トラピーズ
「待たせたなぁ、さあ急いで帰ろう!」
戻ったらお茶おごり、というミキの提案に気を良くしたリン子がマストの下で声をあげる。この単純さが扱いやすくてミキは気に入っていた。
「よし、浜の近くにある桟橋の方に行くのが早いからそっちに行こう!」
浜の方を指さすミキ。
「おぉぉ! 待ちぼうけしながら帰りの道のり考えてくれてたんか?! よし、それでいこう!」
ドヤ顔でリン子の賛辞を受け止めたミキはティラーを操作して方向を変えるとメインセールに風を受けて艇はゆっくり動き出した。
ぐんぐんと加速する艇の右側にリン子とミキが並んで同じ方向を見ながら座る。リン子は現在地と桟橋の位置関係から大体の進路計画を口にした。
「桟橋まで約千メートルってとこか。二タックくらいだな。こいつがいるし、タック回数は減らした方がいいだろ?」
「オッケ。なるべく急いでこ!」
しばらく浜に対して左手の風上を進む。
海面の波の動きを見ながらミキが指示を飛ばした。
「タック準備」
「あいよ!」
パートナーの声に、リン子は大声で反応する。
「床の子、踏ん付けんでねぇよ!」
「あははは。ウチがそんなヘマするわけないだろっ!」
二人が床にいる少女の位置を確認すると、ミキが叫んだ。
「タック!」
この様子を浜で見ていた舞たち。
浜から沖を見て右方向に取っていた進路を90度変えて左方向へと進み始めるヨットを眺めていた。
「あの救助してくれた船、なんで直接こっち来ないんだろう」
「ヨットって風上には真っ直ぐ走れないんだよ」
舞が答える。
「今は、浜から海側に風が吹いているから、風上である浜の方に向かってくるには、斜め45度を何度かタックしながら近づいてくるハズだよ」
ヨットの動きについては、リン子からよく話を聞いていた。自分がモタついてバランスを崩し、何度も沈した話を聞かされた。自分は頭は悪いから気合いと根性でパートナーの役に立つしかない、そう舞に愚痴をこぼしたこともある。
――ヨットが風を受ける方向が変わる。今までいた位置の反対側へと移動したリン子たち。
新しく受けた風で船体が傾くのをリン子が艇の外に体を預けてバランスをとっていた。
この二人乗りヨットは船体が斜めになっても、二人の体重移動でバランスが捕れるようになっている。これは公園のシーソーのようなものだ。一方に体重の重い子が乗ってももう一方に中心から離れた位置に乗れば釣り合いが取れるように、風で水面近くまで傾いたヨットの逆側に二人が荷重をかけ、それでも足りない場合はヨットの外へ体重をかけることで釣り合いを取ることができる。
ふと、リン子は一年前にトラピーズの説明を先輩から聞いたときのことを思い出していた。
「……とまぁ、こんな風に艇の外に体を預けて荷重を掛けるのがトラピーズ。クルーの大事な役割だよ」
初めて海に出る前に、陸上での講義を受けていた。
「カッコイイな、あれ! ヨットの外に体を投げ出す度胸さえあれば簡単にできそうだし」
「リン子、カッコイイのは同意するけど、簡単ともいかないわよ。ただ闇雲に外に体重をかけているだけでもダメなの」
「は? なんで?」
年上に臆することなくぶっきらぼうに質問するリン子にはもう慣れたとばかりに先輩が答えを返す。
「風は強くなったり弱まったりする。弱まった場合は自分の筋力で上にあがってこなければならないし、いつ戻るかの見極めは多少はスキッパーがアドバイスできても、結局最後は自分自身で判断して行動しなきゃならないでしょ」
「アタマ使うってことかぁ?」
「アタマというか、感覚だね」
「んじゃー、大丈夫だな」
その自信はどっから出てくるんだねキミは……なんて先輩に言われた。
「この子のためにも絶対に沈できねぇよ!」
パートナーの激励を受けて、意識が現実に戻る。艇のバランスはベストには程遠い。
メインセールに受ける風が強くなるほどヨットは斜めに傾く。ましてや、最大艇速の角度で強い風を受ければ船体は横倒しに近い角度まで斜めを向いてしまう。これが完全に横倒しになればさっきの沈の状態になる。いま、沈して少女を海水に漬けてしまうことが一番恐れている事態だ。
斜めになる船体を見つめる舞。
辺りにはボート部員が集まっていた。
ミカサが声を上げる。
「あれかなり傾いてっけど、大丈夫なの?!」
「たぶん……リン子、トラピーズできてるもの。きっと行ける」
居ても立ってもいられない舞が口に手を当てて叫んだ。
「いけー! リン子ーーーーーッッ!」