サイレント・トーキョー
1、
渋谷駅前、無人のスクランブル交差点のど真ん中に、私は寝そべる。
周囲には車が一台も走っていない、歩行者すらもいない。いつも騒がしくCMを垂れ流していた大画面や、ガタゴトと人々の往来を告げていた線路も、今は沈黙以外を語ることはない。
ただひたすらに、静寂。だがそれは、教会で人々が祈りを捧げているような清澄で美しい静けさではなく、体育倉庫に閉じ込められた小学生が嗚咽を嚙み殺すような、沈鬱で、叫びだしたいような静寂だった。
私は叫びを上げる。
「--------------------------ーっ」
それは、纏わりつくような静寂に堪らず声を上げたのではなかった。ただ、そうするべきだと思ったのだ。そうしなければ、この気味の悪い静寂を心のどこかで心地良いと思っている自分が、この世界から爪弾きにされてしまうような気がした。
ふと馬鹿らしくなって、私は起き上がる。スクランブル交差点の中心から、渋谷の街を、そして世界をぐるりと見渡す。人がいた痕跡は、道路脇に無造作に止められた私自身の自転車くらいだった。
自転車に跨り、ペダルを踏む。目的地もない。目的もない。ただ、この世界の静寂がどこまで続いているのか知りたい、とは朧気に思っていた。
2、
原宿の竹下通りは、いつ来てもカラフルな人々でいっぱいだった。でも今や、ハンドルから手を離して全速力で漕いでも誰かにぶつかる心配はない。街は人々がいなくても変わらず鮮やかで、眩しくて、そして、私とは無縁な町だ。
かつて一度、何の用事があったのかは思い出せないが、この通りを端から端まで歩いてみたことがある。人々はみな明るく、賑やかで、輝いていて、でもその光は私の心の暗闇までは照らさず、ただ浮き彫りにするだけだった。別にそれでみじめな気分になったり、逃げだしたくなったりはしなかった。私はこの原宿という街の一部にはなりえない。それだけのことだった。
竹下通りを抜け、表参道へ進路を変える。大きな交差点にたどり着いたところで、また道路脇に自転車を止め。並木道を歩いてゆく。道沿いに服や時計、宝石などの高級店が立ち並ぶ通りを、ウィンドウショッピングしながら歩いて行く。重たい沈黙の帳が下りる中で、原宿の街とはまた違った輝きが、そこにはあった。原宿の街の輝きは自ら光を放つ太陽のようで、表参道の街は月のようだった。訪れる者の心を映し出し、穏やかに、緩く、優しく輝く……。
友達から聞いた話を思い出す。表参道の高級店には、ドアボーイがいて客を迎え入れてくれるのだという。私は、どこかのお店に入ってみようと思った。ちょうど高校の制服を着ていて、ドレスコードを満たしているとは言い難いが、つまみ出されるほどでもあるまい。もっとも、どの店にどのようなドレスコードがあるのかなど知らないし、そもそもドレスコードをチェックする人など、今この世界では誰もいるはずがないのだ。
もちろん、ドアボーイもいない。私はガラスのドアを両手で押し開ける。体育館のように広い店内。その中で、ゆったりとした間隔でたくさんの服が並べられている。いつも服を買っているデパートの洋服売り場では、所狭しと洋服が飾られており、服に囲まれて溺れそうな気持になっていたが、この店では通路が広く、天井も高いので閉塞感を全く感じない。不思議だった。外の静寂は曇天のように暗く、泥のように纏わりついてくるのに、このお店に入ってからはそれを感じない。
ポケットからイヤホンを取り出し、耳に着ける。この心地よい寂に音楽を加えるとどうなるのか、知りたかった。ウォークマンからイヤホン越しに聴こえてきた、『Ginger Lily』。歌詞は全く今の私と重ならないのに、その繊細で美しいロックはなぜか今の私にぴったりに思えた。耳に入ってくる緩やかなメロディーと、そのリズムに身を任せ、広い通路を渡り歩く。
せっかくなので、着替えてみようと思った。ブランド洋服店を独り占めして、たった一人のファッションショー。かわいい服を着てもここには誰も私を見てくれる人がいないけれど、背伸びした服を着ても誰にも馬鹿にされることはない。私が、私だけのために、私だけの服を選ぶのだ。
最終的に私がお店を出た時に着ていたのは真っ黒なサマードレスと真っ白なカーディガンだった。靴はヒールにしたかったけれど、自転車に乗ることも考えて、ドレスと合わせ黒のパンプスにした。
外に出ると、また寂寞とした世界が広がっていた。イヤホンから流れる曲は世界の演じる無言劇を遮ることもできず、ただただ空虚な音を垂れ流している。私は耳から引きちぎるようにイヤホンを外すと、ウォークマンごと投げ捨て、自転車を止めていた方へ歩き出す。どうせなら他の店にもお邪魔して、バックや時計、アクセサリーも揃えるつもりだったけれど、今はなぜかもうそんな気持ちになれなかった。
ポツンと佇み、持ち主の帰りを待っていた自転車に、私は初めて孤独を感じた。荒々しくサドルに跨り、慣れないパンプスで乱暴にペダルを踏む。
人に会いたいとは思はない。でも人がいた痕跡に触れたいと思った。次の町へとなおも強く、強く、ペダルを踏み、自転車を急がせる。
3、
新宿駅は世界で一番人が乗り降りする駅だ、とどこかで聞いたことがある。
確かに私の記憶にある新宿駅は、いつも人で埋め尽くされていた。でもそれが世界一と言われたところで、見ただけでは、思い出しただけではわからないし、いつ誰に聞いたかもわからないその話を鵜呑みにするだけだった。
先程まで感じていた孤独は、いつの間にかなくなっていた。それが新宿駅に、世界で一番人がいた駅に、人の気配を見出したからなのか、それとも時間が孤独を和らげてくれたのか、そもそも孤独を感じたことが一時の気の迷いだったのかはわからない。わからないけれど、もうそんなことはどうでもよかった。
駅前のバス停のベンチにそっと自転車を立て掛け、全貌が見渡せないほど巨大な駅の建物の中へ向かう。
山手線の改札を通り抜ける。交通系ICカードを持ってはいたが、そんなものをかざすまでもなく、改札機は私を素通りさせた。駅のホームへ続く階段を、一歩ずつ、ゆっくりと上がっていく。無人のホームが幾筋も連なる。ここではいつも電車がひっきりなしに往来していたので、今みたいに一番向こうのホームから、一番こっちのホームまで一望出来るのは、なかなかに壮観だった。
日は傾きだしていた。吹き付ける風は肌寒いとまでは言わないが、昼間よりは生暖かく感じられた。二の腕あたりの高さに巻き付けていたカーディガンを肩まで羽織りなおす。厚手の生地はサマードレスから覗くむき出しの腕をぬるい風から守ってくれる。
ホームに手をつき、そのまま線路へ飛び降りる。遥か先へと続いている二本のレールを見通す。この風景は電車の運転席から見る景色とも、踏切の真ん中から見る景色とも、恐らく違うだろう。駅は無人だったが、両側のホームから無数の人が私を見下ろしているような気がした。真っ当に生きていたらまず一生お目にかかれないであろうこの風景を知ることができたことがどこか誇らしく、そして空しかった。
日が傾くにつれ、世界を取り巻く不気味な幽寂も、色濃くなってきていた。私はいたたまれくなって来て、ホームへ登ると、そのまま自転車を止めていたバス停のベンチへゆっくりと、ゆっくりと歩みだした。
4、
無心で自転車を進ませ、気づいたら上野まで来てしまっていた。昔親と上野動物園にパンダを見に来たことを思い出し、気づいたらそちらの方へ漕ぎ出していた。
チケットを買わずに入場する。ここに来たことがあるのはたったの一回、それも小さい頃のことなので記憶がもう霞んでしまっているが、自分と同じ年代位の子供とその親たちで動物たちがろくに見えないほど混雑していたのを覚えている。
今は、そのすべてがなかった。珍しい生き物にはしゃぐ子供も、それを見て微笑む親も、動物たちの世話をする飼育員も、そして、動物たちすらも。
ただ夕焼けが綺麗だ。空から降り注ぐ深紅の光は、あたりを乱反射し、染める。真っ白な私のカーディガンも空がこぼした絵具で真っ赤に染まっていた。
動物園を後にし、自転車に乗る。
次の街へ。そして、次が最後の街になるだろうと、私は心のどこかで感じていた。
5、
あたりは真っ暗だった。完全に日が暮れていた。新月の暗闇が、静寂が、秋葉原の街を覆う。夜の秋葉原を歩いたことがある。電気街のネオンが夜の街で宝石のように輝いており、とても綺麗だった。今は街にはわずかな光も見つからない。
電気街の道路の真ん中をよろよろと歩く。私だけのための歩行者天国。いつ自転車から降りたのかよく覚えていない。先程から何だか胸が詰まるようで、意識も朦朧として定かでない。ただ終わりを求めて、足元すら見えない闇の中を前へ歩み続ける。
この秋葉原という町が、私は好きだった。世界中から、色んな趣味を持った人々が集う街。全ての人種、文化を許容するこの秋葉原は、社会から、世界からあぶれた私も受け入れてくれた。だから、この空虚な旅路の、私という人間の終点にふさわしく思えた。
気づいたら道路の真ん中でうつ伏せに突っ伏していた。折角のドレスが汚れてしまう、と曖昧な意識の中で思い、そう思った自分をまた曖昧な意識の中で笑った。私以外誰もいないこの世界で、元々自分のものでもない、借り物の服を汚してしまったところで何を悔やむことがあるというのだ。イヤホンを投げ捨てたときには何も感じなかったというのに。
目を閉じて、今日一日の道のりに思いをはせる。世界を包む静けさの終わりを知りたくて、辿り着いた。満足している。思い残すことはない。自分に言い聞かせるようにそう念じる。後は静寂が私を吞み込んで、食らいつくすのを待つだけだ。
いつの間にか眠ってしまっていたらしい。スマホや時計といった時間がわかるものは全て捨ててしまったので、今何時か正確にはわからないが、まだあたりが真っ暗であることを考えると、眠っていたのは数時間程度のことだろう。
いつになったら終わりがくるのだろう。もしかしてこのまま次の朝が訪れるというのか。何故だ。早く終わらせてしまいたい。このまま夜が明けたら、また自転車に乗って旅を続けなくてはならないのか。
もう全てがどうでもいい。早く終わらせてくれ。繰り返しそう念じる。けれども私は終わらないし、世界は終わらない。静寂は相も変わらず、沈鬱に、重苦しく、隣にいる。
馬鹿らしくなって、寝そべったままごろんと反転して、仰向けになった。
美しい、と思った。思わずにはいられなかった。目に飛び込んできた満天の星空。普段は街の明かりが邪魔で星なんてほとんど見えないが、街から明かりが消えたこの世界では、星々がただただ美しく、私は目を、心を奪われた。小さな光が一つ、二つと繋がり、連なり、夜空を輝かせる。プラネタリウムリウムで見た星空など比べ物にならなかった。空を埋め尽くす眩い光たちを、二つの目で精一杯受け止める。いつの間にか立ち上がっていた。目だけじゃない、全身にこの美しい光景を焼き付け、そして、忘れたくないと思った。
流れ星が流れる。流星群でも来ているのだろうか。流れ星は一つにとどまらず、間隔をおいていくつも流れていった。あたりを覆う沈黙はいつの間にか重苦しさを失い、ただ清閑としてそこにあった。
生きたい、と思った。この美しい夜空がそう思わせたのだろうか。だが、この光景を二度と思い出せないのは嫌だった。
気づくと涙が頬が伝っていた。涙はそのまま零れ落ち、アスファルトの地面に落ちる。
ポトリ、と水滴が地面を打つ音がした気がした。その瞬間、
世界に音が戻った