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07. 生きていたかった

 赤いヴェールの向こうに、女の子がいた。

 水槽内を鮮やかに泳ぐそれらより、彼女はその一匹を見つめていた。腹を見せて浮かぶ、死んだ金魚を。

 彼女の瞳が、金魚から僕に移り変わる。


「窒息しそうな顔してますね」


 ああこのひとは。このひとはきっと、僕と同類なんだって、思った。


「君ほどじゃあない」


 ぷく、と吐かれた泡が、彼女のほっぺたを滑る。逆流する涙みたいに。

 後に千重波(ちえなみ) 織歌(おるか)と名前を知る先輩と僕は、そうして互いを認識した。



● ● ●



 先輩と僕は、顔を合わせてもあまり多くは喋らない。

 その静けさと均等に保たれたぬくい水温は快適で、たぶん僕は寂しかったのだろうし、先輩もそれを許していた。


「……何してるんです?」


 道の白線の上だけを歩く先輩に、怪訝な目を向ける。


「白い部分が安全地帯なんだ。黒いとこは海で、落ちたらうようよいるサメに大変モテる。小さい頃やらなかった?」

「そういう遊び自体は知ってますけれど、そんな命懸けのモテ方は嫌ですね」


 時々この人は突拍子のない発言や行動をするから、ちょっと反応に困る。

 順調に渡っていた先輩の歩みが止まった。白線が経年劣化で掠れて、ジャンプしてギリギリ届くか届かないかの途切れ方をしていた。

 気合い十分な先輩は、両腕をぶんぶん振って遠心力を高めようとしている。気が抜けるなあ。


「ほら、掴まってください」


 先輩はぱちりと瞬きをして、差し出した僕の掌を見つめた。そして僕の目に視線を移して、にんまりと笑う。


「信頼してるぞ くじらくん」

「大袈裟――です」


 しっかりと繋がれた手を引く。先輩の身体が安全地帯から浮かび、海を飛び越えて行く。

 トンと軽い着地音を立てたスニーカーは、白線の上。


「やったなくじらくん。お蔭で生き残れたよ」

「良かったですね」


 意気揚々と白線の上を歩いていた先輩は、その後飛び出した野良猫に驚いて、サメに食べられた。


「また手を貸しますから」

「うん……」


 がっくり項垂れながら、こくんと頷く先輩。大きな子供だ。

 そんな人だけど。なんだかこの人とは、こうしてふたりなら乗り越えられそうなものが多いんじゃないかって、そんなふわふわした思いがした。


「ねえくじらくん」


 だから何かあったらしい先輩の要求にも、失望はしなかった。足りない酸素なら、僕のを分けてもいいと思えるくらいには。

 あんなに奇妙な行為でも、先輩とならもしかしたら分かるかもしれないなんて、淡い期待。

 息を継ぐようなキスだった。唇から伝わる温度が水が混ざり合うみたいに浸透していく。先輩はここにいて、僕もまたここにいた。意識の確認。

 先輩の皮膚は柔らかくて、当たり前だけどAVより余程生々しい。一時期焦り、よりも、半ばヤケくそで観まくったAVは、世の中広いなと探究心に関心したし、面白くもあったけれど。

 結論として、そもそも僕には性的欲求がないと知った。男にも女にも動物にも。先輩に対しても、それは同じく。

 彼女はそれ以上は求めなかったし、僕もそれで良かったのだと思う。理解できない僕たちに、それはきっととても寂しいことだから。

 それでも、それでもやっぱり、先輩と手を繋ぐと、心地いい。そう思える。



● ● ●



 先輩からメールが届いていた。

 風邪を引いた時以来の通算二通目のメールだ。不審に思うと、別れ話みたいな一言だけが書いてあった。

 なんだか笑えて、急速に何かが冷えていく。どうでもいい。あちこちで響く蝉の声が煩わしい。


「どうしたん依真(いさな)……」


 家に連絡を終えた水陰(みかげ)さんが、心配そうに言う。

 買い物に付き合って欲しいと、なぜか強引に連れ出されたけれど、本当にただショッピングモールを見て回っただけだった。相談事でもあるのかと思った僕がバカだ。


「水陰さんには関係ないよ」


 だめだイライラしてしまう。

 何か言う前に、帰らないと。置いて行ってしまう自覚をしているのに、歩く速度が上がっていく。


「〝水陰さん〟って呼ぶようになったの、いつからやっけ。私を名前で呼ばんくなったよね」


 そんな僕の背中に、彼女は言葉をぶつけた。刃物のような鋭利さに足が止まる。蝉、うるさいな。


「中二までは、依真はみんなに優しくて、私のことも今みたいに避けとらんかったよ」

「……水陰さん」

「幼馴染やもん。一番仲が良かったとも思っとる」

「水陰さん」

「なんで、いつからそう(・・)なってしまったん?」


 そうなってしまった(・・・・・・・・・)

 いつからだって? そんなの。

 ぶちぶち、掴んだ前髪から抜けた髪が指に絡まる。気持ち悪い。気持ち悪い。うるさい。蝉も、なにもかも。


「ねえ、私、何がダメやったかな?」

「お願いだから……」

「あの時もっと傍におったら違った? 同じ高校に行っとったらまた隣を歩けたん?」

「……やめて……」

「やめたくない! 依真を好きな気持ちをやめたくない!」


 ああ、もう、


「私とあの先輩どう違うん? 私やったらだめなん? 依真を一番理解しとるのは、」


 限界。


「そういう、さあ、理解してくれなんて言っとらんやん」


 いやだ、言わせないで。言わないで。


「なんなん? 俺が好きなら、それでどうしたいん? 抱かれたら満足してくれるん? しないやろ? だって俺は水陰さんと同じ気持ちになれんもん」


 いやだ。母さんみたいな口調。


「ただ〝普通〟に生きたいだけなのに、俺だって嫌なんよ、好きとか嫌いとか、正常とか異常とか優劣とか世間体とか、これ以上どうしてほしいん? みんなが俺に求める〝当たり前〟を、僕だって求めとうのに!」


 蝉が、耳鳴りみたいにずっと。騒いでいて。僕の声も存在も、掻き消してくれたらよかったのに。

 酸欠で変な音の咳が出る頃には、喉がひりひりして、色んなものがむちゃくちゃだった。

 蓄積された彼女への不満も、彼女には無関係な鬱憤も、水陰さんを悪者にすることで吐いてしまった。彼女が涙を流しているのに止められなくて、断片的に思い出せるだけでも醜悪な、汚い言葉で罵ったことに背筋が凍る。

 水陰さんは何も言わず静かに泣いていて、もう暗いのに、送ってやることもせずに僕は逃げた。僕が招いた結果から逃げた。


「……」


 家のドアを開けると、ふたりが言い争う声が聞こえて来た。耳を塞ぐ。そんなの無意味だ。以前は僕の前では止まっていた喧嘩も、今ではもう部屋にいようと関係なく起こってしまう。


「……て、……めて……」


 これは罰だ。ぜんぶ僕が悪い。

 水陰さんを泣かせてしまったのも、この人たちの仲が悪くなったきっかけも、僕が普通じゃなかったから。

 わかってる、僕がいなければ良かっただけなんだって。わかってるのに、


「……ッやめてって、ば!!」


 ガラスの割れた音がした瞬間、僕の何かも弾けた。靴も脱がずに廊下に上がって、暴れたんだと思う。

 父さんにぶん殴られて、物凄く怒っていて、母さんは僕を怯えた目で見て泣きながら罵倒した。

 あれ。もしかしてふたり、僕が勘違いしているだけで仲が良いのかな。共通の敵を前にしたら人間は協力的になるのかもしれない。


「――! ――――!! 出て行け!!」


 すごく言われたくない言葉を言われたのに、それが何なのかは分からない。口の中が血の味がして、色々痛い。


 ああ僕は、また、失敗した。

 違うよ、最初から取り返しがつかなかった。

 逃げる。逃げたい。どこにも行けない。

 許されたい。


 みんなが好きだという音楽を聴いたら。みんなが夢中になっている映画を観たら。みんなが面白いという芸人のネタに笑ったら。みんなが目指す学校へ進学したら。

 みんなが結婚して、子どもを育てて、それがこの世でもっとも幸福であり、義務だというのなら。

 すべてクリアできたら、僕はみんなの言うフツウの人間になれるのか。


 みんな(・・・)って、誰のことだよ。

 わからない。僕はいったい何に許されたいんだ。


 がむしゃらに走ったつもりで、AQUARIUMにいた。閉店しているのに。会えもしないのに。

 どうして先輩のことが思い浮かぶんだろう。


「……?」


 人の気配がして顔を上げると、そのひとの後ろ姿。

 誰かの前で泣くことが怖かった。それは死ぬ覚悟を必要とするから。涙をみせることは、無防備に心臓を曝すことだ。痛みも、苦しさも、汚さも、すべて溢れてしまう。

 だけど僕は手を伸ばして、その背中に縋った。

 優しい指先は僕を拒絶することなく、頭を撫でてくれた。



● ● ●



 警察から逃げてみたり、ラブホに入ってみたり。もういっかい、キスをしてみたり。息を継ぐみたいに、少し苦しさが紛れて、少しくすぐったいキス。

 普通の友達みたいにだらだら過ごして、そうしてなんだかたくさん笑った。こんなに笑ってばかりの日、いつぶりだろう。

 なんで笑えるのだろう、僕なんかが。ついさっき傷付けた女の子がいて、ほっぺただって痛むのに。


「恋をしたら世界が変わるって、言うじゃないですか。そうしたら、もう少し楽だったり、したんでしょうか」


 ベッドに潜ると、先輩は僕の手を取って繋いでくれた。暗くて表情までは見えないけれど、先輩の声と温度がある。うとうとしてくる。


「私たちの関係ってさ、極端な言い方をすれば代わりが効くじゃない」


 代わり。僕の代わり。先輩の代わり。


「でも恋愛だと〝その人〟じゃないとダメなんだろうね。……お互いに、辛いね」


 僕が先輩じゃない人と、こうして寄り添うことを想像してみる。上手くイメージできなかった。

 先輩が僕じゃない人といるのは、なんとなく分かる気がした。それは先輩よりも年上で、余裕のある大人だ。


「……うん。だけど、僕は……うまく言えませんが、会えたのが先輩で良かったって、それはやっぱり、代わりが効かないんじゃないかって思います」

「そうだね。くじらくんは可愛い後輩だったから甘やかしてやれる」

「うん。甘やかしてください」


 僕と正反対のそんな人なら、先輩を甘やかしてあげられるのだろうけれど。

 考える。先輩と僕を言い表す、最適な言葉が見つからない。家族は違う。恋人も違う。友達ほど気安くはあるけれど、誰よりも信頼ができる。

 たとえば、同じ戦場でたたかう、戦友のような。この行き止まりの水槽で、足掻いて、もがきながら、同じ怪物を前にしている。フツウという怪物の恐ろしさと。


 僕は大人になれるほど人生経験も余裕もないけれど、戦友としてできることはないかな。僕はこのひとに、何をしてあげられるだろう。


「このまま北海道に行っちゃおうか」


 そう考えていると、先輩は言った。


「……行けるでしょうか?」


 このどうしようもない行き止まりから


「行けるよ。あとは君次第だ」


 その先はあるのかな。


「……行きたい」


 繋いでくれる手があたたかい。


「……いきたいです……」


 先輩、僕ね。

 生きていたかったよ。

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