生きて、なお
私は疲れていた。
いや、迷っていたのだと思う。
頭の奥がジーンと痺れるような感覚が始終抜けず、鉛のような体が錆びつたブリキのおもちゃのように感じられた。手を動かすのにも、キッチンに足を運ぶのにも、少ない気力を振り絞らなければならない有様だった。
山登りを覚えたのは、そんな頃だったと思う。
興味があったわけではない。特別魅かれたわけでもない。
むしろ歩くのは億劫だし、好んで苦痛を味わいたいとも思わない。
しかし、私の足は山に向かっていた。
呼ばれたのかも知れない。
その頃私は、何をしていても死にたくなった。
それが襲ってくるのは波があって、夜明け前が一番酷く、眠る前が一番辛い。
飯を食っていても、本を読んでいても、音楽を聴いていても、映画を見ていても、何をしていても頭の片隅には死ぬことを考えていた。
成人式の通知が自治体から来た時である。
行きたいとは思わなかったから、そのまま破り捨てた。
全てに魅力が感じられなかった。
最近ニュースで、小学生の喫煙が問題にされていた。
私の小学生自分にも、少なからずそういったグループの人間がいたように思う。接点はなかったが、あいつは煙草を吸っていて、悪い高校生と付き合っている程度の噂は耳にした。
煙草に対して、一種の幻想を抱いていた私も、やはりいたのだと思う。大人になる憧れであったり、大人になる喜びであったり、また、危険なものへの誘惑もあったのだと思う。
そう、私たちは子供の頃、大人になると自由が増え、その分喜びであったり嬉しさであったり、そういったものが増えるのだと思っていた。
大人は格好よかった。
それがどうだろうか。
惰性で続けたこの命だが、いつ終わらせても悔いなどないように思う。
いや、終わらせることが分からない。
誰かが教えてくれただろうか。
誰かが、死ぬことを教えてくれただろうか。
教わっていない。
だって、生きることも教えてくれなかったから。
何故私は、この狭い部屋で不味い煙草を吸っているのか。
同年の友人たちは皆、華やかな着物を身につけ華やかな場所で成人の祝いをしているのだろうか。
彼らはなにを祝っているのだろうか。
大人になったこと? それとも子供でなくなったこと?
それとも、他の何かなのだろうか。
私にはわからない。
大人も、子供も、生きることも、死ぬことも、その違いが何なのかも。
何が違う。
私は誰だ。
それが知りたかったのかもしれない。
だから、山に向かったのだ。
呼ばれるままに。
近場に手ごろな登山道があると知ると、私の心は急速に山に向かっていた。
電車とバスを乗り継いで、有名な寺に至る。
その脇から登山道が延びていて、神明岳という頂上を目指す人間が多く登って行く。
そこから連なった山の尾根を歩き、近くの温泉郷に出られるらしい。
私はまず、頂上を目指した。
一歩、また一歩と進めるうちに、人の気配がなくなった。
やはり、遅いらしい。
運動らしい運動はしてこなかったのだ。当たり前だと思う。
ただ歩いていると、なんだか妙に考えてしまう。
私は何をしているのだろうか。
登り始めたというのに、何故登っているのか分からなくなった。
ただし、疲労のためか思考は長続きしない。一滴ずつ落ちるコーヒーのように、着実に、しかし途切れ途切れに、私の頭には普段の感情が溜まっていった。
考えるのが止まるごとに、、自然と足が速まった。周囲に人影はなく、ただ、木立と坂が続いている。生い茂るほどの葉もなく、何か、寒々しい空が頭上に広がっている。
空が広いと不安になる。
足が痛い。息が白いのに、体は熱い。なのに、表面は冷え切っている。
一時間も歩いていると、疲労が足元からじわじわと上ってくる。立ち止まり、少しの休憩をするが、座り込むと立ち上がれなくなりそうなので、立ったまま息を整えた。水を口に含むと、じんわりと吸収されるのが分かる。
あぁ、生きていると思う。
少なくとも死んではいないのではないだろうか。
もう嫌だという体を励まし、一歩ずつ土を踏みしめると、登り始めてしまう。そうして体が疲れると、少しだけ空を見上げるのだ。
山登りは、その繰り返しだった。
どれくらい登ったのか、というは実のところ分からない。
登り始めた時間、今までかかった時間、一般的な到達時間から、あとどれくらいか判断するのだ。
二時間が経っていた。立て札に、頂上まであと三十分だとあった。
細い道である。しかしすれ違った人はいないし、人の気配もない。静か過ぎるほどの空間が周囲を支配し、何かしらの感覚を失ったように、ただ歩いていた。
だから、油断したのかもしれない。
それは突然だった。
細い道は上り坂ではなく、途中途中にあるちょっとした下りだった。山の周囲を回るように続く登山道は、時折こうした平坦な道や下りが挟まれる。気をつけねばならないのはその部分なのだ。足が上りに慣れて緊張していると、筋肉が弛緩してふらついたり、時として滑らせることがある。
私は滑り落ちた。
とっさに目を瞑り、頭を腕でカバーし、体を丸めて守った。
それから、滑落が止まった。
どれくらい落ちたのか想像もつかない。しかし止まったその場所は、少し広い、しかし上下を崖に阻まれた場所だった。棚田のような所でもある。
日が差さず、寒い。湿った土が良い匂いだった。ずっと木立が続いている。麓は見えない。
死んだのかも知れない。そう思った。
何だ、死ぬのなんて案外あっさりだな。
そう思ったことも確かだ。
何もする気がしなかった。体の痛みが酷く、目を開けるのも億劫だ。
耳だけが感覚器官として機能している。
それからどのくらい経ったのか。
私の耳には、不思議な歌が聞こえていた。
「エンヤラ、ホイヤラ」
近づいてくる。それが分かった。だんだんと歌の音量は大きくなり、すぐ近くにいるような気がした。
人がいるのだろうか。こんなところに。もしかしたら道があるのかもしれない。
それとも、死者だろうか。
私はゆっくりと目を開けた。しかし、誰もいない。
誰もいないが、妙な節の歌は続いていた。
「エンヤラ、ホイヤラ、誰かがいるぞ、誰がいる、応えろオーイ、応えたホーイ」
私は首を右に捻った。どうやら、その方向かららしい。
次に頭脳が正常な動きをみせたとき、私は混乱を極めた。
鬼がいる。
背格好は子供、八歳くらいの子供の格好で、赤い肌、ボサボサで硬そうな頭髪には黒くツヤツヤとした角が乗っている。体のわりに手足が長く、そのせいか手のひらや足が大きくみえた。腰巻は葉っぱを組み合わせたものだろうか。緑から茶色に向かう、妙な色だった。
鬼だ。私の知っている鬼だ。
子鬼は私を認めたか、そろり、そろりと近づいてくる。
顔がしっかりと見える位置まで近づいた。ぎょろりとした目、顔は福笑いをそのままにしたようで、面積に不釣合いなほど口が大きい。
歯がむき出しだ。
「おんしゃ、人か」
子鬼はしゃべった。さっきの歌と同じ声だ。高いのか低いのか、よく分からない声だ。
私は目を疑いながらも、子鬼の顔を凝視していた。これは何なのだろう、生物なのだろうか。
「おんしゃ、しゃべらんのか。口がきけんか」
子鬼は首を捻った。長い指で顎をかき、どうしたものか、と考えているようだった。
「困ったのう。わしゃ、口がきけん者と喋られんわ。どうしたもんかのう」
私は土に体を横たえながら、小さく腕を動かした。体が冷たい。
子鬼の困ったようすがなんだか妙で、私は小さく口を動かす。
「喋れるよ」
その声を聞いた子鬼は、ぎょろりとした目を細め、歯をむき出しにして喜んだ。
「おんしゃ、しゃべれるんか。どうして、こんなところにおるんじゃ」
子鬼は腰を下ろし、私に顔を近づける。やはり、赤い肌だ。
「上の道から落ちたみたいなんだ」
子鬼はあぐらをかき、上を見上げる。
「おんしゃ、困っとるか」
私はうなづいた。急に心細くなる。自分の状態を認めたからか。
「そうだね。とても困っている」
子鬼は目を細める。一見すると恐ろしい表情だが、何か愛嬌がある。怖いと思うよりも、私は子鬼を観察していた。
「おんしを助けてやろう。何をしてほしい」
私の思考は止まった。
何故か。
誰かに、助けてあげる、と言われることに、私は慣れていない。
「なんじゃ、どうした」
私は首を横に振った。決して、助けてほしくないというわけではなく、しかしどういう意味を込めたのか自分でも分からないが。
私は、小さく、つぶやくように言ってみる。
「それなら、バッグを取ってもらえないだろうか。少し上に引っかかってしまったようなんだ」
子鬼は嬉しそうな顔をした。正確にいえば表情の変化パターンはあまりないのだが、子鬼の顔は嬉しそうに見えた。
「取ってこよう。おんしの持ち物じゃな」
子鬼はひょこ、ひょこ、と極端ながに股で背中を丸め、なのに器用に崖を登っていく。両手を地面につき、時折枝を掴み、それは器用に登った。
私のバッグを掴み、また、ひょこひょこと下りてくる。
子鬼は私にバッグを手渡した。
「これじゃな。他になんぞあるか」
私は驚いた。ただ、誰かの手を借りなければ起き上がることさえ困難だった私は、普段では見せないような甘え方を、目の前のわけの解らない子鬼に対してしていた。体が痛い、寒い、バッグを開けて水を取ってほしいと、原状を回復するための我がままを、子鬼にしていた。
子鬼はそのたびに、嬉しそうな、笑っているのか解らない奇妙な表情を作り、私の願いを叶えてくれた。
妙な壺からをどこからか持ってきて、丁寧に私の足やら手やらに塗ってくれる。
薬を塗った場所は急激に温かくなり、痛みはやんわりと引いていく。
枯葉と枝を拾い集めては、火打石のようなもので焚き火を作ってくれる。
それはとても暖かで、私の体は体力を取り戻そうと活発になった。
どのくらい子鬼の世話になっていたかわからない。なにやら、久しぶりの安眠を得たような気持ちになった私は、子鬼に、持っていたチョコレートのかけらを渡した。
「なんじゃ、これは」
私はもう一つかけらを作り、それを自分の口に放り込む。
子鬼は、ヒョッと目を丸くしたが、私をマネて食べてくれた。
驚いたのは、子鬼の舌が真っ黒だったことだ。
子鬼はまた、奇妙な表情になる。
「甘いのう。こんなに甘いものは初めてじゃ」
私はその頃、子鬼に対し、警戒心というものがなくなっていた。かいがいしく、しかし何のためか分からない介抱を受けているうちに、私の心は安らかになっていた。
人の音がないせいかも知れない。そのときはそんな風にも考えた。
私はゆっくりと、バッグを背もたれにして上半身を起こす。まだ体のあちこちが、壊れたんじゃないかと思うほど痛かったが、それでもなんとか起き上がれた。
そこで、少し冷静にあたりを見回す。
周囲は崖に阻まれ、道らしい道は見当たらない。ましてや、上の道に戻れるとは思わなかった。木にぶつからず、よくここまで落ちてこられたものだ。
心のどこかでは、何故死ななかったのか考えていたように思う。千載一遇のチャンスであったのに、私の体はそれを拒んだのだろうか。
私はしばらく、上の崖と空とを交互に見ていた。人がいないというだけで、空はこんなにも美しく見えるのだろうか。抜けてしまったかのように、どこまでも、どこまで空は青かった。
いつだってそうだ。わずらわしいと感じるものさえなければ、この世の中を構成するものはこんなにも美しい。
子鬼はそんな私をどう見ていたのか。
彼、性別はわからないが、は同じように、空を見ていた。
「おんしゃ、帰るか」
私は子鬼に向き直る。心臓の鼓動が早くなる。そうだ、帰らないといけない。
「そうだね。帰らないといけない」
「帰るなら、道を教えてやろう。立てるか」
私は足に力を入れると、少しふらついたが立つことができた。体の痛みにくらべ、足はあまり損傷がないように思える。
「こっちじゃ、ついて来い」
子鬼は私の寝ていた場所から下った場所にある、本来なら誰も近寄らなそうな細い道を通り、石を積み重ねた不思議な洞窟に案内してくれた。見た目は人工物だが、ここに人が来るとは思えない。あるいは、彼のような生物がたくさんいるのではないかと思う。
「入れ。中は暗いぞ、気をつけて進め」
子鬼の指示に従い、私は洞窟に足を踏み入れた。
私と子鬼はどれくらい歩いただろうか。中は闇夜の暗さよりもまだ暗く、目という器官が役に立つことはない。しかし壁に手を突いて歩いた限りでは、この洞窟は一本道であったので、私は黙々と子鬼の後を付いていった。
ひどくかび臭い。しかし道は平坦だったので、歩きやすかった。
そのまま子鬼の後を追うと、たいまつのようなものが両脇にかかげてある場所にでた。そこだけはホールのように広く、入り口と同じ石造りの洞窟が二本、奥へと延びている。分かれ道のようだった。
子鬼はそこで立ち止まり、私に振り返る。
「おんしゃ、ここで道を選べ。間違えば出られぬぞ」
私は驚いた。出られないというのが意味するのは、帰れないということだろうか。
子鬼はまた、奇妙な表情になった。
「なに、じっくりと考えるがよいぞ。なんなら、奥をのぞくがよい」
私は怖くなった。やはり私は死んでいて、これは天国へ行くか地獄へ行くか決めるものなのではないか、そんな考えが私の中にはあった。
しかし歩かねばならない。私は左にある入り口へ近づいた。そこには木の札がさがっており、コドモの道と書いてあった。
私はそろり、と中をのぞく。そこは広い部屋のような場所で、中央にあるかがり火のようなもので割りと明るい。部屋には奇妙な光景が広がっていた。
子狐と思われる動物が、器用に後ろ足で立ち、前足で石を運んでいる。人間じみた行動に、私は呆然としていた。狐は二足歩行ができたのだろうか。
部屋の中央には、運んでいる石と同じようなものが積み重ねられている。子狐は持っている石を、その上に積んだ。
見渡すと同じような行動をしている動物がたくさんいた。熊、鹿、うさぎ、いのしし、鳥、みな子供のように小さく、だから積んだ石の高さもあまり変わらない。動物たちは一心に、ただその行動を繰り返していた。
私は次に、右の入り口をのぞいた。造りは同じだが、札の文字が違う。こっちはオトナの道だった。
部屋の光景も同じようなものだった。積み重ねられた石がいくつもあり、しかし大きさが違うので、柱のようにも見える。石柱の中には崩れたものもあった。コドモよりは体格が大きく、私ほどの狐やうさぎがいる。しかし、それ以上に熊は大きい。
みな一心に、ただその行動を繰り返していた。
私は疑問に思う。なぜ、石を積んでいるのかと。
もしかしたら、それが道を通る条件なのかとも思い、子鬼に尋ねてみた。
「なぜ、彼らは石を積んでいるんだい。それが通る条件なのかい」
子鬼は首を横に振った。
「いや、コドモの誰かが始めて、それがオトナになっても続いている。誰も積めとは言っていない、通りたければ誰でも通れる。おんしゃ決めたか、どちらを行くか」
私は決めかねていた。それは、どちらも変わりのないように思えたからだ。どちらも続いているというのは、どちらも同じということか。
私は再度、子鬼に尋ねた。
「どちらも通れるのかい。同じところへ続いているのかい」
子鬼は再度、首を横に振った。
「どちらかは行き止まりじゃ。行き止まりを選んだら、おんしゃ出られんぞい」
「選べるのは一度かい」
「戻ることは許されぬ。ほら、後ろを見てみ」
私は来た道を振り返った。そこには何もなく、ただ、土の壁だけがあった。
私は困り果て、子鬼に尋ねた。
「君は正解を知っているのかい」
「知らんぞ」
私は困った。
「中に入って、彼らに話しかけてもいいのかい」
子鬼は首を縦に振った。
「それはおんしの自由じゃ。ただ、選んだ道をわしに告げてくれればよい」
私はコドモの道に入った。
私はまず、一番近くにいた子狐に話しかけた。子狐はびっくりする様子もなく、尻尾を振って応えてくれた。
「君はどうして、ここで石を積んでいるの」
「僕が来た頃には誰かがそうしていて、それが先へ進む条件だと思ったから」
「君は先へ進みたいの」
「この先はきっと、もっと明るいところで、だから先に進みたいんだ」
私は子狐とわかれ、子鬼のいるホールへと戻ってきた。そしてオトナの道に入る。
私はここで、誰に話しかけようか迷った。みなそれぞれ、とても忙しそうにしていて、とても私の話を聞いてくれそうになかった。熊に近づいたが、にらまれてしまった。
そして、崩れた石柱の傍で座り込んでいる、うさぎに話しかけた。
「あなたは、どうして座り込んでいるのですか」
「石が崩れたからだ。あれほど大きくしたのに」
「どうして大きくしたのですか」
「わからない。私より先に誰かがそうしていて、それがここを通る条件だと思ったからかも知れない」
「あなたは、先に進みたいのですか」
「わからない。進んでも同じなら、ここでこうしていたい」
見たところ、誰も先へは進まないようだった。子狐、うさぎが言っていた事を皆が思っているのだとしたら、おそらく、誰も正解を知らないのではないか。
私は考え、それから、皆と同じように石を積んでみた。
石は部屋の隅に山のようにあった。そこから二、三個とって、近くのたいらな場所に積んでみる。しかし何も起こらず、私はその作業をそこで止めた。
するとどうだろうか。さっきは無視していた動物たちが、私を見ては小さく笑い、それから自分の積んだ石柱を見て、満足そうな顔をする。その仕草は、熊も、鹿も、座り込んでいたうさぎも同様だった。
何だというのだ。私はひどく不愉快になり、積んだ石をそのままに、子鬼のいる場所に帰ろうとした。そうしたら、動物たちはみな、一様に先ほどの無視を始めた。もう誰も、私のことを見ようとはしなかった。
私は子鬼に言った。苛立っていたから、言葉が乱暴になった。
「コドモの道を通るよ。もうあんな場所には行きたくない」
「それでいいのか」
私はそこで、少し不安になった。
「だって、酷い扱いを受けるんだ。石を積むことは通ることと関係ないのに、どうしてさげすまれなければならない。彼らは何を考えて石を積んでいるんだ」
子鬼は笑った。
「そうじゃ、無関係じゃ。ならおんしゃ、どうして苛立っている」
子鬼は笑っていた。
私の心は、何故か平静だった。あれほど苛立っていたというのに、何に怒りを覚えたのかわからなくなった。そうだ、何も彼らの真似をする必要なんてない。私がしたいのは、先へ進むことなのだから。
私はもう一度、オトナの道へと入った。不思議なことに、あれほど奇妙に見えていた部屋の中を見渡せるようになっていた。石柱に目を奪われず、ただ、部屋を眺めていた。
部屋の中央はかがり火で明るいが、左右の壁は見えない。ただ暗く、真っ黒なものが広がっているばかりである。私は子鬼の言葉を思い出していた。そう、コドモの誰かが石積みを始めたのだということを。
私は左の、コドモの道と分けているであろう壁を触ってみた。
何もなかった。
暗いだけである。壁などなく、ここは一つの大きな部屋に二つの入り口がついているだけなのだ。分けていたのは自分なのだ。
「おんしゃ、道を決めたか」
子鬼が部屋の、大きな部屋の中央に立っていた。そこには、なかったはずのかがり火がともり、大きな部屋全体を照らしていた。
だが、誰も気がつかない。
子狐も、うさぎも、熊も、みなが一心に石を積んでいるだけである。
私には、それが怖くてたまらなかった。
だが同時に、なんだか安心を覚えた。
ああ、私は何故分けていたのだろうか。
道は全て繋がっている。どこから入っても、進むのは自分でしかないのだ。答えなど、はじめから一つしかなかった。
子鬼は私を見て、微笑んだ。
「さあ、まだ出口は先だぞ。歩け、歩け」
私は、大きな部屋の中央にある、ひとつだけの出口から、この部屋を出た。
それからどうしたろうか。
歩いているのか、止まっているのか、まるでわからない時間が過ぎていた。
暗い、ただ暗い。
私は子鬼に手を引かれながら、ただ何もわからない時間を過ごした。
「さあ、道を選べ」
私は目を開けるように、立ち止まるように、あたりの景色を見回した。
同じである。ホールのような場所に二つの入り口。それぞれ木の札が下がっており、やはり道の名前が書いてある。
ただ違うのは、子鬼が左の道の前で立っていることである。
私は右の道をのぞいてみた。札にはシの道とある。
本当に、暗かった。
一寸先どころか、入り口から先は何もないように暗く、それがどれほど続いているのか、どこで終わっているのかわからなかった。
「おんしゃ、そっちを選ぶか」
子鬼が、いつの間にか私の横に立っていた。
「そこから先は何もないぞ。入っても戻れるかわからんぞ。呼んでも届くかわからんぞ」
私は怖くなり、突っ込んだ首を引っ込めた。
「何もないのかい」
子鬼は目を伏せ、首を横に振った。
「わからん。何かあるのか、何もないのか。誰も行ったことがないから誰も知らんぞ。それでも行くのか」
私はシの道を見つめていた。本当に、ただ暗かった。
「なら、どうしてこの道はあるの」
「必要だからじゃ。道は一つでも、二つの入り口がなければ選ぶことができんぞ」
私は子鬼を見つめた。
「なら、二つの道は同じところへ繋がっているのかい」
子鬼もまた、私を見つめていた。
「誰も知らんぞ」
私は少し疲れを感じ、シの道の前で座っていた。
左の道はウマレの道だった。
そこで子鬼は座っていた。
私は迷っていなかった。迷うことはない。左の道を行くべきなのだ。しかし行ったところで何があるというのだろうか。先のうさぎのように、何もないなら、ここでこうしていたい。
何があるかわからない。それなら、ウマレもシも同じではないか。
私がそんなことを考えていると、子鬼がいきなり立ち上がり、ひょこひょことした足取りで奇妙な踊りを始める。私はそれを見ていた。
「エンヤラ、ホイヤラ」
私が初めて聞いた、あの歌だ。
「誰かがいるぞ、誰がいる。応えろホーイ」
私はそれを、じっと見ていた。
「それは、誰かを呼ぶ歌なのかい」
子鬼が振り向く。奇妙な表情だった。
「違うぞ。誰も呼ばず、誰も応えず。これはただの歌じゃ」
子鬼は続けた。踊りながら。
「応えたものは、わが友じゃ。わが友なれば、助けよう。ここは谷、ここは里」
私はいつの間にか、笑いながらその歌を聴いていた。
子鬼がひょこひょこと歩いてくる。私は立ち上がった。
「決めたか、道を」
私はウマレの道に入った。
中は暗かった。しかし足元は見える。歩いている場所が酷い上り坂だということもわかった。
苦しかった。私は子鬼の手をとり、引かれるようにしてやっと登っていた。
心臓がドラムのように感じる。血流が耳の奥でドクドクと音を鳴らして流れてゆく。私は全身で息をして、少しずつ登っていた。
暗い。やはり暗い。
それでも、私は生きていることを感じている。
ああ、生きている。
子鬼が立ち止まる。私も止まったが、しかし子鬼の顔が見えない。
私は怖くなった。この握っている手は、誰のものなのか。
ゴツゴツとした手の感触が、やけに生々しい。
「おんしゃ、怖いか」
私は震えた。冷たい汗が、背中を流れる。
子鬼の手が、強く握られるような気がした。
「わしも、怖いぞ」
私たちはそれから、一歩一歩を踏みしめるように登っていった。
苦しい。
何時間経ったのか、それとも何分も経っていないのか。
しかし、だんだんと目を開けるように、あたりが明るくなっていたのに気がついた。
次の一歩は、柔らかい土の上だった。
いつ抜けたのか。
いつ戻ったのか。
やはりわからない。
私は背の低い木が密集して少し暗くなっている場所に立っていた。それでも洞窟の暗さよりは、昼と朝がいっぺんにやってきたような明るさだったので、私の目は混乱を経てやっと見えるようになった。
子鬼はまだ私の手を引いていた。やはり極端ながに股だが、それでも器用に斜面を登ってゆく。私は子鬼の角を見つめ、何だかむしょうに寂しくなった。
私たちは斜面を登りきり、そして並んで立った。
美しかった。
それは少し物悲しかった。
山並みを夕日が赤く染め、眼下に見下ろす小さな温泉郷が白い湯気を雲のように吐き出している。寒さも疲れも、一瞬和らいだような気がするほど、私は見とれた。
どうやら時刻は夕方。私は最初に決めた目的地を大分過ぎ、温泉郷の方まで歩いてきてしまったらしい。洞窟がどのようなルートなのかまるで想像がつかないが、それでも私にははっきりと現実だと思えた。
子鬼は私の手を離し、奇妙な、しかし愛嬌のある表情になる。
「着いたぞ。ここからは一人で帰れるだろう」
私はうなずいた。
「そうだね。ありがとう、ここまで来てくれて」
子鬼は笑った。
「何を、友よ。応えてくれたおんしゃ、わが友じゃ」
私も笑った。こんなに穏やかな気持ちで笑うことは、もうずっとなかった。
「ありがとう、友よ。何か少し、解った気がする」
私は右手を差し出した。背の小さな友人は、やたらと長い腕で私の手をとり、赤い肌を夕日でより赤く染め、私の握手に応じてくれた。
私たちが手を離したとき、もう私の前に子鬼の姿はなかった。
私は歩みだし、気をつけながら下った。
下りながら、私は考える。
死とは、生とは、大人とは、子供とは。
私は、それらの明確な境目は知らないが、それでも、何か解った気がしている。
それはきっと、人は日々、生まれたり死んだりしているからで、私も例に漏れず生まれかわっているからなのだろうと思う。
ああ、生きている。
喜びにはほど遠いが、それでも、私は楽しんでいた。
美しいこの夕焼けの中を。
緑の葉が揺れる山の中を。
何だか、生きたくなった。
私が誰にとも知れない笑みをこぼすと、
遠くの山並みから、
誰にとも知れない歌が聞こえる気がした。
読んでくださり、ありがとうございました。長くなったので、とても嬉しいです。