春先の朝霧にはご用心
一話が少し長めです。少し系統が違いますが頑張って呼んで下さい。間違えた。読んでください。
都市を覆う朝靄は、夜明けの風に押されゆっくりと動き始めた。
その朝靄の中を走る人影がひとつ、規則的な足音と、少し乱れた息遣いが静寂に響く。薄水色のパーカーと運動に最適な七分丈のパンツスタイル、卵のような形の良い額を剥き出しにして、後頭部で一つに纏められたポニーテールの毛束が左右に揺れている。
住宅街にある公園の脇には少し広めの遊歩道が整備されていて、ランニングには最適だった。
小柄ながらもすらりと伸びる細長い手足の先には少し使い込まれた白のランニングシューズと同じ色のリストバンド。頰を伝う汗をそのリストバンドでグイと拭えば、時折思い出したように住宅地を通り過ぎていく車の音、早起きな鳥のさえずりがチチチチ、ピッピピピピッピーなどと聞こえてくる。あれは雀だろうか?それともヒバリ?ヒバリ見たことないけど、というかそもそもどんな鳥かも知らないけど、などとランニングの最中に結衣は思った。
チラリと視線を街路樹の枝に向けるが、黒い影が忙しなく飛んだり枝に止まったりを繰り返している。まあ多分雀に似てるんじゃないかな、字面的に。
昨今、都会では近年雀が減ってきている、らしい。結衣の情報源はほぼテレビである。その時は私雀とツバメくらいしか判別つかないのにやべくね、と思った気がする。
因みにカラスは鳥のカテゴリーからそろそろ外していいと思う。彼等は猛獣だ。都会のゴミを貪る貪欲さ、エゲツなさ、見た目もキテる。『カラスのパン屋さん』じゃあんなに可愛い感じだったのに。現実はいつも少しだけ厳しいものなのだ。
…ああ、なんかパン食べたくなってきた。懐かしい絵本を思い出したせいだ。慣れない早起きと運動のせいで急激にお腹が減っていってる。朝ごはんにするなら断然クロワッサン。少し温めて、表面がカリッと中はほわわわーとしてもっちりとしたやつがいい。お値段高めの大きいクロワッサンもいいが、結衣としてはホテルのバイキングで出てくる小さめのが好みである。あえてカリカリではなく、程よく湯に晒された柔らかいベーコンとウインナー、半熟の目玉焼き、ヤングコーンがたっぷり入ったサラダにフレンチドレッシングをたらーっとかけて…おっといかんヨダレが。
結衣は思考を飛ばしていつのまにかスーパーの試食はなぜ肉類が多いのか、という難題について考えていた。
彼女の友人の一人がその様子を見ていたら「また、変な妄想してんの?」となるだろうが、結衣としてはこれは自分の長所である!と声を大にして言いたい。因みに友人の評価について結衣は全く本当に一ミクロンも気にしていない。
思考に紐付けしながらも自由に発想を飛ばす。クリエイティブな考察方法と言って欲しい。いや、ホントだよ?
遊歩道が途切れ、住宅地の路地へと入る。もうゴールまであと少し、というところで結衣は先行して走っていた人物を発見する。
向こうは最初から待っていました、とでもいうかのように片手でペッドボトルを弄びながらニコニコしていた。
結衣の三歳年長の透である。
結衣よりずっと速く走っていたはずなのに汗ひとつなく涼しげな様子に釈然としない。向こうは毎日走っているので、当然といえば当然なのだが、悔しい気持ちは少なからずある。
残念ながら息がすっかり上がってしまった結衣は、あと数歩のところで速度を緩めて歩き、息を整える。ハッハッハッ、と浅い呼吸を繰り返し、腰に手を当てて天を仰ぐ。この体たらく。1年半程、高校受験やら新しい生活環境に適応する名目で日課であったランニングをサボっていた結衣に現実はそんなに甘くない。
「そういえば、師匠がまた道場に来いって言ってたよ」
言葉をかけられて結衣は顔を戻した。結衣と同じ5キロのランニングを終えたばかりと思えないほどの涼しい顔が微笑みながらポカリを差し出している。結衣は道場主の好々爺の顔を思い出しながらふっと遠くを見た。おじいちゃん先生元気かなー。
「いや、もう一年以上行ってないし、身体もめっちゃなまってる。無理」
ポカリを受け取り、一口煽ってから結衣は答えた。ポカリは予想していたよりよく冷えてる。近くに自販機は無いことはないが、透なら多分…。
「冷蔵庫にちょうど入ってたから」
ニコリ、としながら心を読んだかのような言葉。普通ならギョッとするかもしれないが、長年一緒に育ってきた結衣が今更驚く訳もなく、どんだけ早く帰ってきたの、と少し呆れながら喉を潤す。つまり、一度家に帰ってからまた、ここまで来て待っていた訳だ。わかってはいたが、透は本物の体力お化けだ。
結衣がちらと、視線を向けると透は麗しい眉を少しだけ下げて困ったように微笑んでいる。
誰から見ても整った中性的な小顔である。幼さの残る目鼻立ちと、年齢にそぐわない老成した雰囲気が共存しているおかげか、年齢不詳だ。160センチそこそこの結衣からすれば、見上げる程背が高い。まだ伸びていると言っていたが180までは届いていないと思う。細身ながら程よく鍛えられた身体は余分な物が何もない。男性にしては線が細く、女性にしては丸みが足りず、髪型は短く切った後伸ばしっぱなしにしているような中途半端な長さで、日によって、或いは服装によって、男にも女にも見える。声も中性的なアルトでぶっちゃけ美声。もう、男でも女でもどっちでもいいかな…って思わせる程度には。
昨日、女子高生から今時珍しいラブレターを一方的に押し付けられたかと思えば翌日には『透さんて女性にしては珍しい名前ですね』と美中年に口説かれている。散歩中の園児からは、何故か泣きながら『いっしょにかえるー!いっしょにいくのー!』と足に縋られ、保険の勧誘に来たおばさんが『あの、モデルさんか俳優さんですよね』と言って何故か持っていた色紙にサインをねだられる、などなど。
全方位、老若男女問わずモテる。
しかも向こうからの想いの伝え方がバラエティに富んでいてお笑いか!と突っ込みたくなる程だ。
中でも傑作だったのは、某動物サファリ系のテーマパーク事件である。
長くなるので詳細は割愛するが、透と本物のサバンナに行ったら絶対大変な事になる、と思うには十分な事件だった。二人の母である祥子は『とんでもない人たらしとは思っていたが、透のタラシ力は種族の壁を超えた!』と爆笑した後、『動物ビジネスにブルーオーシャンの予感』とか何とか言って、しばらくの間、透をあの手この手の絡め手で謎の新規ビジネスに巻き込もうとしていた。
某テーマパークのレンジャー達からは、『高校を卒業したら是非うちで働いてくれませんか?』と熱心に勧誘され、同テーマパークの偉い人からは『公私共にパートナーになって頂けないでしょうか。え、無理?ならせめて期間限定で愛人は?え、もっと無理?なら…』と言い寄られ、最終的には私が怒りの天誅を食らわせる羽目になったんだっけ。
思い出しながら結衣が半眼で見れば、透は既にこちらを見ていなかった。その視線の先を何となく見やると、道を挟んで向かい側の家が並んで建っている。この辺りは、区画整理された割と高級住宅地なので少し年季の入った立派な家が多い。家と家の間隔が広めなので、透が見ているであろう家は間違いなく分かった。
「結衣、この家の人のこと知ってる?」
何かを注視しながら、唐突に透が問いかけてくる。
透が眉を微かにひそめて屋根の上あたりを見ているので、結衣ももう一度倣って見るも、朝焼けの残る空と鳥が何羽かいる他は何の変哲も無い。あの鳥は結局雀か、ヒバリか、透なら知っているだろうか?
「んー、ちょっと分かんないかな。おばさんっぽい人が出てくるの見たことあるような気もするけど、…えーと、なんで?」
なんか、嫌な予感がするんですけど。
透は顎に手をやりながら、んー、と言葉を探している。
「絶対なんか見えてるんでしょ?もういいから見えたまんま教えてよ」
結衣は諦めの表情を浮かべながら、ポカリをもう一口煽った。
あーあ、これいつもの面倒臭いやつだ。
透は苦笑を浮かべながら「そう?それなら遠慮なく」と言って正面にある濃紺色の屋根を指差した。
「二、三日前からあそこに赤い旗を持った子供が居るんだけど」
待て待て待て、何だそれは。
「昨日までは旗を持ったまま座ってただけなんだけど、今朝は立ち上がってるんだよね」
つまり、
「えっと、それは…」
お化け的なやつでしょうか。なんて、怖くて聞けない。
「いや、人間の霊じゃなくて、何て言うんだろう。この土地か家の何かなのかな」
ナチュラルに心の声に返答しないで欲しいんだけど。
結衣は、透が指差した屋根の辺りをポカリを持っていない右手でおでこに庇をつくり、もう一度目を凝らして見るが、透が言っているようなものは何も見えない。まあ、見えないのはいいとして、問題は透が意味もなくそんな事を私に言う筈がないって部分なわけで。
「つまり、どう言う事なんでしょうか」思わず敬語になりながら結衣は透に顔を向ける。目が座ってる自覚あるけど許して貰いたい。
すると、透は頰をぽりぽりと掻きながらとんでもない事を言い出した。
「今日か、明日かはまだ分からないんだけど、多分二、三日中にあそこ火事になると思う。もし、結衣が知り合いならそれとなく忠告してもらおうかと思ったんだけど。下手すると放火犯にされちゃうかもだから、迂闊な事言えないしねぇ」
…………はい?
かじ?ってあの火事?
まじか。
家から少し離れているとは言え同じ町内。
知らない人の家とはいえ、事前に危機が分かっているなら、何とかしたいと思うのが人情ってもんで。
結衣は、少しの間透の言葉を頭の中で真剣に吟味した。腕は自然と胸の前で組まれている。
う〜〜〜〜〜〜〜むむむむ、む。
ピンポーン。
「はい、どなた?」
「あの〜、、すみません朝から。近所の者ですけど」
「はあ」
「まだ寒い日もありますけど、最近ようやく暖かくなってきましたよね〜。でも、うちはまだストーブもコタツも出しっぱなしですよ〜。朝起きるのが辛いんでタイマーをセットしてって、いや、寝てる時にストーブつけるのちょっと怖いですけどね〜、ほら火事とか」
「はあ」
「因みにうちは灯油とガスのストーブ使ってるんですよ〜。古い家なもんで隙間風が辛くて。キッチンのコンロもガスだし。最新のIHも憧れますけどね〜。うちもオシャレなシステムキッチンに入れ替えてくれないかなー。ガスコンロだと何かと心配じゃないですか。ほら、火事とか」
「あなた、何なの?システムキッチンの営業ならうちは間に合ってますけど」
「いやいや!営業とか訪問販売とかじゃないんですけど、えーと皆さんのお宅の火の元がつい心配になりまして」
「あ、そう。(余計な)ご親切をどうも。もういいかしら。こう見えても色々忙しいのよ」
「ですよねー。あ、因みにストーブは灯油ですか?電気ですか?」
「……」
いや、無理だ。
例え知り合いだとしても、昔から家族ぐるみ程度の深い知り合いじゃないと。これじゃ怪しさ満点の変な女子高生だ。よくて押しかけ訪問販売にしか見えない。
「あなたの家もしかしたら火事になるかも〜」
とか言った日には、確実に通報されるだろうし。
「最近火事が多いそうですよ〜火の用心!」
とか言っても、ハイハイって流されて終わりだよ。皆うちは大丈夫って思ってるんだから。
というわけで。
未然に防ぐ方法、ない。
でも、我々としては火事になることが分かっていればすぐに消防署に連絡する心構えはできる。
初期消火一番、通報二番〜3時のおやつはフンフンフンフンフン〜♪なことは、小学校の防災の日に近所の消防士さんが校庭の台の上で、寸劇を交えて刷り込…教えてくれたから消火が大事なことは分かってるけど、いつ起こるかわからない火事の為に消火器もって張りこむことも出来ないしな。
「わかった。取り敢えず家に帰って祥子さんにも相談して、いつでも通報できるようにしよ」
結衣が早速家に向かって歩き出すと、後ろから「結衣は流石だなぁ」という透の嬉しそうな声がきこえてくる。切り替えが早いのもワタクシの数ある長所の一つです。はい。
ていうか、朝早いとはいえ、火事になる家の目の前で、そんな話してる所を誰かに聞かれたら、それこそ放火犯にされちゃうと思うんだよね。
つづく。