その男の名は田中
◆これまでのあらすじ◆
透は近所で2、3日中に火災がおこると予言する。妹の結衣は二人の母の祥子に相談し、定点カメラで監視することに。その祥子は近所に引っ越してくる帰国子女の家庭教師を透に依頼するが、成績が良いはずの透にはあっさりと断られてしまう。聞けば、答案を見るとテストの答えがわかってしまうという。その時、窓を開けようとする間抜けな声が聞こえてきたが…?
「ようやく来たか。やれやれ」
よっこいしょ、とおばさん臭い掛け声をかけながら祥子はおもむろに立ち上がり、襖を開けた。
ヒヤリ、とした空気が和室に入ってくる。隣り合う、くれ縁に面した二十畳の大きな部屋は天井も高く作られて、奥には床の間があり、祖父の趣味の甲冑が鎮座している。真ん中を襖で仕切ると二間になるが、普段は襖を取って広々とさせていた。縁側との仕切りには東北らしい雪見障子が収まっている。その一つをタン、と開けると、果たしてそこには泥棒よろしく靴を小脇に抱えて硝子戸を開けようとしている田中の姿があった。
「遅かったな、首尾は上々か?」
カラカラと硝子戸を開けながら、開口一番にかけられる言葉がこれだ。
「センセー、酷いですよ。鍵開けといて下さいよって何度もお願いしたやないですかぁ」
「悪い悪い。こっちもそれなりに立て込んでてな」
「全然悪いと思ってないでしょ。もう僕今日こそは昼まで寝たろーっゲヘヘヘと思ってたのに」
慣れた様子で靴を縁下の天然石の上に揃え、祥子に伴われて屋敷内に入ってくる。
彼の名は田中由夫、四文字という字数制限の中で名前に二回田んぼが入る、東京生まれ東京育ち。単純に床屋に行き損ねているだけの髪型に寝癖を付け、ラフな青いパーカーと黒のデニム姿。トレードマークの黒縁メガネ。その彼の口から出てくる下手くそな関西弁は聞く人をゲンナリさせる効力を持つ。
「そんなこと言って、どうせマッタリお茶してたんじゃないですか?」
そして、時々鋭い。
きょろりと室内を見回してから、開け放しの襖の奥に結衣を見つけると嬉しそうな声をあげた。
「わあ、結衣ちゃん久しぶりやなぁ、相変わらずかわいいねえ。私服もええなぁ」
私服ってゆうかドテラなんですけど。なんで、私タナパイに懐かれているんだろう。一言も返事をしない結衣など御構いなしに浮かれた足取りで近づいてくる田中。ところが、襖に隠れていた透が視界に入ると急に勢いがなくなった。
「…あー、と透さんもいらっしゃったんですか。き、今日は道場には行かれないんですか?」
何故透に敬語。何故どもる。さりげなく失礼だし。
「それにしても、センセ。またこんな広い家でわざわざこんな小部屋に集まって何してんのですか」
「冬の間は室温優先だからな。広いところは寒い」
「冬て。もうすぐ四月でっせ?ホンマにこのセンセーは」
そんなことを言いながら、ちゃっかり空いていたコタツのテレビ側に入ってくる。今日は背中に黒の大きなバックパックを背負っていて、座りながら荷物をどっかりと置いた。
日本家屋は冬の寒さよりも夏の暑さの中でいかに快適に過ごすかを念頭に造られている。春先の気候では太陽が照る外よりも中の方が寒いなどザラである。
祥子は再び襖を閉め、田中の向かいに腰を下ろす。六畳間に大人四人。流石に少し狭く感じる。掘り炬燵の中に8本の足が揃うと、祥子が口を開いた。
「今日はたまたまだ。結衣を探してたらコタツに入ってたんでな」
「僕もコタツ大好きです。コタツ最高。寒いの嫌ぁよねえ。いや〜結衣ちゃん僕等気ぃが合うねえ」
キリッとした表情で結衣に振り向く田中。何のこっちゃ。
「私もコタツ好きですよ」
ニコニコと笑顔で会話に入る透。
田中は、ギ、ギ、ギ、と顔を正面に固定する。決して透の方を見ようとしない。
「……あらヤダ。やったー透さんとも気ぃが合っちゃいましたね」
「おい、棒読みになってるぞ」
「ヤダなぁセンセ。ソンナコトナイデスヨ」
ごほん、とわざとらしい咳払いを一つして、そんなことより、と田中は黒のバックパックを引き寄せた。
「朝から大変やったんですよ、もぉイキナリ川口さんとこに定点カメラ仕掛けてこいなんて。今度は何を始めるつもりなんですかぁ?」
喋りながら、バッグの中の機材をテーブルの上に並べ始める。
「あ、一応お茶はどっか別とこにのいて貰えます?おおきに!」
「なんだお前、親しいのか」
祥子が頬杖をつきながら、機材を設置する田中を眺め、ついでのように聞いた。
そういえば、今更だけど名前知らなかったな。うちよりタナパイの家の方がその『川口さん』ちに近いし、そりゃ知ってるか。
「全然!表札見ただけです」
さよか。
「朝っぱらから道端でゴソゴソしてるのって側から見たらメチャメチャ怪しいですやん?たまたま巡回中の警察官に職質されちゃいましたよ〜、あ、全然大丈夫でしたよ?そいつ高校ん時の同級やったんで、まあ何とか誤魔化せました。あ、ごめんね、コンセント一個借りてもいい?」
喋りながら田中はテキパキと機材をケーブルで繋いでいく。
「これで、電源を入れて同期させれば……お、映りましたよ!」
手のひら程の小さなモニターに閑静な住宅街の一角が映し出される。
おおー、と小さな部屋に上がった歓声に心なし得意げな田中。鼻の下を人差し指で擦るその顔には、もっと褒めて褒めてと書いてある。
「言われた通り画像だけで、音声は拾ってないです」
「ああ、画像だけで充分だ。どれどれ」
モニターを田中から受け取り確認する祥子。それを横目でチラ見しながら結衣が気になっていた疑問を口にした。
「でもさ、タナパイなんでこんな事できるの?定点カメラの設置なんて業者じゃん」
結衣の素朴な疑問を聞いて田中ははははと笑う。
「全然簡単なもんよ?これくらいなら。一回覚えちゃえば大体どのメーカーでも一緒だし。僕一応電気工事士の資格持ってるしね!」
「でもさ、普通に生活してて定点カメラ設置する機会なんてないでしょ?」
ちょっと電気に詳しい人なら簡単な事なんだろうか?
「ほら、覚えてない?2014年の関東山元組内部抗争」
はい?
「ええ?覚えてないの?僕らめちゃめちゃ盛り上がってたのにぃ…でもそうやね結衣ちゃんまだ小学生だったかなぁ。ああ、小さい頃の結衣ちゃんホンマに天使のようやって可愛かったなぁ。あ、モチロン今も充分可愛いよ?え?そゆのいらない?照れんでもええのに〜。まあ、ええわ。なんやったかな、あ、そうそう、そん時な、ずっと張り込むの面倒やし、もうちょい突っ込んだ所まで知りたいから敵対してた両方の事務所に何個かカメラ仕掛けてこいってセンセに言われて」
おいおいおいおいおいおいおいおい、何をさせとるんだこのおばはんは。
「あん時は大変やったなぁ。見つかったらヤクザの制裁が待ってるやろうし、使いもんにならんやったらセンセから海に沈められるだろうし、それこそ死に物狂いで見つからんようにありとあらゆる想定してからね…」
ヤのつく職業の方々と同列で恐れられている祥子さんって一体…知らんとこでとんでもないことさせてたんだな。ちょっとだけタナパイを尊敬。いつも生意気な態度でごめんなさい。
2014年て言えば、6年前か。タナパイだってまだ高校生じゃん。私下手にそーゆー才能なくてホントよかったよ。
「おい、田中」
ッゴィン!!!!!
いつの間にか立ち上がっていた祥子が、言うが早いか、田中の頭の上に鉄拳を振り下ろした。
「ーーーっイッだーーーーーー!!!」
「ぶぁっかもん!なんだこの映像はあ!」
祥子は頭部を両手で抑えて涙目の田中の眼前にモニターを突きつける。
「ーーいててて……えぇ?何って川口さん家?………て、え?まってまってセンセ!おおおお親指は目に入らないでしょおおお?!!!」
祥子の手には既にモニターは無く、今まさに、田中の顔面を掴んで黒縁メガネをずらし、両親指を眼球に食い込ませようとしている。
「お前のここは節穴だな?私にはまだご大層な眼球が入ってるように見えるぞ?あ?なんだ?これを潰せば田中に相応しい節穴の完成だな?」
「ちょお……お、お、おおおおセンセギブ!ギブギブギブ…ひあああぁ」
コタツのテーブル越しに毎度お馴染みのじゃれ合いが繰り広げられる中、透と結衣はこそこそとモニター画面を確認する。
「んーー?なんだこれ、森?」
そこには常緑樹や広葉樹らしき葉を落とした木々の庭が映っている。
「ああ、成る程。これか」
一人で納得する透。
結衣には綺麗な森の映像にしか見えないのだが。
「ほら、ここ。遠くの方に映ってるの、川口さんちの屋根」
言われて見直すとたしかにそれっぽい屋根が映っている……ただしほんの一部だけ。
「だっ、だってセンセー、二、三日だけの事だし、遠目から屋根が見えるようにカメラも一台でええって言うてたやないですかぁ!」
「ナんだコラ、田中のくせに口答えする気かああ゛?」
ジャイ○ンか。
「しかも『ちょっぱやで』って言うからぁ!職質されて誤魔化しながら作業してるうちにそこに設置するしか…」
祥子によって顔面をギリギリとコタツの天板に押し付け、いや埋め込まれようとしている田中にいつもの調子で透が話しかける。
「ってゆうか、ここって蔦屋敷ですか?」
今更だが、『蔦屋敷』とはご近所だけで通じる通称である。
「いいいいた、耳!耳痛いですセンセ!堪忍してくださいよぉ!そおです!職質されて咄嗟に蔦屋敷の防犯カメラの調整に来たって言うてしまったんですよぉ!あすこは防犯カメラ既にうじゃうじゃ付いてるし、向こうもあっさり納得してしもうて、ぐだぐた世間話始めるから引くに引けなくて」
「え?あそこ超厳つい門がついてるじゃん?塀乗り越えて忍び込んだの?」
顔面を埋め込まれながらも律儀に答える田中。
「それが開いてたんですわ。なんや引っ越しとかで」
それを聞いて、思わず祥子、透、結衣の三人はお互いに顔を見合わせる。
一方、田中はようやく祥子の手が離れ、半分魂が抜けていた。
「やけに早いな」
「祥子さん聞いてなかったの?今日引っ越しすること」
「いや…なにぶん寝起きだったものでな。私も最初は半分夢現だった。もしかしたら言ってたのかもしれん」
結衣と祥子の会話の合間に透が立ち上がり、襖に向かう。
その背中に祥子は言葉をかけた。
「行くのか?」
「『川口さん』のお宅が気になります。大丈夫そうならついでに断ってきますよ。早い方がいいでしょう?」
透はそう言って襖をスッと引いた。
「なら、田中も一緒に行ってカメラを付け直してこい」
「ええー!僕朝からご飯も食べんと頑張ってきたんですよぉ。ちょっと休憩させてもろても罰はあたらんでしょお?」
祥子に虐げ慣れている田中は、さっきまでの攻防を忘れたかのように口を尖らせるので、再び祥子から黒いオーラが立ち上りはじめる。
透はその様子を見てくすり、と笑うと襖近くの祥子の肩にぽん、と手を置いた。
「大丈夫ですよ。結衣悪いけど田中先輩にお茶淹れてあげて。後で電話するね」
それだけ言うと、透はさっさと部屋を後にした。
少しして玄関のカラカラという引き戸の音がする。それを聞き届けてから結衣はじとーっと田中を睨んだ。
心当たりがある田中はどこか気まずそうにしている。
「結衣ちゃん、なんか怖ない?」
「もう!タナパイ透が苦手なんだろうけどあからさますぎ!そんなんでよく社会人できるね」
結衣に怒られしゅんとする田中。知らず知らず丸くなった背中に哀愁を漂わせている。
休日に朝からこき使われ、理不尽な祥子にどつき回され、あげく年下から説教を受ける田中由夫二十五歳。
彼が所帯を持って落ち着く日は限りなく遠い。
つづく。