04. 52hertz whale
夏休みはバイトに費やそうと思い、個人経営のうどん屋さんに雇ってもらった。
昼食時はさすがに忙しい時もあるが、人も雰囲気も落ち着いていて好ましいお店だ。
「入ってもいいですか」
いらっしゃいと振り向くと、くじらくんが引き戸の合間からきょろきょろと店内を見渡していた。バイトを始めたことは教えたが、彼がお店に来るのは初めてだ。
「どうぞ。お好きな席に」
「はい。長居はしませんので」
空いてはいるが、夕食時なので家族連れが続くこともある。彼の性格上でも、だらだらと居座ることはないだろう。
「いいなあ、バイト」
注文のきつねうどんと五目おにぎりを出すと、くじらくんはぽつりと独り言をこぼした。
「できないの?」
「……親が嫌がるので」
「うん。家も反対されるのが目に見えているから、言ってないや」
くじらくんは僅かに驚いたように私を見上げる。学生のバイトなんてそんなもんだよと笑って、奥に引っ込んだ。
彼は宣言通り、食べ終えるなりすぐに会計に立った。ここおいしいですねと満足気である。そうだろう。しかも麺は手打ちでもちもちだ。
「花火大会行くの?」
お釣りを用意していると、くじらくんはレジ横の花火大会の告知ポスターを眺めていた。
「いいえ。最後に観に行ったのもいつだったか憶えてないくらい」
「私も随分行ってないな。人も多いし」
「そうですね。花火自体は好きですが」
ごちそうさまですとお釣りを受け取り、くじらくんはパーカーのフードを被って去って行く。
彼の目元が少し赤かった理由など、私が聞く必要もない。
○ ○ ○
「アサナギー花火やろうぜー」
「わあ。先輩の思考回路、たまに謎過ぎて混乱する」
そこに花火があったからだよ。
仕事帰りにコンビニへ寄ると、暇そうな後輩がいたので捕まえた。
「よいではないか。花火好きと言っていただろ。付き合いなよ」
「おーぼーな先輩様だなあ。ていうか僕の名前、憶えていたんですね」
などと言いながらも、くじらくんは素直に付いて来る。水を入れたミニバケツと袋をガサガサいわせ、場所を探して練り歩く。
「失敬だな、名前くらい。今思い出したよ」
「偉いですね。五歳くらいの子なら頭を撫でて高い高いしてあげたいくらい偉いですね」
「む。じゃあ君は私の名前を言えるかね? フルネーム漢字付きで」
「千に重なる波、歌を織るで千重波 織歌先輩」
「なんでこんな画数の多い字を憶えているんだ。全五十二画だぞ。テストの度に苦労する子供の姿に涙するといい」
「点数はともかく名前欄には花マルをあげたくなりますね」
「遠慮せずもっと褒めてよいぞ」
「褒めているのは小学生の先輩なので」
冷めた様子で言うくじらくん。今時の若者には情熱が足りないと思う。
暫く徘徊した結果、無難に公園に落ち着いた。公園といっても遊具はなく、ベンチと謎のオブジェがある程度だ。人もおらず、集うのは電燈に寄って来る虫くらい。ぱちんと時々弾かれている。
「あ、それ捨てちゃダメ」
「どうするんですか?」
「貸してみたまえ」
一緒に買ったラムネを開けようとすると、くじらくんはキャップを袋に捨ててしまう。飲み方を知らないらしい。
飲み口に玉押しを当てて、ぐっと力を込めるとビー玉が落ちる。しゅわしゅわと泡立つラムネに「おおー」とくじらくんは興味津々に瓶を見つめた。
「飲む時は、この窪みにビー玉を嵌めると飲み口を塞がない」
「へえ……。なんでビー玉が入っているんです?」
「なんだっけ。それが蓋の役割をしていて、密閉力があるから炭酸が抜け難いとかだった気がする。あとはラムネのイメージ、とか」
よく知ってますね、と子どもみたいに純粋に感心するアサナギ少年。なんだか和むなこういう反応。
「ここに越して来る前は、近所に駄菓子屋があってね。よく買ってた」
「地元じゃないんですね」
「うん。そこの冷蔵庫の設定温度が低くて、飲み物が凍る寸前くらい冷たくて、夏のラムネは最高だった」
ここよりもうちょっと田舎だった風景が、今では懐かしいという感傷に変わってしまった。別れた友人たちは元気だろうかなんて、住所を教えなかった分際で言えたものじゃない。
「どれからするー?」
「爆竹はやめておきましょうか、音とか。しゅばーってなるやつくらいなら大丈夫ですかね」
しゅばーってなる手持ち花火は、ほんとにしゅばーっと煙と勢いが凄まじく、しかし手放す訳にもいかず二人してびびる。火薬の量を間違ってないか。爆竹よりご近所迷惑になってしまった気がする。
「なんかこれ、三角のあれ被りながらしたいですね」
「白装束とか着て」
「そう」
名前の通り人魂というらしい花火は、なかなかそれっぽく揺らめいて気に入った。
「線香花火の奥ゆかしさよ」
ぱちぱちと松葉状に散る火花は、派手さはないが可憐だと思う。
「線香花火が一番好きです。静かでひっそりと終わるところとか」
柳のように垂れた火が、最後の輝きを放ち、そして散る。水に沈んだそれを、ふたりとも何も言わず見つめていた。
「僕のこと、どうして〝くじら〟って呼ぶんですか」
花火の袋を探りながらくじらくんは尋ねた。
「嫌だった?」
「いいえ。今まであだ名を付けられたことがなかったので」
もう一度線香花火をそれぞれ持って、くじらくんがライターで火を灯していく。
「んー。ひとつは名前を憶えるのが苦手で、何かと紐付けて憶えているから。イサナは古名で勇魚、クジラのことだから、それで」
「なるほど。つまり本当に僕の名前を忘れていたと」
「だってー。学年も違うのにこんなに縁があるとは思わなかったじゃないか」
「それはそうですけれど。コミュニティにおいて、人の名前は憶えておくと円滑ですよ」
「怒るなよう」
「別に怒ってません。ふたつめは?」
拗ねてるじゃないか。
咲いては散る花が小さくなっていき。
「52hertz whale. 私の好きなくじらの話に基づいた、親愛を込めて」
そうしてまた果てる。先に私の線香花火がしゅんと落ちて、追いかけるようにくじらくんの火種も水に落ちた。
「あ、」
と声を出したのは同時で、懐中電灯の明かりがこちらを向いたからだ。自治体である。夏休みとあって、夜は街の自治体やお巡りさんが警備することがあるのだ。
遅くならないこと。親御さんに心配掛けないこと。と叱られつつ、大人しく花火を片付けて家への道を歩く。
すっかり温くなり爽快感を失ったラムネを飲み干し、汗をかいた瓶の蓋を回した。
「取り出せるんですね、それ」
「初ラムネ記念」
くじらくんはビー玉を受け取り、しげしげと眺める。うーん、Tシャツをかませたので、お腹の部分が濡れてちょっと気持ち悪い。
「じゃあ、僕が初ビー玉を取った記念」
ちょっと苦戦してくじらくんもビー玉を取り出し、透明でキラキラしたそれをくれた。
「記念なんだから自分のにすればいいのに」
「そうですね。なんとなく、捨てても良いですし、持っていてくれても良いと思って」
彼はそう言って、掌に転がしたビー玉をポケットに仕舞った。
私は受け取ったビー玉をかざしてみた。閉じ込めた夜空に星はなく、透明にその現実を映すだけだ。
「ねー」
「はい」
「名前で呼んだ方がいい?」
ぼんやり靴の先を見ていた目が私を映し、柔らかく細まった。
「いいですよ、くじらくんで。僕も気に入っているから」