03. チツジョ
「なんだか、意外だね」
緋色の群れの向こうで、くじらくんは鞄から取り出したタオルを被る。髪が少し濡れているようだ。
規則的な水槽のポンプ音の他に、よくよく意識すれば雨の音が混じっていた。
「これでも落ち込んでいるんです。あまりいじめないでください」
「君は忘れ物とかしないだろうと思っていたからさ」
「……そうでもないですよ」
雫の付いた眼鏡を外す彼は、どことなく拗ねて見えた。
雨脚は弱まりそうになく、また風邪を引いても何なので早めに帰ろうと伝えると、素直に頷いてくれた。
同じ傘の下を歩く事態になったが、かといって私たちに特別に変化はない。普段より肩を寄せ合っているとはいえ、その程度だ。
「肩濡れてるよ」
「先輩もでしょ」
気が引けるのか、持ってくれた傘が私側に寄っている。傾いた軸を直す。そうしていつも通りの多くも少なくもない会話と、早くも遅くもない速度の歩みを続けた。
「あ、」
と視線の先の人物が声を発したので、私も思い出すことができた。
くじらくんのマンション前で待っている人がいた。この間の女の子だ。こんにちはとにっこり笑う彼女に挨拶を返していると、
「なんで、いつも俺に連絡する前に行動するん?」
冷めた響きに、目の前の笑顔が消える。
「水陰さんなりに、気にしてくれよるの分かっとうけど……やめてほしい」
くじらくんの表情は怒っている風には見えなかったが、強い拒絶を吐き出す声は苦しげだった。
「ごめん」と笑顔を取り繕う女の子も、そんなくじらくんも何か痛々しく感じて、私はさっさとその場から離れた。
○ ○ ○
梅雨明けして一斉に蝉が騒ぎ始める頃、文化祭の準備も始動した。
自分のクラスは、体感型すごろくRPGを開催する。参加者は勇者、魔法使い、神官などに扮して魔王討伐を目指してもらうのだ。マントや帽子といった衣装を作る班、アイデアと教室の装飾を担当する班で作業を進めている。
「千重波、これ昨日言ってたやつ。聴いてみ」
「ありがとう」
準備のあれこれで、クラスメイトと話す機会が多くなった。その中でも碇くんとは音楽の趣味が合うと分かり、私が好きそうなCDを貸してもらう流れとなる。好みの系統が似ているのは良い。視野が広がる。
「ほんとさ、Beluga知ってる人……しかも同年代で同じクラスってすげえ偶然」
屈託無く嬉しそうに笑う碇くんに、そうだねと同意する。
『そういや千重波さ、いつも何か聴いてるやん。なん聴きよん?』
最初にそう話し掛けられた時、正直快く思えなかった。私が好むのは、所詮マイナーと呼ばれてしまうジャンルやインディーズだ。
なにそれ。知らない。やばい。彼らは自分の知らないものは、総じて〝よくわからないもの〟に仕分けして、距離を置いてしまう。
Belugaはアンビエント、フォークトロニカに分類される静寂な曲を作り、架空言語で囁く女性ボーカルが幻想さを引き立てる。私が最も敬愛するアーティストだった。
『マジで? 本当に?』と驚愕した後、興奮気味に喜んだ碇くんの気持ちは、私も理解できたのだ。
○ ○ ○
だからといって…だからこそか。
短い付き合いとはいえ、碇くんが嫌がらせをするような人間ではないとも分かる。
「ここは〝調子乗ってんじゃねーよ〟と女子集団に囲まれ、凄まれるのが定説では……」
――文化祭の後、体育館裏で待ってる。人気に注意して。
碇くんの名を騙る手紙にはそう記してあった。彼は律儀な人で、貸してくれたCDにご丁寧に解説のメモを添える。似せてはいたが、字が違うのは明らかで。
のこのこ体育館裏に来た私を、遠目から嘲笑うのが目的か、もう帰っているのか。不明なまま待ち惚けするのは、それはそれで虚しい。
ああ面倒臭いな。
人間二人並べれば、何でもかんでも恋愛事に結びつけたがる。
嫉妬という感情は、そんなに人一人に手間暇掛けて行えるものなのか。
「……」
雨が降って来た。暗い水玉模様を描いた土が塗り潰されていく。濡れていく。制服が重たい。文化祭の最中に降らなくて良かったと思う。
「なに、してるんですか……先輩」
振り返ると困惑したくじらくんがいて、ずかずかこちらへ歩いて来るなり、差していた傘を押し付けられる。
「いやそういう君こそ何しているの。係の仕事とか」
「終わりました。それで帰るところでしたが、さっき先輩を見掛けたこと思い出して。なんでこんなところにって、気になって来てみたらまだ居たので……ほんとに何やってたんですか」
私の手首を掴んで歩き始めた彼は、どこか苛ついているようにも、焦燥しているようにも見えた。
体育倉庫を開けて確認すると、くじらくんは私を隠すようにそこに入れた。トサ、と鞄が降りて、金具が開く音が続く。
倉庫内は暗い。磨りガラスの窓はほとんど光を通さず、陰鬱で閉じ篭もっていた。
「使っていないので安心してください」
薄暗い中で取り出したタオルを渡そうとするくじらくんは、こちらに一切目を向けない。
「代わりに体操着借りて鞄も持って来ますから、席番を、」
「ねえくじらくん」
言葉を無視して隣に腰を下ろすと、さらに彼は俯いた。
「キスしたことある?」
タオルではなく、今度は私が彼の手首を掴む。筋肉が一瞬強張るのが伝わったが、振り解かれはしなかった。
ゆっくりと、くじらくんは顔を上げ、私の目を捉える。
「恋ってどういうものだろうね?」
細身な腰と腕の間を縫って手を着くと、彼は扉に背中を預けた。死を待つ動物のように緩やかで受動的なものだった。眼鏡を外して、裸眼のくじらくんに問う。
「……僕が知るわけ、ないでしょ……」
雨音に消されてしまいそうな声を、そっと塞いでみた。
お互いに瞬きすらせず、なんの感動にも揺れない瞳を見ていた。
濡れたシャツのボタンを外すと薄いお腹と胸板があって、その割に触れれば硬いから不思議だと思った。
「触ってみる?」
と、雨を吸って重たい、自分の制服を脱ぎながら聞く。彼は少し考えた後に頷いた。色気のないシンプルなスポブラを取ってどうぞと言えば、ぬくい掌が魚の鱗に触れるみたいに、遠慮がちに丸みを包む。ふに、ふに、と感触を確かめ始めた動きは、火傷させないかと気にするように辿々しい。
「痛くないですか」
「このくらいではなんとも」
寄せてみたり、持ち上げてみたり、くじらくんは無表情でそれを観察している。粘土でも捏ねているかのようだ。
「ん、……」
やがて軽く、先端を人差し指で引っ掻かれてびくりと震える。ただの神経の反射だ。
その声にちらと私を見上げた瞳は、やはり何の感情も窺えない。
「続けますか?」
「んー……どんな感じかは、わかっ……た」
最後につままれたのは、単純に意地悪だろうな。
「君のも見ていい?」
「いいですけれど、面白くはないですよ」
くじらくんは脱いだシャツを丸めてから、特に抵抗なさげにベルトを外した。
「ちんまりしてんね」
「うん。たたないとこんなもん」
「まったく反応しないの?」
「触っていれば一応。少し時間は掛かりますけれど」
へえほおとまじまじ眺めていたら、子供をあやすような穏やかさで、どうぞと苦笑された。
意外とすべすべなんだなあとか、皮膚っぽいゴムといった感想だ。くすぐったがるので礼を言って早めに手を引いた。
「何か分かりましたか」
「さあ、よく分からない」
マットに寝転んだくじらくんの隣に、私もぱたりと身を投げる。薄く濡れた裸の肌に吸い付くマットは、室内と同じくじっとりした温度で、体育倉庫独特のピーナッツみたいな匂いがした。
「先輩、スタイル良いですよね。暗いけど、肌も綺麗なんだろうなって思ったし」
私の目を見ながらくじらくんは言った。
「そういう感性なら、理解できるんです」
だから私も逸らさずに受け止めた。
「それは君にとって、悲しいことだった?」
「どう、かな。靄が晴れたみたいでした。深い靄の中で出口を探していたつもりで……実は最初から行き止まりにいた。それを認めただけです」
「そう。……じゃあ、どうして嫌がらなかったの?」
「……わかるでしょ?」
くじらくんは彼には珍しく、子どもっぽい、三日月のような笑い方をした。
簡単な話だ。似た者同士、同じ穴のムジナだということ。希望も失望も与えない、ある種の信頼性で成り立つ不変の存在。そんな彼に私は甘えているし、くじらくんもそうである。
雨が鳴り止んだのは、すっかり陽が落ちた頃で、私たちはその間手負いの獣のように、ただ雨音の中で肩を寄せ合っていた。
「あ、星が」
コンビニで買った餡饅を食べつつ見上げると、雲の合間に薄っすらと星があった。
「……よく、北海道の夜空の写真とか見掛けますが、実際にあんなに見えるものでしょうか」
「ああ、それは確かに疑問」
今にも霞んでしまいそうな弱々しい星は、やがて流れる雲にすっぽり隠れてしまった。
「確かめに行ってみようか。北海道」
「ええ……? 遠い……し、唐突ですね」
チョコレートドリンクを吸いながら、怪訝にくじらくんが言う。
「なんだよー私とでは行きたくないってかー」
「行かないとは言っていませんよ」
かといって、行こうとも言わずに。
星の見えない夜にぽつんとふたり、掌を重ねた。