06. 金魚水葬
足を止めると、じゃり、と靴底が擦れた。
千切れそうなほど心臓が脈打ち、意地汚く肺は酸素を求めて、嫌になるほど私は生きている。
目の前の先客も。
閉店したAQUARIUMの前で、膝を抱えている少年がいた。不規則な嗚咽に震える肩が、知っているものより細く見えて、無性に抱き締めてやらねばいけない気持ちになった。
だけど手が届く距離まで来ておいて、会わないでおこうと言った手前、あまりに都合が良過ぎる。
シャッターの降りた店は、中の様子が窺えない。泳ぐ緋色はどこにもなくて。
私は結局声を掛けられず、彼から目を逸らして立ち去る選択をした。それが正しいか間違いかはわからない。
「――……い」
だけど、彼はそれを認めなかった。
「……せ……ぱ……」
お腹に巻き付いた腕が震えている。
「せんぱ、……せんぱい、」
「……うん」
浮かんだ泡が弾けるみたいに、私のどこかで彼の声がぱちぱち弾ける。見られたくなさそうな気がして、振り返ることはしないでおいた。
○ ○ ○
くじらくんが落ち着いて来たところで、移動を始める。手を引かれながら時々すん、と鼻を啜る様子は小さい弟でもできたようだ。
どちらも何も喋らず、行く宛もなく町を練り歩く。
「……家、帰れる?」
「……」
顔を俯かせたまま、くじらくんはゆるゆると首を振った。私も同意する。
けれど油断できない。補導される危険は高く、いつまでもこうしているわけにもいかなかった。
「向こうにラブホあったよね。そこ泊まる?」
「……ごめんなさい……お金、あんまりないです」
「いいよ。持って来ているし」
「……身分証とか要ったり、しません? 入れます?」
「え? 要るものなの? ……ああ、じゃあ他を探してみようか」
「あ、いえ、嫌なわけじゃないんです」
抵抗があるのかと思ったが、どうも遠慮しているらしい。お金は返すからと念を押されて苦笑する。
「そこの二人、」
そうと決まればというところで、緊張が走る。反射的にくじらくんが、繋ぐ手にきゅっと力を込めた。
振り向くことなくその手を引く。建物の隙間の細い路地を縫って、追い掛ける声を置いて、疾走する。
それとも別に、ふっと、息を抜く音がして、見ればくじらくんが笑っていた。くすくす、でもすぐに耐え切れないとばかりに声を出して笑い始めた。そんな彼を見るのは初めてでびっくりしたが、私もつられてけらけら笑いながら走るという変な事態となる。
「ふ、ふふ、おっかし……も、何がおかしいかもわかんない……」
「はー、お腹痛いな、見つかる前に入ろ」
「うん。……ふふっ」
くじらくんはまだくすくす笑っている。一度笑うとなかなか収まらないのかもしれない。
○ ○ ○
ラブホは受付などもなく、空いている部屋を指定するだけで良かった。思ったより金額も安くて「これなら足りる」からと二人で半分お金を出し合った。
部屋も想像より普通だ。少しベッドが広い程度で、ビジネスホテルと言われても違和感がない。バスルームがガラス張りなことを除けば。
「汗掻いたからお風呂使っていい?」
「はい」
「一緒に入る?」
「はい……え?」
くじらくんは豆鉄砲でも浴びたようにぽかんとして、それからなんとも言い難い面持ちで一歩引いた。獲って食われるわけでもあるまいに。
「顔腫れてるし、冷やした方が良いだろうからさ」
「……はい。僕は、後でいいので」
「なんだ。照れているのか」
「違います」
即座にきっぱり否定を入れたくせに、くじらくんはごにょごにょと口ごもった。
「……だって、なんか髪とか洗っている姿って、無防備で間抜けっぽくて、嫌じゃないですか……」
「そう?」
「そうです」
片手で腫れたほっぺを隠しつつ、早く入れとばかりにぐいぐい背中を押された。まあいい。
一応カーテンが付いていたので引いてから入浴する。ボディソープが傷口にしみた。さっぱりしてお風呂から出ると、くじらくんは暇そうにAVを観ていた。
「やっぱりそういうの映るんだ?」
「地上波と映画チャンネルがありました」
と、番組表を渡してくる。知っている映画もあるけれど、全体的にB級臭い。オーナーの趣味だろうか。
「ご飯食べた? 何か買っておけば良かったな」
肌色がくんずほずれしているのを観ていると、お腹が空いてきた。
「メニュー表もありますよ」
「ほほう。24時間いつでも注文可能とは心躍る」
魅惑の夜ラーメンに唐揚げとポテト、ジュースとチョコレート菓子を注文して、待つ間にくじらくんもお風呂を済ませた。
「この体勢辛くないのか」
「競技って感じですね」
「声どっから出しているんだろう」
「口意外から出されるのはちょっと」
「君がボケてくれるとなんか面白いな」
「僕はいつでも真面目ですよ」
「こういうのって一日で全部撮影するの?」
「どうなんでしょうね? でも撮影ですから、リテイクとかもあるのかな」
「えー。何回もこれを?」
「プロですね」
「枯れる」
だらだらとAV鑑賞会をしながらポテトをつまむ。二人して患部に氷(ジュースから取り出した)を当てている図は間抜けだけれど。気兼ねないので割と楽しい。
「だけどこういうのを、辛いとも感じず、繰り返しできるのが普通なんですよね」
しみじみとした響きに目を向けると、油で汚れた指を舐めながら視線を彷徨わせている。ティッシュを渡すと彼はどうもと受け取った。
「キモチイイから?」
「それもあるでしょうし、それこそ愛情だったり確認だったり、色々あるみたいです」
「ふうん」
「気持ち良いものですか? 前の。触らせてもらった時」
「……あんまり。自分の意図しない感覚が奇妙だし、胸は皮膚と脂肪だし」
でしょうね、とくじらくんは笑ってチョコ菓子を口に入れた。
「けれどくじらくんとキスするのは、嫌いじゃないかもって思った」
かちりと視線が噛み合う。眼鏡を掛けていない彼の瞳が私を映し、距離を詰める。そっと唇に落ちた柔らかな温度。チョコレートの甘い匂い。やはりふたりとも目は閉じなかった。
「……くすぐったい」
そう言って、くじらくんは子供っぽくはにかんだ。
「恋をしたら世界が変わるって、言うじゃないですか」
照明を消して、静寂に沈んでいるとくじらくんは言った。ぷかぷか泡をこぼすみたいに、秘密を教えるみたいに、ひっそりと。
「そうしたら、もう少し楽だったり、したんでしょうか」
「……ミカゲさん?」
「……随分酷いことを言いました。僕は何も返せやしないのに。そんな僕が、僕だって嫌で、……」
重ねた手を指を絡めて繋ぎ直すと、震える指もまた握り返した。
「私たちの関係ってさ、極端な言い方をすれば代わりが効くじゃない」
くじらくんは無言だが、同意はしているだろう。
「でも恋愛だと〝その人〟じゃないとダメなんだろうね。……お互いに、辛いね」
「……うん。だけど、僕は……うまく言えませんが、会えたのが先輩で良かったって、それはやっぱり、代えが効かないんじゃないかって思います」
「そうだね。くじらくんは可愛い後輩だったから甘やかしてやれる」
「うん。甘やかしてください」
などと笑っているけれど、たぶんくじらくんは甘えるのが下手なんだろうなと思った。
「このまま北海道に行っちゃおうか」
「……明日から?」
「そう。親がいない内に一旦家に戻って、準備してさ」
「……行けるでしょうか?」
「行こうよ」
「……うん。行きたい。……いきたいです」
決まりだと笑うと、くじらくんも微笑んだ気配がした。
おやすみと言い合って暫くして、押し殺した嗚咽が聴こえてくる。柔らかい髪を撫でて抱き寄せて、そうして私たちは眠りに落ちていった。