第十五話 最後の一撃
逃走するジキとロッコは一直線に出口を目指した。
張られていた罠に単身飛び込んだ獲物だ。
飴に群がる蟻のようにオーク達が集まってくる。
子供とはいえ一人を抱え、全方位から迫る自重の倍もある怪物達を捌くのは至難であった。
それでもジキは首にロッコをぶら下げたまま、全ての攻撃に対応する。
一帯には二万を超える軍勢。周囲には数百から千の兵が犇めく。
もはやこの数を相手に競り合うことは無意味。
無限とも思えるオーク達を倒すことは、ジキの目的では無い。
視界が豚の群れで埋まり、通路が視野から消える状況で、極力打ち合うことを避け、必要なスペースの奪還の為に剣を振るった。
目的は囲いを突破して地下水路へと逃げ込む事だ。
それで追っ手を撒いて壁の外、この<豚の国>を脱出すればいい。
追手への障害物にするように、正面の敵を斬り倒して進む。
絶え間なく押し寄せる巨体。降り注ぐそれを、まるで未来が見えているかの如く順序通り躱し、軍勢に埋め尽くされた周囲の僅かなスペースに流れ込むように滑り込む。
引っかかった刃に、腕を削がれ、足を削がれても、大切なものを運ぶように、ロッコを懐に守りながら、ジキは前進した。
視界は豚一色。道が無いならば、我が身を押し込んででも作るしかない。
部位の欠損は恐れない。捕まれるくらいなら、刃を自らで押しのけてでも前へと進む。
それが出来なければ捕縛され、とうに命は無い。
無心に駆けた。
脱出が可能かどうか、思う間も無く、ひたすらに身体を前に押し込んで、広い公園の遠い出口を目指した。
――ヨキとイツツキ。
「もしかして、もうへばってんじゃあないよねぇ?!」
ヨキに向かい、イツツキが威勢よく言い放つ。
此処に来て、イツツキが倒したのは六十一匹。ヨキは既に四百に達する。
その差は歴然に思えるが、ヨキのペースは明らかに落ちていた。
「……ふぅ、ぐっ、うるせえっ! 俺の方がぜんっぜん……、倒した、数、多いだろ……があっ!」
ヨキは息も絶え絶えに生意気な後輩に反論する。
「この調子だと、そのうち追いつくと思うけどね」
イツツキは物怖じせずに言い返す。
疲弊しきったヨキのペースが、この先上がるとは考えにくい。
比べてイツツキはスタミナには自信があったし、武器や自身の身軽さから燃費も良い。
イツツキが参戦していなければ、スペースの確保や死角のフォローが行き届かずに、ヨキが此処までもった保証は無かった。
もはや自らの得物に振り回される場面も多いヨキだが、その隙を豚が突くよりも、ヨキの隙を狙う豚をイツツキが排除する方が速い。
ヨキはもはや直近の敵しか見えていないが、近い敵が確実に落ちるので、イツツキは全体を見渡す余裕が持てていた。
「四百、二ィッ!!」
ヨキが更に数を積み重ねる。
彼は煽られる事で奮起する。それも見越して、無理を押してイツツキは彼を挑発した。
もはや強がりくらいしか寄る辺も無い。
現在この戦線を支えているのはイツツキだが、百を倒す苦労が身に染みた結果、ヨキに対して抱く尊敬の念は本物だった。
この年長の戦士は確かに愚鈍だが、自分より遥かに強靭であることを認めていた。
「スタミナより先に、集中力が切れそう……」
イツツキが弱音を口にする。
そう口にしている時点で、意識は散漫になっていた。
一瞬の気の緩みが命取りだ。
着地させたつま先に、異物感——。
「――!!?」
イツツキの左足が激痛に襲われる。
目の前に火花が散ったかのように錯覚。
抗うことも適わず、その場に転倒する。
——イツツキの足はトラバサミに喰われていた。
巨大な怪物の口を連想させる鉄製の罠は左足、踝の上を下顎と上顎で挟み込んで締め付ける。
「痛ってぇッ!? なんだこれ、畜生ッ!!」
それはイツツキらを囲む数十の豚、あるいは足元に事がる数百の死骸、そのどれかが仕掛けた罠だ。
イツツキの顔から血の気が失せる。
鋸歯状の歯が肉を引き千切り、骨を砕いている。
例え罠を解除して抜け出すことが出来たとしても、もはや使い物にはならないだろう。
自慢の武器である身軽さを失ったイツツキの、精神的なダメージは絶大だった。
たった一つのミスが、如何に取り返しがつかないかという事実に、絶望を感じていた。
「馬鹿野郎! さっさと外せ!」
殺到するオークを振り払い、ヨキがイツツキを叱責する。
手を貸すどころか、其方に視線を送る余裕もない。
「やってるッ!! やってるよッ!! くそっ馬鹿かよッ!! 取れないッ!! アアアッ!!? 全然取れないよッ!!」
鋸歯状の歯がガッチリとイツツキの足にくい込んで開かない。
「駄目だ、ヨキ! 此処までだよ、俺はもう闘えない! 共闘はお終いだ!」
イツツキは相棒に自身のリタイアを告げた。
罠は掛かった本人一人では外せない。
外せたとしても、闘うどころか立ち上がれる保証もない。
羽は捥がれた。イツツキの死は確定したのだ。
——しかし、眼前からヨキの背中は無くならない。
イツツキは確かに決別を言い渡した。
二人で闘う事でのメリットは消滅し、既に自分は足手纏いでしかない。
「待ってろ! 一通り片付けたら外してやる!」
ハッキリと伝えた筈なのに、この愚鈍な兄はそれを理解できていないのか?!
イツツキは苛立ちを覚える。
「何やってんだ!! もういいって、見捨てて逃げろよ!!」
死を避けられない奴を庇って、力を発揮できずに死なれたりしたら溜まらない。
自分が足を引っ張って仲間が死ぬのは耐えられないし、仲間の見ている前で死ぬのは死ぬことそのものよりも耐えがたい。
イツツキにはこれ以上の屈辱は無い。
それなのに、ヨキは聴く耳を持たない。
「四、百十……六ッ!!」
「行けよッ!! 迷惑だって言ってんだよ、馬鹿ヨキッ!!」
「四百十……七ぁぁッ!!」
イツツキがどんなに呼びかけても、罵倒しても、一心不乱にオークを打ち倒し続けた。
――中央公園出口付近
獲物が罠に掛かったとの報告で、広域に配置されていた軍勢が密集する。
特に幾つかある出口付近は渋滞を極め、必要な戦力の投入を滞らせていた。
それでも、ジキ達にとって絶望的な状況であることに変わりはない。
混雑する出口はオークの集団によるバリケード状態であり、乗り越えることはもはや不可能だ。
あとは、戦力の投入を怠らずに、野良が力尽きるのを待つだけだった。
野良達はその九割が、既に戦死している。
オーク達の目的は達成間近にまで迫っていた。
最終局面だと、数多のオーク兵が中央公園に集結する中に、<仮面のジン>を捕獲したオークの姿が混じっている。
その肩には小柄なジンが背負われていて、意識こそないものの、まだ生命は失われてはいなかった。
始めは乱暴に地面を引きずって来たが、あまりの密集状態に担ぐ他になくなっていた。
オークがジンを此処まで運んで来たのは、そもそもそういう命令が下っていたからだ。
情報収集や人質としての使い道があり、上役に引き渡す為であったが、混雑に立ち往生させられているのだ。
それがジキ達の逃走経路上である事は、偶然以外の何ものでもない。
ジキは満身創痍になりながらも、数万の兵士による包囲、数千の追撃を掻い潜り、出口に差し掛かっていた。
だが、出口は袋小路。行き止まりだ。
オークで埋め尽くされ、もはや前方の数匹を斬り倒した所で、抜け道にもならない——。
ジキは疲労の余り、地面に膝を着いた。
倒れ込みそうな上体を、剣を握った拳を着いて支える。
後方からも大軍が迫る。
オーク達は小さな獲物を捻り潰す高揚で色めき立った。
万単位に迫る集団が興奮に雄叫びを上げる。
大音量に空気が震え、三半規管の異常が引き起こした錯覚は、災害の様に地面を震わせた。
——喧騒に煽られ、仮面のジンが目を覚ます。
仮面は砕け、家畜だった頃に虐待で負った、火傷に爛れた素顔が露わになっていた。
虚ろな意識で自身が死に損なった事を理解する。
どういう状況なのか把握する余裕は無い。
ただ、遠くなった耳に地獄の様な大音量が注ぎ込まれる不快に見舞われている。
オークの肩からぶら下がり、眼球だけを動作して周囲を見渡す。
その害音の指向性の先に、ジキの姿を発見した。
無敵の男が地面に伏して項垂れていた。
「…………」
ジンは一目、ジキを見られた事で何故だか満足感に満たされていた。
成果を上げられなかった無念を、悔やみながら死んで行くのだと思った。
だが、最後にこんな<素晴らしい舞台>が用意されているだなんて、なんて幸運だろうとジンは思った。
オーク達はジンを担ぎ上げている個体も含め、全てがジキに気を取られている。
仮面のジンがズタズタになった上着を引きちぎると、小さく膨らんだ二つの乳房の下に予備の爆薬が現れる。
開始の合図が失敗した場合を考慮に、取っておいた予備だ。
彼女は特製の火打ち金を取り出すと、迷わずそれに点火した。
瞬き——。
大規模な爆発が起こり、中心にいたジンごと周囲のオークを大量に吹き飛ばした。
消し飛ぶと同時、確かに仮面のジンは笑っていた。
諦めていた目標よりも遥かに多くの敵をその手で葬れたこと。
そして何より、大切な人の窮地を救い突破口を開けた事に、これ以上なく満ち足りたのだ。
群れの只中で突然起きた大爆発に、オーク達はパニックを起こしていた。
死への恐怖。爆音に対する混乱。
身体の異常や痛みに対する不快感を、各々に表現し始める。
それは数の多さ故に統制が行き渡らない。
混乱は波及し、オーク達は我を失い混乱に身を任せた。
騒ぎが収束する頃には手遅れだ。
その中にジキとロッコの姿は無くなっていた——。
第十六話、『脱出』に続く。




