3、ババ抜き
結局、放課後まで雨は止まなかった。
黒板消しを片手に、俺は朝よりも強くなっていそうな雨模様を憂鬱な思いで眺めていた。
「はあ……傘、壊れてんだけどなあ」
今日はやたらと風が強い。
登校中、たった一回の突風で俺のビニール傘はお釈迦になった。その後、コンビニで買ったビニール傘二世も同じ道を辿った。
まさしく、安物買いの銭失いというやつである。
「漆間、帰るとき傘入れてくれないか?」
「何が悲しくて男二人で相合傘をせねばならんのだ。それに、烏丸とは帰る方向が逆だろ」
なんと儚い友情なのか。
昼休みに頼んだときと同じく漆間は欠片も迷わず、俺を見捨てる。
まあ、確かに傘に入れてもらえるのが校門までなくらい、こいつとは帰る方向が違うのだけど。
「漆間様、そこをなんとか」
「ならないな。染谷の方に頼んでくれ」
「あいつはこのあと部活だろ」
これは本格的に濡れ鼠になる覚悟を決めないといけないかもしれない。
ため息をつきながら、俺は黒板消しとチョークを片付ける。
机も戻したし、これで掃除も終わり。
あとはゴミ捨てに行ってくれた染谷が帰ってくるのを待つだけだった。
俺と漆間は椅子に座って、適当に時間を潰し始める。
もうすぐ中間だとか、いつになったらトランプブームは去るんだろうなとか、このクラスで一番かわいいのは誰かとかそんな話を漆間としていると――突然、首筋がぞわっとした。
「このクラスは中々レベルが高いと思うが、俺は……どうかしたのか?」
「いや、最近なんか変なんだよ。なんていうか、逃げなきゃいけない気がするっていうか」
ちょうど席替えをしたあたりからなんだか、首筋がぞわっとしたり、鳥肌が立ったり、冷や汗が出たり、と「一刻も早くこの場から逃げねば」みたいな気がすることが増えた。
昔から勘がいい方ではあるのだが、こんな風に理由もわからないのに、逃げないといけないみたいな気持ちになるのは初めてだった。
「なんだそれは。学校の怪談かなんかか」
「いや、俺は霊感ないよ。つーか、この学校に怪談なんかあるのか?」
まあ、今日は雨で肌寒いし、ただの勘違いだろう。
そう言い聞かせながら漆間と話していると、教室の扉がゆっくりと開いた。
「あれ、伊原さん?」
ゴミ捨てに行っていた染谷が帰ってきたのかと思ったのだが、そこにいたのは隣の席の伊原さんだった。
「烏丸君、まだ帰らないの?」
「ああ、染谷を待ってる」
「伊原さんこそ、どうしたの?」
もう、帰りのホームルームが終わってけっこうな時間が過ぎた。
近い人ならもう家に帰っているだろうに、何でまだ学校にいるんだろうか。
「私は……ちょっと忘れ物」
そう言って、伊原さんは机の中からノートを取り出した。
「おきべんしてないんだ。偉いなあ」
「そんなことないよ。待つのはまだ、かかりそうなの?」
「どうだろ。そろそろ帰ってくると思うんだけど……」
「遅いし、どっかで先生に捕まってるのかもな」
冗談っぽく漆間が言うが、ゴミ捨てにしては大分帰ってくるのが遅い。
生活指導に捕まるような奴じゃないし、何か手伝いをさせられている可能性はけっこうありそうだった。
「じゃあ、よかったらトランプしない?」
微笑む伊原さんの手にはこの教室では珍しくもないトランプがあった。
「ああ、やろうか。何をする」
漆間が即答する。
さっき、トランプブームの話をしているときは「まったくどいつもこいつも流行に弱い奴らだ」とか言っていたくせに。「エロ眼鏡」と呟くと、足を蹴ってきやがった。
「うーん、ババ抜きはどうかな?」
伊原さんが提案したのは、誰でも遊んだことがあるくらい定番なもの。
隣の人からカードを一枚抜いて、同じ数が揃ったら捨てる。そうして、最後までババであるジョーカーを持っている人が負け、というゲームだ。
「わかった。普通のだよね?」
ババ抜きにも、ジョーカーをランダムに抜いたカード一枚にするジジ抜きみたいな派生がある。
念のため聞いてみたが、伊原さんは笑顔で「普通の」と答えた。
「何を引いちゃいけないかわかってる方が面白くない?」
「まあ、たしかに」
「それに私、表情とか読むの得意なの」
得意気な伊原さんには悪いが、いくら表情が読めてもババ抜きで勝てるものだろうか。まあ、最後の方は役に立ちそうな特技ではありそうだけど……
「あ、それでね。勝った人が負けた人にお願いできるっていうのはどう?」
「いいね。是非そうしよう」
「最近やってるのを見て、楽しそうだなあって思ってたの」
欲望に忠実な漆間が即答するせいで、トントン拍子にそんなルールが決まってしまった。
ぞわっとまた悪寒が走る。
何か、決定的にまずい道に入りこんでしまった気がするのはなんでなのか。
帰ったほうがいいかもしれない。俺がそう思って立ち上がろうとすると教室の扉が開いた。
「わり、遅くなった。なんか、下で荷物を運ばされ……」
ようやく、帰ってきた染谷の手から、がたんと空のゴミ箱が滑り落ちる。
何故だか、染谷は俺たちの方を見て驚いていた。
「な、なんで、お前ら――」
「あ、電話だ。烏丸君ごめん、ちょっと配っておいてくれないかな」
伊原さんはそう言って、俺の手にトランプを押し付け、教室の外に出ていった。
それと同時に、染谷が慌てたように近づいてくる。
「ど、どっちだ。どっちが狙われている?」
「は? 何を言っているんだ?」
漆間と同じく、俺も首を傾げる。
柔道部エースで歩けば人が避けるくらい強面の染谷が明らかに怯えている。
ただ、その理由がわからない。がたがた揺さぶられる俺たちは困惑していた。
「お前ら、伊原のこと知らないのか?」
「知らないって何を?」
「まじかよ! 違う中学でも知っているくらいやべえ話のはずだぞ」
「……やばい話?」
「あいつは、えーと、一言でいうとヤンデレなんだよ!」
なんか、急に染谷が変なこと言い始めた。
視線だけで語り合えるくらいこの瞬間、俺と漆間は通じ合っていた。
「いいんじゃないか。俺はヤンデレ好きだぞ」
「それはアニメとかのキャラの話だろ! いつまで経っても鳴りやまない電話とか、三桁いきそうなラインとか、そんなわかりやすいヤンデレじゃないんだよ、あいつは!」
「は、はあ」
「じわじわとあいつの病みは侵食していく感じなんだ。知らない間に親と仲良くなっていたりとか、一緒にいた覚えもないのに店員に今日は彼女さんはいないのって聞かれたりとか、気づいたらクラスの奴らは付き合っていると思ってるし、先生もいちゃいちゃすんなよーって茶化してくんだ。そんなに仲良くなったつもりもないのに」
「く、詳しいな」
「……友達が一人、不登校になった」
「へ?」
「他にも転校した奴とかがいる。全員、伊原がいたクラスの男子だ。あいつが原因とか悪いことをしていたとか言いたいんじゃない。とにかく、やばいんだ」
その真剣さに俺と漆間は黙りこむ。
ようやく、今の状況がどういうものか理解し、勘ではない冷や汗が吹き出てくる。
「で、どっちだ? あいつは興味のない奴には話しかけない。名前を呼ばれていたのはどっちだ?」
――烏丸君、まだ帰らないの?
――あ、電話だ。烏丸君ごめん、ちょっと配っておいてくれないかな。
「烏丸か……」
俺の表情と漆間の視線で察したのだろう。染谷はあまりにも悲壮な目を俺に向けていた。
「いや、でも、俺は伊原さんに好かれるようなことは何もしてないぞ」
「ちょっと、親切にしたことは?」
「は?……消しゴム拾ったりとか教科書見せたりとかくら、いはあ、る……」
それだけで、染谷が頭を抱えた。
自慢じゃないが俺は中学のとき義理チョコすら貰えなかった男だ。まさか、そんなことで好かれるはずが……
がらり、と。
何度も聞いたはずの教室の扉の音が響いた瞬間、最大級の悪寒が俺を震わせる。
「ごめんね――じゃあ、始めよう」
伊原さんの黒い瞳は俺だけを映していた。
しんとした教室。響くのは雨音とカードが擦れる音。
互いの息づかいまで聞こえそうなほど静かな教室で、その手から最後のカードが捨てられた。
「これで、私の勝ち」
伊原さんはそう、無邪気に勝利を宣言した。
強すぎる。ストレートだ。一度たりとも外していない。カードを引くたびに伊原さんは手札を減らし、勝者となった。
ババ抜きが始まりたった一分ちょっと。
すでに、それは敗者を選定するだけのゲームとなった。
「じゃあ、私がお願いできる人だね。ふふ、何をお願いしようかなあ」
その視線は雄弁だ。
俺を見つめる勝者の黒い瞳は「早く負けて」と語っている。
冷や汗が止まらない。
いつから、ババ抜きはこんな絶望のゲームになったというのか。子供の頃の楽しいババ抜きはすでに遥か彼方。もう、戻ってはこないババ抜きに俺は少し泣きそうだった。
「じゃあ、俺の番……」
俺が引くのは漆間の手札。
ありったけの思いをこめて、俺は漆間の目を見る。
――頼む。負けてくれ。
俺の思いが届いたのか、漆間は神妙な顔で頷く。
その手札は明らかに一枚だけ、飛び出ていた。
(ありがとな……)
心の中で礼を告げ、そのカードを引く――特大の疫病神であるジョーカーを。
「漆間あ!」
「どうした、烏丸。勝負はまだ終わっていないぞ」
「このやろ……!」
染谷から話を聞くまではデレデレしていたくせに。
べつに、伊原さんが本当にヤンデレなのかもはっきりしてないだろ。
不登校だの、転校だのが伊原さんのせいかもわからないだろ。
もっとアタックしろよ。俺からお前に振り向かせろよ。
そう、心の中で非難するが、漆間の気持ちは理解できる。
単純に伊原さんのお願いが怖すぎる。
少なくとも俺の勘はずっと「負けたらまずい」と警鐘を鳴らしていた。
こうなれば頼りになるのは染谷一人。
俺はさっきの漆間のようにジョーカーを一枚飛び出させて、カードを広げる。
「ふむ」
染谷はわかったとでも言いたげに頷き――飛び出てないカードを引いた。
「染谷あ!」
「す、すまん。手が勝手に……」
恐怖のあまり動いたとでもいいたいのか。
染谷は体を縮こまらせて、最後の手札を捨てる。これで染谷も上がりとなってしまった。ああ、友情とはかくも脆いものなのか。
「ふふ、どっちが勝つかなあ」
「ま、負けたら何をお願いされるのかな?」
「内緒。でも……」
――断ったら許さないかも。
そう俺の耳元で囁く伊原さんに、俺はもう乾いた笑みしか出なかった。
ああ、この手にあるババが離れる気がどうしてもしない。
強くなっていく雨音の中、俺は一縷の望みに賭けてカードを引いた。
一方、その前。
(やはり、ありだったか……)
ずっと一人しか見ていない少女のひたむきさに、少しだけ少年は揺らいでいた。




