かないかと提案される。
「ん? なんで?」
「先輩よく音楽聴いているので。好きなのかなって」
「ああ……うん、でも置いていないかもしれないし」
「海外のインディーズとかですか?」
「そんなところ、かな」
実際に店頭で見たことはないのだし、この炎天下で少し遠い所まで歩くのは気が引けた。
「良いじゃないですか。僕も行ってみたいですし、お昼を探しながら観光も兼ねて」
にこにこと手を引かれ、溜息が漏れる。
まただ。くじらくんは落ち込むと、反動か誤魔化しか、妙に明るく振る舞う。また潰れないとよいけれど。
避暑地のカフェに寄ってお昼と甘味を補充しつつ、巨大レコードショップを二人して見上げながら入った。
「あった……」
びっくりである。
それに各ジャンルに、スタッフがお勧めのコーナーを作っているらしい。Belugaに、|Sternchneckeまである。エレクトロニカのコーナーは、他にも私の好きなアーティストも知らないアーティストも並んでいた。
胸の高鳴るのを感じながら、視聴ボタンを押して、イヤフォンを耳に当てる。夢の中を音で表現したならこんな具合だろう、クジラが歌うようなドリーミーなボーカル。波の揺らぎに任せるような心地好い調べ。けれどどこか寂しくさせる。ああこれ、好きだなと思う。ミニアルバムのジャケットを改めて、名前を確認した。読みはVal、だろうか。アルバム名は〝52Hz〟
「ありましたか?」
いつの間にかくじらくんが隣に立っていた。
「うん。あった。あったよ、初めて。このコーナーは好きなアーティストも知らないアーティストもあって、とても良い、……なんだよ」
なぜか柔らかく微笑んだくじらくんに、つい警戒する。
「いえ。先輩すごく嬉しそうだなぁって。そんなに楽しそうなの初めて見たかも」
「……」
「僕も聴いてみて良いですか」
なんだか不服な気分になりながら、無言でイヤフォンを渡す。好きなのどれですか、今聴いていたのは?など質問しながら、彼は機械を操作する。
「吹奏楽部だったって言いましたけれど、」
一通り静かに聴き終えて、くじらくんはイヤフォンを外す。
「僕にとって音楽は、特別な思い入れがあったり、日常的に意識する対象じゃありませんでした。コンクール用の課題曲とか、流行っている有名な曲とかは覚えたんですよ。必要だったし、誰かとの話題にもできるから」
「だけど」と先程私が聴いていた〝52Hz〟を手に取って、くじらくんは笑った。
「こういうの、なんか良いですね」
彼はそのままレジで会計を済ませて、私に商品を渡して来た。
「待てまて、どういうこと」
「あ、ラッピングしてもらえば良かったですね」
「からかうなよ……いやだからなんで」
「元々何か、お土産にして貰おうとは考えていたんですよ。あんまり高くなかったので気にしないでください」
「気にする」
だって、くじらくん。
「受け取ってください。僕、今すごく楽しいから。そのお礼です」
くじらくんが笑うから、頷くしかできなかった。
「……わかった。ありがとう」
私の音楽再生機器はCDプレイヤーではないから、帰るまでアルバムを聴くことができない。
他にどんな曲が入っているのかも、知らないのだよ。くじらくん。
○ ○ ○
鉄道を乗り継いで船着場へと向かい、フェリーに乗船した。
船内で一泊とりながら、ここからは二日掛けて北海道へと向かうのだ。
「横になるのは久しぶりな気がする」
ふかふかベッドに寝転ぶと、身体が軽くなった気持ちになる。
「一番安いコースは取れませんでしたが……ゆっくりできて、結果的には良かったかもしれませんね」
「うん」
寝台の端に腰掛けたくじらくんが、寛いだ様子で応える。お風呂に入ってリラックスできたらしい。
二番目に安いこのカプセル型の寝台は、個室というスペースの有難さを改めて感じる。
広間に集い、布団を並べるツーリストが希望だったが、夜行バスから続いて集団の中では眠れたか分からない。
「……次に陸地に降りたら、北海道だよ くじらくん」
うとうとと狭くなっていく視界の中で、くじらくんがほころぶのが見えた。
「おやすみなさい」
「……うん。おやすみ」
そっと手が重ねられ、離れて、カーテンが閉まる音がする。
暗闇には何もない。静寂に、深く沈んでいく。意識が落ちるその直前に、遠くでクジラの鳴くような歌声が聴こえた気がした。