第89話 僕だけがいない世界
「質問の意味がわからない」
僕は目を細めてカレルレンを睨みつける。
ヤツの問答にこれ以上付き合うつもりはない。
必要な情報を得た今、一刻も早く帝都に戻らなくては――
「そうか、無理もない……
私ですらわからないものを貴様が知らなくても不思議ではない」
「他人を見下しながら喋る人間は他にも見たことがある。
共通点は頭でっかちの卑劣漢というところだ」
精一杯罵ったつもりだが、カレルレンは意に介さず、
「原理の解析は後回しだ。
重要なのはすべてを知るものが完全であること……
貴様にはきっちり補填をしてもらわなくてはな!」
カレルレンが手を振りかざすと、周囲を囲んでいた窓がものすごい速度で僕に向かってくる。
避ける間もなくそれらは僕の体にぶち当たるがダメージはない。
が、僕の視界がどんどん白く染まっていき……
ブワッ! と突如吹き出した炎に視界が包まれた。
慌てて後ずさると炎が燃え広がる街の光景が視界に広がった。
いったい何が起こったというのか?
状況把握のため、キョロキョロと辺りを見回す。
「ここは……帝都?」
見覚えのある景色だ。
皇帝が千年祭の開催を宣言した広場――
「ウガオオオオオオオオ!!」
金属を引っ掻いたような魔物の叫び声が僕の耳に飛び込む。
半ば弾かれるように剣を構えて声の方に振り向く。
「見よ! 我らの炎が千年帝国を焼き尽くす光景を!!」
広場に設置された舞台の上に立ち、数多の魔物の群れを従えて叫ぶその声の主はーー
「ベルグリンダ!?」
死んだはずの魔王ベルグリンダが傷一つ無い姿で仁王立ちしている。
ヤツの回りには配下のオーガが長槍を掲げ立っている。
その長槍の先には……
「あ……あああ……ああっ!?」
長槍の先には皇帝、エヴァンス皇太子、皇后、ダリル王子と皇族の生首が突き刺さっている。
士気を鼓舞するかのように槍は上下に振られ、彼らの目や鼻から血や脳漿が漏れ出ている。
「な、なんだこれは……」
狼狽する僕が見えていないのだろうか、ベルグリンダは後ろに立つオーガから何かを受け取り、
「憎き敵将イスカリオスの首も我らの元にある!
もはや恐れるべき人族の戦士は存在しない!!」
ベルグリンダはイスカリオスの生首を高らかに掲げ――
「や、やめろおおおおおおっ!!」
悲鳴に乗せた懇願をあざ笑うかのように、その首をトマトのように押しつぶした。
僕はへたり込み、ぼんやりとその光景をただ眺めていた。
すると視界が炎の赤に包まれる。
「うっ!?」
目を焼くような光にまぶたを閉じる。
少しして目を開けると、今度は晴れた空の下に僕は立っていた。
どこかで見たことがある景色……
ここはイフェスティオ帝国の街道沿いか?
先程の皇族とイスカリオスの処刑を見たことによる動悸を抑えて、辺りを見回す。
すると、50メートルほど離れたところに見覚えのある馬車が止まっているのが見えた。
アレは……ファルカス一座の馬車だ。
ヨタヨタとすがるようにその馬車に向かって歩みを進めるが、
「イヤアアアアアアアアっ!!」
絹を裂くような悲鳴が馬車から聞こえた。
次々と馬車の外に引きずり出されていくファルカス一座の面々。
男は殴り飛ばされ、女は体を押さえつけられて着ているものを剥がれていく。
「エルっ! ジャニスっ!
貴様らその手を離せ!!」
「うるせえよ! 優男!!」
ファルカスが顔面を鉄の手甲で殴りつけられた。
高い鼻がネジ曲がり、顔を塗りつぶすように真っ赤な血がだくだくと流れている。
「このご時世にこんないい女達抱えて気ままに旅なんかしやがって。
恵まれない俺たち冒険者にも分けてくれよ」
「なにが冒険者だ……
警護の依頼を受けておきながら盗賊を手引きするなど、恥を知れ!!」
「あぁん!?」
人相の悪い男たちに食って掛かるファルカス。
だが、その態度が怒りを買ってしまい両腕を棍棒や槌で砕かれてしまう。
「ぐああああああああっ!!」
激痛に涙を流しながらのたうち回るファルカス。
「ファルカスっ……!?
貴様らあああああああ!!」
僕は一気呵成に飛び込んで剣を盗賊に向かって振るう。
が、剣はするりと盗賊の体を切ること無く透過するように振り切られる。
それどころか僕が存在しないかのように暴虐を続ける盗賊たち。
「まだ、殺すなよ。
せっかくだからショウタイムだ。
自慢の別嬪さんたちと俺らの熱演を座長さんに見せてやろうぜ!」
ヒューッ! という歓声とゲラゲラという下品な笑いが響きわたる。
エルが、ジャニスが、レティが、スーザンが、ナンシーが、マリスが、ライラが……
服を引き裂かれ、殴られ地に組み伏せられ、その尊厳を蹂躙されていく。
「うわあああっ! やめろおおおおっ!!」
馬車の下に隠れ潜んでいたのだろう。
トニーが雄叫びを上げながらナイフで盗賊に襲いかかるが、
「おせえよ、クソガキ!」
頭を棍棒で叩き割られた。
「トニー! イヤアアアアアッ!!
しっかりして!
トニー! トニィ!!」
盗賊たちの人だかりに呑み込まれながらもレティはトニーに向かって何度も呼びかける。
「ヒャハッハハハハハハ!!
今度の奴隷市は盛況になりそうだな!
それまでたっぷり遊んで楽しく過ごそうぜぇっ!!」
盗賊の親玉の笑い声がこだまする。
「やめろ……やめろ……やめろ……」
何もできない僕は目をつぶって何度も繰り返す。
その間にも耳には狂乱と慟哭が絶え間なく流れ込んできた。
そして、再び景色が変わる。
今度は夜の森の中だ。
狼達が逃げ惑う子どもたちを追いかけ、首に噛みつき、地に伏したところを柔らかい腹を割いて食らっていく。
「リムル! テレーズと逃げろ!」
辺りに転がる死体はレイクフォレストの教会の子どもたちだ。
彼らの保護者であるアルフレッドは逃走の指示を出しながら、剣を構えて狼達に立ち向かっている。
元は冒険者だったということもあって、それなりの太刀筋だが……それなりだ。
四方から飛びかかる狼達の動きについていけなくなり、体を噛みちぎられていく。
「アルフ!!」
悲鳴を上げたのは銀色の髪をした美しい妊婦……テレーズだ。
「テ……テレーズ……
子供を……守って……」
グシャリと肉が潰される音、アルフレッドの頭が巨大な狼の顎に噛み砕かれた。
「ママぁ……怖いよぉ……」
立ち尽くすテレーズのスカートにしがみつく少女は……リムルだ。
「大丈夫……私が守る……
テレーズは歯を食いしばり、両手を突き出し魔術を行使しようとするが、大きな腹を抱えて崩れ落ちる。
股からの出血が、テレーズのスカートを赤黒く染める。
「あ、ウウッ……!!
子供さえ宿していなければ、こんなモンスターごときに……っ!」
その血の匂いに反応した狼達はすでに食い散らかしたアルフレッドに興味をなくし、一斉にテレーズとリムルに襲いかかった。
リムルは目を大きく見開いて涙を流しながら、
「コ、コリンズパパ!!
助けて――」
叫び声を上げきることもなく波のように襲いかかる狼の群れに呑み込まれた。
狼達は血しぶきで水浴びをするように死体と成り果てたテレーズとリムルを弄び、テレーズの腹からへその緒の繋がった胎児を引きずり出した。
「バース……バースッ!」
先程までの流れで僕がこの光景に干渉できないのは分かっている。
だが、声の限りに叫ぶ。
「バース! お前は英雄の血統なんだろ!
そんな雑魚に殺されるな!
戦え! 戦ってくれ!」
願い……いや逃避だ。
僕は認められない目の前で行われるこの地獄のような光景を。
だが、僕が認められなくとも、この光景は変わらない。
バースは一度も声を上げること無く、数瞬の生を終えた。
そしてまた、景色が移り変わる。
次は……ブレイドとククリの番だ。
目の前で武器を構えている二人を見て、何故か冷静だった。
今度はこの二人が殺されるのだろう、と。
カレルレンの見せる幻術だろうか。
それとも、僕の思考回路の故障か。
だが、目に映る光景はあまりにも生々しく、現実でないと否定仕切れない。
だとすれば……
「このクソがああああああ!!」
ブレイドが叫びながらエステリアに剣を振り下ろす。
「アハハ! 甘い甘い!」
エステリアは陰陽でブレイドの剣をたやすく打ち返す。
剣の形をした絶対防御の魔道具、陰陽。
武器による攻撃を全て弾き返すため、近接戦で破るには素手での攻撃くらいしか有効ではない。
だが、ブレイドはそのことに気づいていない。
やがて剣を振るう力は弱まっていき、
「ウフフ……これで、どうだっ!」
エステリアの渾身の一撃によってブレイドの剣は真っ二つに折られる。
「うそ……だろ……?」
呆然とした様子で折れた剣の刃を見つめるブレイドにエステリアの尾が襲いかかる。
鋼のムチのような尾の一撃を受けてブレイドは地面に這いつくばる。
「ブレイド様っ!!」
エステリアの追撃からブレイドを守ろうとククリが左右の手に持ったナイフを投げつけながらエステリアに迫るが、
「ちょろいっ!」
エステリアが指を鳴らすと、地面から刃が突き出し、ククリの豊かな胸をひしゃげるようにして貫いた。
ゴブッ! とククリは大きな血の塊を吐いて力尽きた。
その様を地に伏せながら目の当たりにしたブレイドは……
「あ……ああ……」
剣を手放して這いつくばるように串刺しにされたククリの亡骸に近づき、すがるようにその手を握った。
「う……うあ……あああぁぁ……」
頬にククリの手の甲を寄せて、泣き崩れるブレイド。
衝撃だった。
あの強いブレイドが背中をしぼませるように弱々しく泣いている。
その身には武人としての矜持や信念は既に立ち消え、ただ悲痛にむせぶ弱い人間としての本性がむき出しになっていた。
「ざんね〜ん。ソーエン人ってもうちょっと骨があると思っていたよ」
侮蔑するような口調でエステリアはブレイドの首を掴む。
ブレイドはエステリアの顔すら見ず、
「殺せ……」
と呟いた。
「はあ……しょーもな」
心底つまらなさそうにエステリアはブレイドの延髄を握りつぶした。
一体これはなんなんだ……
イフェスティオ帝国はベルグリンダなんかに滅ぼされていない。
ファルカスの一座はライツァルベッセにたどり着いて帝国劇場で見事な舞台を披露していた。
レイクフォレストの教会の人々も離散はしたが生きている。
バースだって僕が取り上げた。
ブレイドが……あんな弱々しく泣き崩れるはずがない。
これは現実じゃない。
僕が知っている彼らがこんな事になっているはずがない。
ありえないんだ……こんなことは……
……いや、もしかすると、今まで現実だと思っていたことが幻覚で、本当はこのような光景が繰り広げられていたのかもしれない。
今まで僕が生きてきたと思っていた時間は全て……幻想だった?
アイゼンブルグで僕は頭部を損傷し、その時に思考回路が壊れてしまって人間が見る夢のような幻想を見続けていた?
景色が移り変わり、荒れた海の上。
手下のベルナルドに陥れられたバルザックは船から海に放り出された。
復讐してやると喚きながら必死で陸を目指すバルザック。
だが、海の底から襲ってきたサメに手足を食いちぎられ海の藻屑と消えた。
森の一軒家で静かに暮すフローシア。
食事の材料を取りに日課の森歩きをしている。
途中、人間の冒険者たちが森で蜂型のモンスターの大群に襲われているのを見かける。
未熟な冒険者たちはいいようにやられていく。
だが、フローシアは彼らを助けることもなく黙々と木の実を収穫し、彼らの断末魔の悲鳴に背を向けて家路につく。
これが現実……
そして僕は真っ暗闇の洞窟の中に佇んでいた。
何のアテもなくただ前に、カツンカツンと洞窟の地面を足で叩きながら進む。
しばらくすると、僕は地面に転がっていた何かに蹴躓いた。
「【光あれ】」
魔術で足元を照らすと、少女と思われる死体があった。
衰弱死と思われるがなかなか死にきれなかったのだろう。
金色の髪はたくさんの白髪が混じり、ところどころ抜け落ちている。
這いずったと思われる腕はズル剥けて黒く変色しており、そこから腐食が進んでいる。
生きようと、最後まであがいたのだろう。
だが、それは叶わず誰にも看取られること無く、彼女は死んだのだ。
だが、僕には関係ない。
誰がどこでどのように死のうと僕には関係ない。
少女の死体に背を向けて、僕は歩き出す――
『ちょっと待てえええええええええ!!』
『なんでスルーしてるんだよ! バカなの!? 死ぬの!?』
……なんだ?
この場を離れようとする僕を責めるように脳内に文字が浮かんできた。
突然のことに動揺しながらも、再び少女を見やる。
すると彼女の体は先程までと比べ、幾分マシな状態で息もしていた。
「どういうこと……だ?」
僕は恐る恐る彼女に近づき、その体を起こし、顔を覗き込む。
まぶたを閉じていても分かる大きな目、形の良い花と小ぶりな唇。
やつれるようにやせ細っているが、なめらかで柔らかそうな頬……
『金髪美少女キターーーー!!』
『ちょ!超かわいい! お人形さん!?』
『ほっぺたつっつきたいンゴ!』
『飯食ってる場合じゃねえ!!』
『●REC』
再び文字の奔流が脳内を埋め尽くす。
『やばくね? てか、これ詰んでね?』
『人類オワタ』
『なんか勇者とか救世主とかおらんの? ご都合的に人類を救ってくれるようなやつ』
『人類ひでーな』
『人間の敵は人間だって、アニメで言ってた』
『魔王軍笑いが止まらないだろうな』
わけのわからない言葉、呑気なような真剣なような掴みどころのない……ノリ?
『ホムホム、タフだなあ』
『なんで安全なところにいる俺たちが取り乱して、ホムホムは冷静なんだよ。
ちゃんとしないとな。俺たち』
『地下洞窟か……もしかするとやばいかもしれない。
てっきり下水は外の川に繋がっているものだと思っていたが、
地下水脈に流しているとなると、地底湖に繋がっている恐れがある。
つまり、その洞窟には出口がない可能性が高い』
『オイイイイイイイイイイイイイイイ! 何無責任なこと言ってるんだよ!』
『そうだよ! このままじゃホムホムが!!』
なんだ……ホムホム……って……
脳内に余計な情報が溢れかえってどんどん意識が朦朧としていく。
だが、脳内の文字だけはくっきりと浮かび上がって――
『マジレスきたw』
『オワタwwwwwww』
『うーん、詰んでるね』
『俺、そろそろ眠いから落ちるわ』
『一回でもエンカウントしたら即ゲームオーバーとかクソゲーだろ』
『とりあえず、この街から脱出せんと生きるもクソもないで』
『そうだね。とりあえず、ホムホム。
君の状態を教えてくれる?』
『あきらめるなよ! とにかくあきらめるな!
あきらめそうになったらまずあきらめるな!』
『さて、盛り上がってまいりました!』
『今は深夜だから過疎気味だけどね』
『俺たちは別の世界の住人。
君が見ているものも聞いているものも頭の中で考えていることも手に取るように分かる。
君が生まれてからずっと、君を見ていた』
僕をホムホムと呼ぶ……
この声は――
『そうだよ! 君はホムホムだよ! ホムンクルスだからね!』『キターーーーーー!!』『ちょ、ナニコレ!? 相互通信できんの?』『どうなってんのこれ!?』『いったい何が起こってるんです!?』『お、わかってるじゃん。ホムホム。その通りだよ』『ん?てか、これってホムホム俺らのレス、返してね?』
「あああああああああっ!!!
うるさい!! 黙ってろお前らっ!!」
……お前ら? お前ら、って……
それに、何故声を荒げる?
声を荒げることなど筋力を最大限に発出するためのリラックス手段や遠距離への伝達くらいでしか使わないのに……
混乱にも似た思考に呑まれながら、ふと視線を下ろす。
すると、僕の腕に抱えられている少女はまぶたを開けており、青緑色の瞳で僕を見つめていた。
「あなたは……」
「クルスさん。あなたは本当にどんな時でもどんなことがあっても私を守ってくれるんですね」
少女はクスリと笑って僕の後ろ髪に手をかける。
顔の前に戻してきた手の中には彼女の瞳と同じ色のリボンが握られていた。
「あなたの目と……同じ色だ……」
少女は微笑みながら頷く。
僕は知っている、このリボンも、このリボンにまつわる思い出も、この少女も……
「メ……リ……ア……」
僕の口からこぼれた3つの音。
その響きが波紋のように思考回路に伝播し、僕の中で急速に何かが動き出す。
と、同時にピシリ、という音がして周りの空間にヒビのようなものが走った。
さらにそのヒビはどんどん広がっていき、暗闇の空間がガラスのように割れ始める。
割れた空間の先には、ぼんやりとした光が浮かびじっくりと見ていると、景色や人が見えてくる。
それは、森の中を歩く僕。
足を負傷しているメリアを背負子に担いで森の中を進んでいる。
それは、森の一軒家でテーブルを挟んで語らう僕。
目の前のフローシアは僕の言葉を聞くと、頬を緩め、上機嫌に笑った。
それは、夜の海に浮かぶ船の上で酒を口にする僕。
僕の肩や腰に手を回すバルザックは、さまざまな話をしながら僕と酒を酌み交わす。
それは、剣を持って戦う僕。
長い刀を小枝のように振り回すブレイドを追って、僕も負けじと剣を振るう。
それは、レイクフォレストの教会でバースを抱き上げる僕。
血に手を染めながら、新たな生命の誕生に立ち会っている。
それは、帝国劇場の舞台に立つ僕。
ファルカス一座の人々と演劇という一つの作品を共に作り上げた。
それは、帝都の公爵邸にあるダンスホールで決闘に挑む僕。
イスカリオスとの死闘を、皇后やダリル王子、リムル、ファルカス、レクシーたちが見つめている。
これは……紛れもなく僕の生きてきた日々だ。
どの光景にも僕がいて、周りの人々がいて、それらと今の僕をつなぎ合わせるようにあの時感じた感情が蘇り、胸を熱くさせる。
僕は……生きてきたんだ……
空間はほとんど剥げ落ち、僕が知っている光景が映る窓が抜け落ちた空間を埋め尽くしている。
その中の一つに目が止まった。
それは、帝都にある僕の家のベッドの上で、僕とメリアが裸で抱き合っている光景。
上気した顔で僕を見つめてメリアは僕の鎖骨を指でなぞる。
僕もお返しをするようにメリアの耳をそっと撫でている。
夜も更け、外からの喧騒は消え、僕たちの息遣いだけと布団のシーツが擦れる音だけが耳を打つ。
「まるで世界に二人だけしかいないみたいですね」
「ああ」
「……本当に二人だけならすごく穏やかで平和な時間がずっと流れるんでしょうけど」
この前日、僕はイスカリオスとメリアを賭けて決闘をした。
その裏でメリアは僕をアイゼンブルグに派兵しようとするイスカリオスに抗議をしていた。
世界はたくさんのモノでできている。
良いものも悪いものも全て世界を構成する一部だ。
当然、僕たちにとって都合がいいように巡るものではない。
だから、こんな風に2人でいられる時を惜しんで抱き合ったのだろうが。
「メリアは世界が嫌いか?」
僕の問いにメリアはかすかに首を横に振る。
「そんな風に思った頃が無いとは言えません。
でも、今は愛しいと思っていますよ。
だって、クルスさんと私が出会って、一緒に生きている世界ですから」
メリアにはイデアの部屋の存在については正確には伝えていなかった。
必要以上の情報を彼女にもたらすことは余計な危険を招くと思ったからだ。
世界に危機が迫っていることを僕だけが知っている。
「メリア、僕にとってあなたは何よりも大切だ。
他の人間も、世界も、どうでも良くなるくらいに。
だからあなたを守りたい。
何を犠牲にしたって……」
近い内に僕は死ぬ、と思っていた。
あの時は魔術回路の損耗を止めるすべはなかったし、戦いに巻き込まれていくのは目に見えていたから。
だから、僕は自分がメリアのためにしてあげられることを探していた。
独りよがりというやつなのかもしれないけれど、それでも……
「僕の心を育ててくれたのはあなただ。
あなたのおかげで僕は生きていることを実感できる。
だから、僕のすべてはメリアのものだ」
僕はメリアの頭を抱いて、耳元でささやく。
「これからもずっと守り続ける。
きっとそのために僕は生まれてきたように思う。
命の続く限り……死んだって、ずっと……」
「死なれるのは嫌ですよ」
メリアは僕の背中を爪で引っ掻いた。
くすぐったいような感触を覚えて、小さく身をよじる。
「ああ、分かっている。
ただのたとえだ」
「さっき言ったでしょう。
あなたのいる世界が愛しいって。
私から愛しいものを奪うつもりですか?」
僕は少し沈黙してから口を開く。
「僕は守る。メリアの命も心も、愛しいと思うその世界も」
その言葉を聞いて、メリアは僕の体にのしかかるようにして抱きついてきて、
「約束ですよ」
と笑顔で呟いて、唇を押し付けてきた。
その瞬間、視界に映るもの全てが金色の光に分解されて消えた。
…………
目に映るのはニヤニヤと薄ら笑いを浮かべるカレルレン。
そして彼に踏みつけられて床に這いつくばるフローシア。
勝ち誇ったようにフローシアを見下ろしていたのだが、ヤツの薄ら笑いが突如、消え失せる。
空間を覆い尽くしている世界の光景を映すという窓が赤い色の粒子になって次々と消えはじめたのだ。
「バカな……何が起こった!?
すべてを知るものの観測した過去も未来も消えていく!?」
狼狽するカレルレンをよそに僕の脳内では、
▽*+*+:*+*+:*+*+:*+*+:▽
【転生しても名無し】
『age』
【転生しても名無し】
『保守』
【転生しても名無し】
『保守』
【転生しても名無し】
『アゲ!
ホムホム! しっかりしろ!!』
【転生しても名無し】
『あっ! 視界が戻った!!
ホムホム大丈夫!?』
△*+*+:*+*+:*+*+:*+*+:△
ああ、大丈夫だ。
お前ら、どこから見えていなかった?
▽*+*+:*+*+:*+*+:*+*+:▽
【◆野豚】
『アレだな。カレルレンがそこらに浮かんでいるディスプレイをぶつけてきたあたりから。
死んじまったのかと思ったよ……』
【◆助兵衛】
『精神攻撃でも受けていたのか?
俺たちの書き込みが届かないくらい思考回路を支配されていたとか』
△*+*+:*+*+:*+*+:*+*+:△
多分、そんなところだろう。
どうでも良いことだが、また見逃したな。
以前も妖精たちはメリアとの情事を見たがっていたらしいが、何故か見ることができなかったと言っていた。
つくづくどういう仕組みなのか僕にもよくわからない。
ただ、妖精たちがいろんなことを教えてくれたり、指示を出してくれたり、相談に乗ってくれたりその積み重ねが僕を、僕の目に映る世界を守り続けてきてくれたことは分かる。
きっと妖精たちに出会わなければ、あの悲惨な光景は現実になっていたのかもしれない。
と、すると先程まで見ていたのは妖精たちがいない場合の世界……
「そういうことか……」
僕が呟くと、カレルレンは驚きと怒りに満ちた目で僕を睨みつける。
「貴様! すべてを知るもの《アカシア》に何をした!?
狂った観測結果を修正させるつもりが、逆に崩壊を招くなど!?」
ありえない、ありえない、と呪詛のように呟くカレルレンに僕は答える。
「何をしたかって……ただ生きてきただけだ。
それ以上のことを問われても分からない。
だけど、先程お前が言っていた、僕が何か?
という問いには答えることができる」
僕は床を蹴りつけて、カレルレンに近づき、頬を殴り飛ばす。
ブハッ! と声を上げて弾き飛ばされた奴は遥か後方に転がっていく。
奴が床に這いつくばる様を見下ろして、僕は声を上げる。
「僕は……お前の望む世界を壊し、僕たちが望む世界を守るモノだ」