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リン子のトラピーズ  作者: 日ノ野 黒
3/5

クルーとスキッパー

 波間にポツリと浮かぶ二枚帆スループ艇。

 一般にはセーリング・ディンギー420と呼ばれるヨットだ。


 そのヨットの目の前数メートルを一台のモーターボートが斜めに横断していった。


「うわっ」


 ヨットからあがった小さな声と「チッ」という舌打ち音の後、ボートの作った波をなす。


 海上のルールとしてはヨットが優先だ。

 このような周囲を警戒するのは主にクルーの役目とされている。


「なぁリン子、いまのボートのマナー最低だったけど、いまのはリン子も声上げてくれないかな」

「わるい、ジブに隠れて視えなかった。音でミキは気づいてたと思ってた」

「いや、まぁ分かるけど、でも風向きによっては操作に集中して聞こえないこともあるし、気づいたら言おうよ」

「あぁ、わるい……」


 今日はどうも調子が悪い。

 先程の帆走練習では他艇に近づきすぎてペナルティを受けた。操船するためのかじを握っているのはミキだが、ヨットの向きを変えるのは二人がかりで息を合わせる必要がある。その連携に失敗して突っ込みすぎてしまい散々だった。


 足首につけたアクセサリーに目をやる。そこにはラベンダーカラーのガラス玉が輪になって繋がったアンクレットがハマっている。それを指で触れて目を閉じる。


 思い浮かべたのは舞の横顔だった。


「リン子、もし頭に血が上ちゃったらこれ見て冷静に判断できるようになりなさいよ」


 なんて言われて舞からもらったものだ。


 リン子は目を開けて軽く息を吐いて「よしっ、切り替えた」と呟いた。


「じゃ、いくか」とミキが言いかけると、浜の方から「パーン!」と音がした。


「なんだ? 昼間っから迷惑なヤツだなぁ」


 二人して浜の方を見ると、数人が浜辺にみてとれた。音はそれっきりしない。

 音の正体は、舞がヨットに気づいてもらうために手にしていたロケット花火だ。


 リン子は、ふと舞が合宿だと言ってたのを思い出した。 


「ひょっとしたら舞なんじゃないの? おーい」


 相手の顔も認識できないほど遠いのに手を振ってしまうリン子を見て、ミキがひとこと言おうとした時にソレを目にして青ざめた。


「おい、リン子。あれ……」


 ミキが指差す先を見るも最初はよく分からなかった。波間に黒い昆布のようなものが浮いているのかと思ったら、水面に白い手が浮いてきてまた直ぐに沈んだ。


「まさか、あれ人か!?」

「この先の浜がら泳いできて足でもつったんかな」


 ミキがのんきなことを言っている間に、サッとライフベストを脱いで小脇に抱えたまま、「ちょっと行ってくる」と言うと、トンと艇のへりを蹴って海にダイブした。


「ちょっ! せめて風上向けてから行けっつーの!」


 ミキの文句は聞こえない。ブクブクと水に潜る音と息継ぎの呼吸音だけが聞こえていた。体が浜へ向かう波に押されて気持ちとともにいでいく。


 さっき見えた手は、波によって自然に上下したのではなく、意識的に海面を掻いていたんじゃないか……という風にリン子には見えた。


 普段から何事も全力で取り組むリン子だからこそ、海底にまれまいと必死で逃れようとした手に、いても立ってもいられずに飛び込んできたのかもしれない。


 豪快なクロールのリン子が少女のもとに追いついた。


 自分の息が上がっているのには目もくれずに、黙々と手にしたベストの袖を通して胸元のチャックを合わて上げる。


 少女と顔を合わせたが、まだ息が整わないリン子はしばらく「ハァハァ」と大きく呼吸をしながら「だいじょぶ……か?」と声を掛けた。


 少女は限界に近い疲弊感と、救助が来た安心感はあったものの、目を合わせた相手がかなり疲弊している状態でそれでもなお心配されるという不思議な状況に戸惑った風だったが、かすれ声で「ありがとう」と礼を述べた。


「はぁ、ふぅ。よし、意識はあるな。しばらく浮いててくれよ」


 少女を仰向けにしてライフベストの首根っこにあるリングを掴んでヨットまで戻らねばならない。往路は背中を押してくれていた波が復路では邪魔をする。それでも進むしかなかった。


 右手で水面を掻いて左手のリングを引っ張る。その繰り返し。さっき一時的に疲弊した体力はもうほぼ戻っているが、あまり進みは芳しくない。「パドルでも持ってくれば良かったか」と独り言を口にしながら進んでいく。


 何度目かのリングを引っ張ると、後ろで激しく咳き込む声が聞こえた。


「おー、わりぃ。苦しかったか? まぁ、あとちょっとだから辛抱してなぁ?」


 ここでペースを乱すと無駄な体力を使うことになると分かっていたので、ひたすら水面を掻いてリングを引っ張るという同じ動作を繰り返した。


 一漕ぎごとに自艇のマストが近づいてくる。風上を向いた艇は完全停止していた。


「リン子、大丈夫か?」


 船尾からミキが大声で問いかけるのに「オッケー」と返し、艇の近くまで戻ってきた。


「コイツを上げるから、ちんしてくれ」


 ミキは慎重にヨットの重心を片側に寄せて横倒しにする。この横転状態を業界用語で「沈 (ちん)」という。


 メインセールが海中に浸かり真横を向いた艇に、リン子はジブシートを探して投げ、少女と共にパートナーがヨットを起こしてくれるのを待った。


 (こいつ、脈が弱くなって意識は朦朧としてきているな)


 ギリギリまで体力の限り泳いでいたせいだろう。しかし、幸いにも身体に傷などはなさそうだ。


 助けた少女を観察していると、マストが水面から持ち上がり艇が起き上がる。二人は艇の中央で顔を寄せる形で海からあがった。


 眼の前には紫色の唇。日に焼けた健康的な肌とは対象的に弱々しく震える身体。そのわきの下に腕を滑り込ませ、首と腰に手を添えて包み込むようにしてギュッと抱き込む。自分の体温が低くなるのを感じつつも、それは相手に体温が伝わっている証拠でもあるので我慢した。

 耳元に息づかいが聞こえる。遠くで波のうねる音が聞こえる。

 二人だけの僅かな時間。じっとしている身体からだに心臓の鼓動を感じる。


「はい、二人っきりのとこ邪魔するよ」


 各種点検をして艇に上がってきたミキの冗談に、リン子は珍しく顔を真っ赤にして慌てて反論した。


「いや! 違うから。これは人命救助! やっただろ? 救助講座」

「抱きしめあってキスする講習は受けてねえよ?」

「キ……キッスなんかしてねーっての!」


 耳まで真っ赤になって声をあげるリン子をミキがさらにあおる。


「またまたぁ、リン子そういう趣味があったんかー。これ聞いたら舞ちゃんなんて言うかなぁ」

「舞は関係ないだろっ! してない、してないったら」

「この女ったらしが」

「ちょ、コラ! いいかげんにしろー」


 ミキを小突くように手を振り下ろすが素早く避けて両手で指差して「プギャー」とからかわれた。呆れたように両手を広げてつぶやく。


 「ったく……」


 リン子はデッキに手をついて立ち上がり、艇に備え付けてあるバッグから雨対策で用意したナイロンの合羽かっぱを探して少女に掛けた。


「もう戻るから、安心しろな」


 少女はコクリとうなづいた。

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