鬼丸家の食卓にはコーヒーとドテラが合う
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達筆な書体で『鬼丸』と書かれた表札の下。カラカラと玄関の引き戸が音を立てて滑る。
経年劣化した重厚な木製の引き戸だ。それを開けると、黒御影石のタイルが敷き詰められた玄関、框の上に目隠しの屏風が目に入る。
玄関に入ると同時に下駄箱の上に置かれた小さなアナログ時計を見ると、まだ朝の6時半だった。
昼夜逆転が当たり前の祥子(母)がこの時間に使い物になる確率は限りなく低い。
「相談は…今すぐはちょっと無理か、時間的に。でもそんな事言ってられないかなあ」
災害は人間の都合なぞ待ってはくれないのだ。この場合人災か?
「ん、多分だけど今すぐ火事にはならないと思うよ」
透が額に手を当てながら返答する。へー、そんな事までわかるんだ。
「ま、今さっき見たとこだからね」
時間的に余裕があるなら、まずは汗でも流そう。古めかしい屏風を横切り浴室へと向かう。
ちなみに、結衣の家は築30年の平屋だが、そもそも築120年の古民家だったという。
結衣の曽祖父は、戦後の混乱期に様々な商売に精を出して財を築いたそうな。その跡を継いだ結衣の祖父は、土地を転がして事業を広げ、バブルの頃には随分儲けたらしい。バブルが弾けてからは、事業はかなり縮小されたが、それでも身の回りの物に並々ならぬ拘りを持つ程度には裕福だった。
そんな祖父の拘りの詰まった家は、わざわざ岩手だか秋田だかの古民家を移築したものだ。一度解体した材木をトラックで運び、風呂やトイレ、台所を除いた部分はほぼ戦前の様式を俘囚した伝統的な工法で建てられている。
小さい頃、おじいちゃんから、
「結衣〜見てみろこの梁を!自然に曲がった木をそのまま活かしてるんだぞー」とか「おい、こっちのこれも見てみろ〜。この柱の傷は明治時代のものなんだ、凄いだろ〜」と自慢される度、「え、何が?」と思っていた。はい。勿論思っていただけですよ。上機嫌の祖父に意見できる者など誰一人として居ないのだ。
磨き上げられた廊下を進みながら、結衣はもうパーカーを脱いでいた。早朝の廊下は冷やとしていたが、それよりも一刻も早く、シャワーを浴びたい。さっぱりしたい。そして、朝食は消去法で結衣が作らなくてはならないので、頭の中で冷蔵庫の中身と献立を組み立てていく。早朝ランニングのお陰でいつもよりは頭の回転が早いような気がします。
「朝ごはんだけどー、パンでもいいかなー」
結衣は脱衣所で服を脱がながら、透に聞こえるように大きな声で呼びかける。居間にいるであろう透からも大きな声で返事があった。
「うん、それならコーヒーいれようかー?」
「やた!」
何故か透が入れると同じ豆と思えないくらいコーヒーが美味しくなる。これは透の得意な謎現象の一つである。できるなら、その神の手でついでに朝ごはんも作って欲しいところだが、電化製品とすこぶる相性の悪い透が必要以上に台所に立つと、冷蔵庫や電子レンジがストを起こし始める、という厄介な謎現象が起きてしまうので、諦めるしかない。
結衣が手早くシャワーを浴び、髪をおざねりに拭きながら台所に行くと、丁度コーヒーを落としているところだった。タイマーでセットしてあったオイルヒーターのおかげで吹き抜けながら結構暖かい。そこに淹れたてのコーヒーの香りが充満して、思わず頰が緩む。んーいい香り。
台所は、「おくどはどうしても残したい」という祖父の拘りと「使う方の身にもなってみな!台所は女の戦場なんだよ!」という祖母の主張が対立し、石畳の土間に大晦日にしか使わない本物のカマドとガスコンロが隣り合っている。その土間から三段程上がって、居間として使っている6畳の座敷は板張りで、ダイニングテーブルと椅子が並んでいる。ちゃぶ台は、結衣達の母である祥子が「いい加減、椅子に座りたい」と言って数年前から姿を消した。
早速、レタスとタマネギとミニトマトのサラダと卵液、ウィンナーを準備する。スクランブルエッグは泡立て器をフライパンの中でカシャカシャとかき混ぜて、中火にかけていた火をすぐに止めればふわふわトロトロになるのだ。
ウィンナーは別の小鍋にお湯をはり、弱火で火を通す。少し弾けた所で保温にしておけば熱々のウィンナーが食べられるので、結衣は焼くよりは湯煎の方が好きだった。本当はクロワッサンが良かったんだけどな、とカラスのパン屋さんに思いを馳せつつ、食パンをトースターに二枚セットして、おかずを皿に盛り付けていった。
結衣が台所からダイニングテーブルに皿を持っていくと、すでに黄色い格子模様のテーブルマットとフォークやマグカップがセットされている。
そこに出来立て熱々の朝食を並べていると、チン、と音が鳴って焼きたてのパンが排出される。あち、あちち、と言いながらパンをバスケットに乗せ、急いでテーブルの上へ。美味しい物は美味しいうちに食べるのが結衣のモットーだ。
「えー、と、取り敢えずパンはうちらの分だけでよさそ、う?」
テーブルの向かい側でコーヒーを注いでいる透に話しかけながら、結衣の視線はテーブルに顔面から突っ伏して微動だにしないもう一人の人物に注がれている。ていうか、居たのか。
母の祥子である。
長く真っ直ぐな黒髪は、無造作に後ろで括られて、今は更に崩れて悲惨な状態である。愛用している灰色のヨレヨレスウェットに赤チェックのドテラを羽織っただけの簡易な姿だ。
今ピク、と背中が動いたけど、絶対起きてるよね。
透からは謎の微笑みが返ってくる。
うん。
取り敢えず自分から起きるまでは放置しよう。触らぬ神に祟りなし、だし。
透と二人、頂きます、と小さく手を合わせてから、焼きたての食パンにバターとミルクジャムを塗って、頬張る。すかさず、コーヒーを一口。うまい。美味くない理由がない。
「…コ……も…い…ない…」
うん、なんか聞こえた。
優しい透はウィンナーをもぐもぐしながら『突っ伏して寝る女』のモニュメントに身体を傾けて、耳を近づける。
「コ……も………い」
さっきより情報少なくなっとるがな。結衣はサラダをバリバリしながら半眼でモニュメントを見つめる。が、どうやら、透の耳には届いたようである。
「え?腰が熱海に行けない?」
こっちには聞こえなかったけど、多分違う。
「……」
「え?氷は熱海に要らない?」
再びこっちには聞こえなかったけど、え、違うよね。
熱海ってなんなんだ。なんで熱海。
「……」
「え?コオロギがあた…」
「だから!熱海ってなんだ馬鹿者ー!私はコーヒーなんてもう見たくないんだってば!」
先に痺れを切らしたのは祥子さんだった。
ガバッと顔を上げて絶叫している。
熱海がどこからきたのか、それは多分誰にもわからない。
「おはようございます。祥子さん」
言いながら笑顔で祥子さんのカップにコーヒーを入れる透。コーヒーはもう見たくないとこれ程はっきり宣言している人にコーヒーを注ぐメンタルは私にはない。さすが透。
「うう、昨日からもうずっとモカ・イルガチェフとブラジル・サントスが大きな沢山の歯車が回ってる所に放り込まれて、ゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリ…されててな」
がっくりと項垂れてブツブツと呟くのは一昨日、締め切り前の修羅場を終えた祥子さん。
彼女は私達の母である。
同時に我が家の大黒柱様で、多方面に謎のパイプを持ち、徹底した取材を基礎に独特の切り口で描くコラムやエッセイ、ノンフィクションの小説はわかりやすくて面白いと評判らしい、です。活字苦手だから読んだことないけど。
祥子は、大きな締め切りを乗り越えると、大体丸一日寝る。ホントお疲れ様です。よっ、神様仏様祥子様。因みにその悪夢は普通にコーヒーを挽いているだけだろうと思われます。
「寝起きでお疲れのところ悪いんだけど、ちょっと相談があって。あ、先パン食べる?焼こうか?」
「ああん?」
祥子は片眉をピクと上げて、何処ぞの田舎のヤンキー崩れか!と思わず突っ込みたくなる凶悪な人相と口調である。
結衣はポイっとパンを一枚トースターに突っ込んで、小鍋のお湯の中で泳いでるウィンナーを皿に移す。サラダと玉子はすでにテーブルに乗ってるので、あっという間に、………あ、パン焼けた。今度こそあっという間に朝食の出来上がり〜。
「色恋沙汰なら間に合っているぞ。今日びJKのションベン臭え乳繰り合いなんざ一文にもならん」
酷い言い草だ。
こんな美味しそうな朝ごはんを前にション◯ンとか◯繰り合いとか本当酷すぎ。娘に対する暴言反対!
……透は究極のスルースキル発動してるし。
「大体、休みの日になんでこんな時間に起きてるんだ。お前ら。あれ?今夕方?今日って何曜日?」
「はあ、もう…大丈夫、今日は土曜で今は朝の七時だよ」
「なんだ。2日多く寝てしまったかと思ったぞ」
「今朝は結衣も走るっていうので、一緒に走ってきたんですよ」
朝食を粗方平らげた透が、会話に入ってきた。新学期が始まる前に少し体重落としたかっただけなので、何となくバラさんで欲しかったんですけど。
「色気付いたってまだ尻の青いガキ」
別に色気付いてないし、お、お尻も青くないし!多分。
「私としては、また以前のように二人で走りたいですね」
「ハッ!高校受験にかこつけてサボりだしてから『二度寝ってこんなに気持ちよくて幸せなのね〜』とか小躍りしてた凡人には無理無理」
「もう、いいじゃん私のことは!真面目に相談したいんだってば!」
拳でドン、とテーブルを打つ。透はきょとんと、祥子はニヤニヤしてる。やや強引だが、物理的解決方法にて何とか軌道修正を試みてみた。祥子様に口で勝てるとか1μも思わないのでその手には乗らないのだ。透は暖簾に腕押しヌカに釘、練って美味しいネルネル……と、とにかく、透には攻撃が全て吸収されるため、祥子の矛先は全て私に向けられる。なんて理不尽。
「ところで、走ってるときイケメン見なかった?」
ほんとにこのおばはんは…。
つづく。