05. いきどまり
見上げた空に星はない。
夜が深まる公園に、蝉の発する音ばかり響いている。遊具のひとつもない小ざっぱりした広場には、騒がしいそれすら虚しいような気がした。
「あだっ」
ベンチにもたれて上を向いていた無防備なおでこに、思いの外遠慮なく冷たい物が乗せられた。ゴッていったぞ。ゴッて。
「なにするんだ」
「こっちが言いたいですよ。今何時か分かりますか」
「にじゅうさんじ」
「ご名答。せめてコンビニとか、人気のある場所を選んでください」
私の隣に腰を下ろしながら、私のおでこにぶつかった凶器、の入った袋を開封するくじらくん。説教内容が中途半端だ。
「君でもこんな時間にいるんだね」
「……勉強の気が散って、気分転換に」
くじらくんは頭が痛そうに眉根を寄せながら、二つ入りのチューブアイスを一個くれた。やったーこれ好きなやつ。揉むまでもなく丁度いい硬さになっていて、蒸し暑い中でひんやりと喉を通るチョココーヒー味が爽快。
「いつもこんな時間までいるんですか」
「ここまで遅いことはそうないよ」
「そうだとしても、自治体の見回りも毎日じゃないですし、深夜帯はさすがにどうかと思います」
くじらくんがお説教モードだ。彼は私のオカンだったのだろうか。
「まあ、うん。気をつける。この間知らないお兄さんに誘われた時はさすがにちょっと焦ったし」
「なんですかそれ聞いてないですよ」
「初めて言ったもん」
「おバカっ先輩はなんかふらふらしてて簡単に付いて来そうな雰囲気あるんだから少しは何とかしてくださいよ、そうやっていつかあっさり連れてかれるんだ……っ」
先輩をおバカ呼ばわりしたかこの後輩。思い切り嫌そうに寄せられた眉間を押さえて、心底溜息を吐かれた。何とかしろって、私だって簡単に付いて行きそうなどという不当な評価は嫌だ。野良猫だって人を選んで媚びるというのに。
「イライラしてるのを私にぶつけるなって……」
「……、すみません……」
「心配してくれてるのは分かったよ」
くじらくんはハッと眉間の皺を解き、申し訳なさげに俯いてしまった。ふう、と私も息を吐く。
「お姉さんがお話聞いてあげようか。暇だし」
「どこにでもあるつまらない話なので、お気持ちだけ受け取ります」
チューブアイスをちゅうちゅうしながらくじらくんはつんと答える。
お互いプライベートも愚痴もこぼさず過ごして来たが、いざ聞いてみるとこれだ。
「珍しく先輩ぽい振る舞いをしたのに後輩が冷たい」
「現在進行型で悪影響の塊が何言ってるんですか不良先輩」
「ほう自分は不良じゃないと。いーけないんだー生徒会なのに深夜徘徊する悪い子はせんせーに言ってやろー」
「やーいやーい不良先輩ー残念ながら僕は真面目な良い子なんで信用されてますー言うだけ無駄ですー」
「この猫被りめ。パーカー脱げよ」
「不良菌が感染りそうだからやめてください」
ハグしてパーカーのフードを目深く引っ張ってやった。「もーっ」とか言いながらむすくれている。感染したな。ご愁傷様だ。
彼は私が家に帰らないこと自体は咎めない。咎められないだろう。自分の首をわざわざ締めたがるほど歪んでもいないのだ。いっそそこまで吹っ切れたら、この真面目少年も多少は息をし易かったかもしれないが。
彼は決して救難信号は出さない。
「なー、くじらくん」
「はい」
「私が男だったら、君はそこまで心配しなかったか」
「……そうかも、いえ、そうですね」
生存戦略として、または捌け口として、分かりやすく性とは消費されるものだ。そこに相手の性別や年齢は問わない。単純に多数派の話だ。女という容器が手っとり早いのは、一般的に弱い、または視覚的な鑑賞対象とされているからに過ぎない。額縁の中のモデルに女が多い理由と同じで。
自分も消費される対象になり得るというのは、言い難いものが渦巻く。不快ともいえるそれ。
「……でも、先輩が男の人だったら、」
空になったチューブの口を噛みながら、緩みかけた靴紐を眺めて彼は呟いた。
「その辺で寝落ちしたり、ここら一帯の野良猫手懐けて集会に参加してみたり、ついでににゃーにゃー猫語使い始めたりして、今より堂々と不健康生活やってそうだから、やっぱり心配は尽きません」
そう言って、仕方ない子供でも見るように小さく笑って見せる。なんだか生意気なので、もう一回パーカーのフードを降ろしてやった。
○ ○ ○
薄々、危機感は抱いていたのだ。
けれどくじらくんと私の間柄は、激流のような魚の群れから振り落とされた時、密やかな水草の下を見つけたようなもので。
群れから外れたら生きていけない世界で、その場所だけは安全だった。そういう、傷を舐め合うふたりだ。
【もう会わないでおこうか】
そう伝えるのに、メールという手段を選んだ私は臆病者だ。
眼鏡の奥の、色素の薄い瞳は繊細で、私はその眼差しにきっと耐えられない。
【そうですね】
数時間後に届いたくじらくんからのメールは、理由を問うこともなく五文字で済んだ。
恋人でもないのに、なぜこんな別れ話みたいなことをしているのだろうと可笑しくなった。
――どうしてあなたなんですか。
偶然、本当にただ偶然だったのだろう。ミカゲと呼ばれていた女の子と、昨晩帰り道で会って、少し話をした。
最初は学校のことだとか、探り探りの当たり障りない話だった。そしてくじらくんとの出会いを訊かれ、彼の話になる。
――私の方が、依真と過ごした時間が長い。
たぶん、いや、これこそが。
――私の方が、依真を理解してあげられる。
恋と呼ばれるそれなのだろう。
アサナギ イサナはこれほど彼女に想われながら、それでも。
――……そう思って、いたのに。
彼女の望むものは与えられない。
可哀想なほどのミカゲさんに、だからといって、私だって何もできるはずがない。
手っ取り早い方法が遮断だった。面倒なのだ。自分の身は自分で守らなければいけない。
碇くんとも、そうして距離を置いた。聡い彼はごめんと曖昧に笑って、群像のひとつに戻っていった。
遠退いていくミカゲさんの背中をぼんやりと見送り続けて、ふと、足はいつも左右どちらから出すんだっけ、なんて考える。
歩けたらどちらでもいいんじゃないだろうか。履き慣れたスニーカーが足枷みたいに重たかった。
○ ○ ○
夏休みも残り一週間を切った時、親にバイトのことがバレた。
ご丁寧に仕事先にクレームまで付けてくれたらしい。私の意思で働き、私を雇ってくれた場所だというのに。
母と怒鳴り合うのも日常とはいえ、今日は私にも余裕がなかった。打たれたことで掴み合いになり、常に何かが壊れ続けて家はぐちゃぐちゃだ。誰が掃除すると思っているんだよ、とまたカッとなる。母の金切り声は不愉快で仕方なかった。もうやめて、やめて、お願いだからとしくしく蹲る。いつもそうだ。最後は私が悪いかのような気分にさせるのはやめてくれ。
うんざりだ。いつだって子供は親の都合に振り回される。
習い事だって引っ越しだって、勝手に決められて。それでも熟して来てやっただろう。自分の希望を「私のため」という魔法で塗り固めてきたのは誰だ。
家を飛び出すと、少し霧立っているのか、しっとりと水気を含んだ空気が重苦しかった。
走る。だけどどこに向かえば良いのかわからない。
最初から行き止まりだった、と彼は言っていた。
そうだ。私たちに出口は無い。出口が無いのならせめて、その水草の下だけは、何も介入しないでほしかった。