6、スピード
まさか、こんな日が来るとは。
放課後、誰もいなくなった教室で俺はポケットからそれを取り出した。
小さな白い手紙。
薄いピンク色をしたハートのシール。
そして、『四時半に体育館裏に来てください』という文面。
どう考えても。いくら頬を抓ろうと。
それは……ラブレターにしか見えなかった。
登校し、下駄箱を開けて、この手紙を見て、下駄箱を閉めて、名前を確認して、頬を抓る。
そんなアホみたいなことをしてしまったくらい、信じられなかった。
(……夢じゃないよな)
俺は自他共に認めるアニオタだが、流石に二次元と現実の区別はつく。
中学の暗黒期を経て、アニメみたいな心躍る展開はないのだと学んだのだ。
高校生になって、少し期待して入った漫研にも可愛い女子なんていなかったし、こんなもんだと諦めている。
でも、この手紙は俺が諦めていた非現実への招待状だった。
送り先を間違えたわけでもない。
何度見ても、手紙には俺の名前「齋藤玄太」という文字が書かれている。
まだ、からかわれているとか、罰ゲームとか、男が現れるとか、サンドバッグにされるとか、カツアゲされるとかの可能性は捨て切れないけど。
朝からそんな嫌なルートばかり考えていたら不安になってしまい、何人かに相談もした。
でも、阿黒も雨夜も「考えすぎ」と笑っていた。
まあ、そういうルートになっても染谷が「そんなのが来たら助けてやる」と言ってたから安心だ。一年にして柔道部最強の染谷に勝てる奴は多分、この学校にはいないだろう。
「暇だな……」
まだ四時前だ。時間まではあと三十分以上ある。
三時半過ぎくらいにはホームルームも終わるから、四時でもいいだろうに。
やっぱり、人に見られたくないということなんだろうか……。
「あーもう! 考えてもしょうがないって決めただろ」
放課後までに想像も妄想も十分にした。
もう行ってみないとわからないんだから、ぐだぐだ考えていても仕方ないのだ。
暇つぶしがてらトランプでもいじっていよう。
期末テストが終わって、もうすぐ夏休みだっていうのに、トランプブームはまだ去っていない。案外、このクラスの連中はずっとトランプを鞄に忍ばせ続けるかもしれない。
漆間がやっていたみたいにトランプタワーを作ってみたり。
赤桐さんのようにシャッフルができるか試してみたり。
そんなふうに、適当に時間を潰していると廊下から足音が聞こえてくる。
こんな時間に誰だろうと思って顔を上げると――
「何だ、明か」
「何だとはご挨拶ね」
教室に入ってきたのは腐れ縁の佐倉明だった。
「お前のクラスは隣だろ」
「すごい顔で一人寂しくトランプしている奴が見えたから冷やかしにきただけよ」
にやっと笑いながら、明は前の席に座る。
マイペースで、猫みたいな奴。そういうとこは、幼稚園の頃からまったく変わっていない。
「それで、何してんの?」
「べつに。ちょっと用があるから残ってんだよ」
漫画を貸し合ったりとか、好きなアニメを語り合ったりとか、こいつとは仲が良い方だと思うけど、ラブレター(仮)については何も話していない。
どう考えても、話したら面倒なことになる。
何しろ、こいつは恋愛漫画が超大好きで、誰かが恋バナをしていたら蚊のように寄ってくる奴だ。わざわざ暴走する材料を与えてやる必要はない。
「ふーん」
片手でトランプを弄りながら、明は探るような目で俺を見ている。
何だ、こいつ。まさか、何も話していないのに嗅ぎつけているとでもいうのか。
「そういえば、この前トランプやろうって話してたっけ」
「あー……そういえばそんなこともあった気がする」
正直まったく覚えていなかった。
何しろ、このクラスでは暇さえあればトランプをしている。
ほとんど毎日トランプで遊んでいるのに、トランプで遊ぶ約束なんか覚えているはずがない。
「なんかやるか? 少しなら付き合えるぞ」
時刻は四時五分。簡単なゲーム一、二回なら十分に遊ぶ時間はある。
それだけあれば、このトランプ激戦区であるクラスで磨かれた俺の腕を十二分に見せることができる。さあ、大富豪か、ポーカーか、何のゲームだ。
「そうね。スピードなんてどう?」
そんな調子に乗ったことを考えていたのが原因なのか。
明はピンポイントでこのクラスでは遊んだことのないゲームの名を上げた。
スピード。
赤と黒にカードを分け、どちらが先に手札を出し終えるか競うゲーム。
手札からカードを四枚場に置いて、台札となるカードを同時に表向きで出したらスタート。
台札の前後の数を場に置いた四枚から出していき、場のカードが減れば手札から四枚になるよう再びカードを出す。
これを繰り返し、相手より先に手札をゼロにすれば勝ちだ。
常に変動する台札の数。飛び交うトランプ。瞬時に戦況を見極める眼。このゲームはまさにあらゆる速度が求められるゲームといえる。
(……こいつ)
俺は手先が器用な方でもないし、機敏な方でもない。
それを腐れ縁のこいつは知っている。つまり……
「じゃあ、負けた方は罰ゲームね。はい、私は赤、斎藤が黒ね」
こういうことだ。
こいつはこのゲームに勝ち、俺を奴隷の如く使おうとしている。
いったい、何をさせられるのか。
戦々恐々としながら俺は分けられたカードを持ち、明と目を合わせ……
「「一、二の、三!」」
裏返した手札からカードをドローし、机に叩きつけた。
シュッバッとカードを引く音が連続する。
馬鹿な、速すぎる。
一瞬でカード二枚を台札に叩きつけた明の手はあまりの速度に霞んで見えた。
でも、俺も負けてはいない。
速度差は目も当てられないが、勝利の女神は俺に微笑んでいる。
「6、7、8と11!」
場に出したカードの数字が都合よく並んでいる。
それも、中々止まらない。手札がどんどん減っていく。
最初こそ勢いが良かったものの、台札と場のカードの数字が離れていて明は何も出せない。
ずっと、俺が手札を減らしていくのを「ぐぬぬ」と見ている。
こういう「ずっと俺のターン!」があるからスピードは怖いのだ。
ワンサイドゲームが続き……半分近く手札のカードを減らして、ようやく俺のターンは終わろうとしていた。
「おっと、随分と差がついたな」
ああ、気分がいい。
俺は「そんなんでよくこの俺に勝負を挑めたものよ」「止まって見える。あ、止まってましたね」「悔しいでしょうねえ」と明を煽りまくってやる。
そして、すっと明の目が細くなったことに気づいたときにはもう遅かった。
「……ほら、台札出すよ」
「は、はい」
「「一、二の、三!」」
台札は12と4。
ちょうど俺の場には13と1がある。
よし、まだツイてるぜ、とそのカードを出そうとするところで――
「そういえば、ラブレターもらったんだって?」
矢のような言葉が放たれた。
明の揺さぶりに俺の手が僅かに遅くなる。
その隙を怒れる腐れ縁は逃さなかった。
滑りこむようにして俺の手を掻い潜り、台札にカードが置かれる。11、10と連続で置かれ、数字が離れてしまった。
なんて、卑怯な。でも、一番の問題はそこじゃない。
「何故だ。何故知っている!」
「逆に、私に隠し通せると思ってたの? でも、よかったじゃない。告白の返事は考えてる?」
「い、いや、まだ告白だって決まったわけじゃないし」
「えっ、じゃあ、なんだと思っているの?」
「そ、それは……って」
話している間もゲームは続く。
何でこんなに気まずいんだ。動揺している俺を置き去りに、明はあれほどあった差をどんどん詰めていく。
「前からあなたのことが好きでした。俺もだよハニー。みたいな感じで、おっけーしちゃうのかな? それとも、壁ドンとかあごクイからの俺を呼び出したのはお前か、みたいな王様ムーブいっちゃう? ああ、はいはい、ヘタレの齋藤がそんなことできるわけもないか。好きでしたーとかせっかく言われても、ぼ、ぼぼぼぼ僕もあなたが好きですぶひーくらいが関の山だよねー」
いつからスピードで競う要素に心理戦と早口が加わったのか。
明のマシンガントークは的確に俺の心を抉っていく。
「やめてくれ、明。その口撃は俺に効く」
「だが、断る。ほらほらどうした。逆転されちゃいますよ。悔しいでしょうねえ」
さっきの俺の口調そのままに明はやり返してくる。
こいつ、ほんっと腹立つ。
「ああ、遅い、遅い。止まって見えますね」
「俺が遅い? 俺がスロウリィ?」
「はい。まあ、冗談じゃなくて本当に遅いけどね」
「くそ、まだだ。まだ、ゲームは終わっていない! 諦めたらそこでゲームは終了なんだ!」
「諦めなくてもゲームは終了するって教えてやろう」
「え、なにそれ、格好良い」
「トゥンクってなった? 惚れるなよ。お前は私の趣味じゃない」
「ひでえ」
なんか告ってもないのにフラれた。
それがショックだったわけでは決してないのだが、俺は明の速度についていけず敗北を喫してしまった。
「……くっ、殺せ!」
「殺しはしないさ。さあ、罰ゲームの時間だ。佐倉明の名において命ずる!」
くそ、何を命じられるのか。
なんとなく、反射的に目を閉じて身構えていると、
「さっさと行って、ちゃんと向き合って、考えて、答えてあげなさい」
「…………へ?」
ちょっと、意外すぎる激励だった。
「だって、あんた、一世一代のイベントだっていうのに、今にも死にそうな顔してんだもの。そりゃあ、緊張の一つでもほぐしてあげたくなるわよ」
「なんて……柄にもない優しさ」
「私が上機嫌で良かったわね。あとひと月は有頂天でいられるくらい、良いことがあったのよ」
その良いこととやらが何か尋ねるのは野暮というものだろう。
時間はもう四時十五分過ぎ。
ちょっと早いが、俺は「まあ、頑張ってくる」と明に手を振り、約束の場所に向かった。
――腐れ縁のあいつが言う通り、ちゃんと向き合って考えよう。
そう決めると、朝からあんなに落ち着かなかった気分が楽になった気がした。
本当にいいアドバイスだった。
今だけはあの恋愛漫画好きが俺の腐れ縁で本当に良かったと思えた。
しかし、
「佐倉さんのこと教えてください!」
蝉しぐれが響く体育館裏で、他クラスの女子に真っ赤な顔で言われたのはそんなこと。
やはり、俺にアニメのようなイベントは発生しないらしい。
でも、そういう分野も俺は嫌いじゃない。
願わくばあいつが困りますように。そう祈りながら、俺は正直にあいつのいいところをこれでもかと話し始めた。
一方、体育館。
「齋藤、お前……ないわー……」
扉一枚挟んだ向こうで、べたぼれにしか聞こえない話でマウントを取っていくクラスメイトに少女はドン引きしていた。