01. フツウという怪物
桜の花はすべて落ち、緑に染まる木を風が撫でている。
飲食物とまばらな会話が混ざり合う昼休みの教室で、それを眺めているとふいに声が流れて来た。
「港先輩」と、聞き覚えのあるそれに振り向く。教室の入り口には、名前を呼ばれた港さんの背中でポニーテールが揺れていて、その向こうに少年がいた。
手にした書類を指差しながら何事か喋る少年と、頷く港さん。彼女は生徒会らしいから、そうした連絡事項かもしれない。
港さんが自分の席に戻るために離れると、少年の顔を確認できた。眼鏡を掛けて、背筋をすっと伸ばした、いかにも優等生らしく私とは縁がなさそうな人種だ。どこで会ったのだろう。
ふと、唐突に少年がこちらを見た。
シャッターを切るように、瞬きをひとつした。あ。と瞼の裏側に広がる緋色の群れ。
「あ」という形に動いた少年の唇は、次には柔らかく笑みの形を描いた。
一週間前と同じ笑顔だった。
○ ○ ○
住むには不便がない街だ。
駅が近くて百貨店は充実しているし、コンビニも五分度に点在する。目立った犯罪も聞かないし、飲屋街ですら小綺麗な、娯楽も衣食住も不自由なく提供される街。
高校の帰りに寄り道することがある。家の反対方向に位置したペットショップで、偶然訪れなければ見つけなかっただろう。
ガラス扉を引くと、独特の湿度の匂いがした。
AQUARIUMという看板を掲げたこの店は、それなりにお客が途切れない。熱帯魚や爬虫類、フクロウやモモンガなどの珍しい生き物がいるからだ。休日には親子連れの姿も見る。お手軽な水族館、あるいは動物園とも言えるかもしれない。
熱帯魚コーナーの裏側。水草のコーナーには金魚の水槽がある。
ピンポンパールがぷくぷくした身体を揺らし、泳ぐ姿が可愛らしい。これから成長するのか小さな鯉が優雅に泳いでいる。
それらを通り過ぎて、一番奥の緋色の群れへ進んだ。
ベーシックな金魚がたんまり詰まった水槽には、今日は一匹も死んだ金魚はいなかった。
暫くそれを眺めていると、こつこつと足音が近づいて来る。熱帯魚と違って、このコーナーは人があまり来ないから珍しい。
一定の速度を保った音が、水槽の向こうで止まった。
緋色の群れが交差するその道が一瞬途切れて、黒真珠のような瞳と視線を結んだ。
「……こんにちは。また会いましたね」
無言も失礼と思ったのか、彼はそつのない笑顔と言葉を選んだ。初めて認識した時と同じく、眼鏡を掛けていない彼は、線が細くて昼間より幼く見える。
「こんにちは。金魚好きなの?」
なので私も耳に掛けたヘッドフォンを降ろしながら、無難な返答をした。特に会話をしたいわけでも、彼の趣味に興味もないのだけれど。
「好きかまでは。でもこの水槽は、なんだか落ち着くので」
ふうん、と曖昧な相槌になる。むしろこの水槽は一際魚が多いので、見た目では忙しい。人それぞれだろう。
「敬語、一年?」
「はい」
「そっか」
彼が生徒会委員なら、今は五月だから、入学早々に生徒会に入ったことになる。真面目なやつだ。部活動に勤しむことなく一年過ぎた私と大違い。
会話もなく、彼も私も金魚を眺めていたけれど、やがて普段いるのかいないのか分からない店員が、カウンターの向こうでごそごそ物音を立て始める。携帯を見ると七時半で、もうすぐ閉店という頃だった。
「じゃあ」と一応水槽の向こうに手を振ると、彼はささやかに目礼を返した。
ガラスの扉を押すと、現実の匂いがする。
わずかに残る雨上がりのアスファルトだとか、目の前を渡る車のガソリンだとか。
水なのか魚の匂いなのか、それらを剥がして塗り替えるみたいに歩くしかない。ぽつぽつ燈った白熱灯が、雲に隠れた月の役目を担っている。
途中のコンビニで雑誌をめくり、飲み物のコーナーを覗くと少年とまた会う。彼はちょっとはにかんで、チョコレートドリンクを手に取った。私もきなこ豆乳を持ってレジに向かう。
それからなんとなく、なんとなく二人で一緒に道を歩いた。
帰路が同じなのは既に知っている。一週間前も同じように、ただなんとなくで同じ帰り方をしたから。
「いつもこんな感じなのかい」
公園のベンチに背中を預け、メロンパンの袋を開けながら尋ねる。
「毎日じゃないですよ。塾で遅くなる日も普通にあります」
隣の少年もぺりぺりとおにぎりを開封して、はむりと小さく噛り付いた。おにぎりを食べるだけでも、やっぱり彼は背筋をきちんと伸ばしている。
「不審者とか、そういう話は聞きませんが、先輩も遅くならないほうがいいですよ」
ちうーとチョコドリンクでおにぎりを流して、彼は生活指導っぽく言った。「も」ということは、お見通しなのだろう。
「同類に言われても説得力がない」
「後輩に説教された点を追加で、先輩の方がマイナスだと思いますよ」
「生意気なやつだな君は」
「普通に聞き分けの良い優等生だとよく言われます」
よく聞こえなかったのできなこ豆乳をズゾゾと吸った。袋や海苔がぱりぱりいうだけの沈黙が流れて、それすらもなくなる。
彼はチョコドリンクのカップを分解し、ついでに私のきなこ豆乳までもテキパキ畳み、自分の袋に入れて結んだ。真面目だ。
「俺は帰るので、先輩もちゃんと帰ってください。ほら鞄持って」
指定鞄を持って立ち上がる彼に、エーと抗議の顔をする。
「嫌なら家まで付いて行ってもいいですよ。放っとくと蛍光灯に集まる蛾みたいにいつまでもフラフラしてそうですし」
「せめて野良猫くらいにしてくれよ」
「虫でも猫でもいいんですけど、普通女の人が目的もなく徘徊しません」
「はあ……君はどうにもフツウという言葉が好きらしいな」
思わずぼやくと、少年は口元に手を当てて一瞬バツの悪そうな顔をした。先輩相手に言い過ぎたと思ったのかもしれない。
つつくのも面倒なので、諦めて鞄を持つと、彼はほのかに表情を和らげた。
「ここまででいいよ」
少年の家を通り過ぎても、隣を歩く彼に言う。
「帰れますか?」
「帰る帰るちゃんと帰る」
露骨に疑いの眼差しをよこすなよ。
「大丈夫だって」
彼は警戒する野良猫のように注意深く見つめた後、諦めるように頷いた。
「心配してくれてありがとう」
遠去かる私の背中を、彼はいつまで眺めているだろう。彼こそオートロックの神経質そうなこのマンションに、ちゃんと入って行くのだろうか。
帰るか、ではなく『帰れますか』とそう言ったのだ。自分の方がよほど帰り辛そうな顔だというのに。
娯楽も衣食住も、何ひとつ不自由なく提供される街にいながら。
それでもなぜか、息苦しい。