第55話裏 この世界の埃の一粒
今日は4話投稿します。
まず、レクシー視点での55話裏
私とファルディーンは歓楽街の一角にある安宿に身を隠した。
その宿はファルディーンの知り合いが経営しているらしく、追っ手を巻くにも匿ってもらうのにも最適の場所であるらしい。
軋む床板に曇ったガラス窓。
レンガ造りの壁は煤けており、ベッドのシーツもそこはかとなくカビ臭い。
貴族の子女が寝泊まりするにはあまりに劣悪な環境であるが、今はそんなことは言ってられないし、ファルディーンと二人きりなら、みすぼらしく手狭な部屋も風情があるというものだ。
だが、宿についてからファルディーンの様子がおかしい。
呼吸は乱れており、言葉数も少ない。
それは疲労からくるものかと思い、床につくことを彼に提案しようとしたその瞬間――
「ガハァッ!!」
ファルディーンの口から血しぶきが噴き出した。
彼は手を口で覆うが、膝から崩れ落ちてしまう。
「ファルディーン殿!!」
床に倒れ込みそうになった彼をすんでのところで受け止める。
そして、担ぐようにして彼を持ち上げ、ベッドに寝かせる。
治療のことなど分からなかったが、血に塗れた服をこのままにしておくのは良くないだろうと、彼のコートとシャツを脱がせるが……
「こ……これは……?」
「見られてしまいましたか……」
ファルディーンの体には茨が巻き付けられていた。
茨は手首、腕、肩、胸、腹、背中と上半身全体を縫うように張り巡らされ、亀の甲羅のような幾何学的な模様を描いている。
「戦闘民族と称されるソーエン人相手に一人で立ち回るほど、腕に覚えがなかったもので……
少し下駄を履かせてもらいました。
ガーランド・ローズの荊棘……
今では廃れてしまった古代イフェスティオ帝国時代に使われていた禁術の一種です。
荊棘で魔法陣を作り、練気を高め、身体能力を高める術式です。
この吐血は、それの反動です……
心配なされなくてもいい」
力の無い瞳で私を見つめ、語りかけるファルディーン。
彼の体に巻き付いた茨はところどころ、彼の肉に突き刺さり赤い血が滲んでいる箇所が散見される。
「なんて無茶な真似を……」
「愚かとなじりますか?」
彼の問いに、私は答えられない。
だって……
「私を……守ってくれた……」
目の奥が熱い。
彼は私のために身を犠牲にしようと思ったわけではないだろう。
伯爵家の人間として務めを果たすために、必要な措置だから行ったのだ。
でも、私を守ってくれた腕は間違いなく、ファルディーンの腕。
私の手を引いてくれたファルディーンの手。
一緒に街を駆けたファルディーンの脚。
私は、ファルディーンに守ってもらっていた。
何も知らなかったのだ。
自分を守ろうとしてくれる殿方の頼りがいも、守られることの優越感に似た心地よさも。
こんなものが世界にあると知っていたなら、愛人を囲うような無意味なことをしなかっただろう。
心の通わない体のやり取りで肉欲を満たしたり、美しい男を我が物にする収集癖に興じることは所詮代替行為だったのだ。
ああ、ファルディーン。
私が今持っている全てを投げ出してもいいから、あなたをください。
「ファルディーン……」
私は彼に絡みついた茨をナイフで引きちぎった。
「レ、レクシー殿……」
「もういい、もういいのです。
たとえ、私を守ってもらうためには必要な力であっても
あなたが苦しむのをもう見ていられないのです」
彼の厚い胸板に水滴が落ちる。
これは私の涙だ。
何故、泣いているのかわからない。
ただ、涙が止まらないのだ。
歩くことを覚えたばかりの赤子のように私の心は不器用に立ったり、転がったりを繰り返している。
ファルディーンの体に絡みついていた茨を全て引きちぎった。
私の手のひらは茨のトゲによる切り傷だらけだ。
農民じゃあるまいし、手を傷だらけにするなど卒倒モノの恥辱のはずなのに、彼とお揃いの傷ができたみたいで嬉しくて、まじまじと手のひらを見つめていた。
「レクシー殿……」
ファルディーンは私の右手の手首を取った。
そして、手のひらの傷を見つめて言った。
「あなたは、どうしようもなく魅力的だ」
彼は私の手のひらの傷に舌を這わせた。
ピリッとした痛みが走ったが、すぐに和らぎ暖かくザラザラした舌の感触が、快感になって稲妻のように全身に駆ける。
どうにかなってしまいそうな私は彼の胸元に飛び込んだ。
彼は舌の動きを止めはしない。
だから私も彼の胸元にある傷に唇を当てた。
「んっ」
ファルディーンは微かに声を上げ、甘い息を吐いた。
その悶えるような声と息遣いに私も感化され、声を抑えられなくなっていく。
「レクシー殿!」
ファルディーンは突然体を起こし、私と体の位置を入れ替えた。
私の左右の耳元には血管の浮き出た彼のたくましい腕が突かれている。
私の左右の脚の間に、彼の長い脚が挟まれている。
そして、私の顔と彼の顔はゆっくりと距離を無くし、唇で結ばれた。
あの御方は女を哀れな者だと仰られた。
武を極めることも出来ず、政を司れず、ただ妻という名の人質となり、子を生み家を繋ぎ、続けるための装置だと。
私もそう思っていた。
だけど、ファルディーン……ファルディーン様に抱かれて私ははじめて女の悦びを知ったのだ。
私の手にできるものは世の中のごく一部、かけらをすりつぶした埃の一粒に過ぎないだろう。
でも、その一粒がこの夜だというのなら、私はそれだけで人生を素晴らしいものだと断言できる。
みすぼらしく、触るのも躊躇したベッドの上で私達は結び合い、褥を濡らした。