第10話 未知の状況に遭遇。褒められているのか?
僕は甲板に設置されたベンチにもたれて空を見上げる。
雲一つない空には自分の体の何倍も大きな翼を広げた鳥が緩やかに旋回している。
隣のベンチでメリアは書物を熱心に読み進めている。
ソーエン国で出版されている物語本とのことだが、メリアはどうやらその本でソーエン語を覚えようとしているようだ。
「クルスさん、クルスさん。
これはどう読むんですか?」
メリアは本に書かれた文章の一部分を指しながら僕に尋ねてくる。
僕はその箇所に目をやる。
▽*+*+:*+*+:*+*+:*+*+:▽
【◆湘南の爆弾天使】
『何シャバ僧がメンチ切っとんねん!
チョーシこいとったらヤキ入れンぞ!!』
△*+*+:*+*+:*+*+:*+*+:△
「どうして常識人にもかかわらず攻撃的な視線を投げかけるんですか?
大きな態度をとりつづけるならば制裁を行いますよ」
「なるほど、じゃあここは?」
▽*+*+:*+*+:*+*+:*+*+:▽
【◆湘南の爆弾天使】
「うおっ! 激マブなスケだなあ。
俺っちとフィーバーしようぜ」
△*+*+:*+*+:*+*+:*+*+:△
「嗚呼! 見目麗しい淑女よ。
私と心燃やすような時間を過ごしましょう」
「フフ……情熱的な誘い文句ですね」
メリアは仄かに顔を赤らめた。
▽*+*+:*+*+:*+*+:*+*+:▽
【転生しても名無し】
『ホムホムの意訳がひどい件』
【転生しても名無し】
『てかなんつーもんで語学学習しようとしてんだ』
△*+*+:*+*+:*+*+:*+*+:△
僕は簡単な会話レベルのソーエン語であれば、理解できるし、話すこともできる。
一方、物語や学術書のように、独特の慣用表現や専門用語が混じるレベルになると理解できない。
ところが、僕の頭の中の妖精はソーエン語もサンタモニア語もどれも同じように読めるらしい。
そして、彼らの書いた言葉なら僕には理解できる。
だから、僕が見た文字を頭の中の妖精に翻訳してもらい、メリアに伝える。
もっとも彼らから言わせると、僕は彼らの言葉を勝手に脳内変換しているとのことだったが。
ともかく、メリアの学習は順調に進んでいる。
バルザックが持つ船に乗せてもらった僕とメリアは一日の大半をこうやって過ごしていた。
バルザックはただの街のチンピラかと思いきや、アマルチアを根城にする海賊一味の首領だった。
もっとも海賊と言っても略奪や暴力を生業にしているわけではなく、国や商工ギルドの隙間を縫った密輸入やみかじめ料稼ぎが主な資金源であるとのこと。
その言葉がどこまで本当なのかは分からないが、少なくともソーエンに向かうため、彼らの協力を仰ぐことにした。
ふわーあ、とメリアはあくびをする。
バルザックの手下たちも最低限の仕事はしていたが、それ以外の時間は釣りをしたり、カードで遊んだりして時間を潰している。
アマルチアからソーエン国のダイリスとの間の海は、極めて穏やかな海で天候が荒れることは殆どないという。
この船は正式に航海登録をしている船ではないため、やや迂回した航路を取っており、到着まで約二週間を要するとバルザックから聞かされている。
今日で、船に乗ってから二週間。
そろそろ、目的地にたどり着く頃だ。
「お嬢さん方、一杯どうだい?」
僕の体を大きな影が覆う。
バルザックは僕の傍に立ち、片手に酒瓶、もう片手にグラスを持っている。
「必要ない」
「私もお酒は飲めないので」
「つれないねえ」
ニヤニヤと笑うバルザックは酒瓶に口をつけてゴキュゴキュと喉を鳴らしながら酒を呑み込む。
この二週間、何度も繰り返したやり取りだ。
バルザックは毎日このように僕らに干渉しようとしてくる。
最初のうちは怖がっていたメリアも今ではある程度バルザックに心を許しているような気がする。
もっとも、進んで関わろうともしないが。
「さて、今日は何の話をしてやろうか?
俺がアマルチアの酒瓶売からのし上がった話をしてやろうか?」
「それは9日前と3日前に聞いた」
「じゃあ、お忍びでアマルチアに遊びに来ていた男爵令嬢との恋物語を――」
「それは4日前に聞いた」
「その話、途中まではロマンチックな話だったのに途中から卑猥な話になるからもう聞きたくありません」
▽*+*+:*+*+:*+*+:*+*+:▽
【転生しても名無し】
『猥談に顔を赤らめてたメリアちゃんぐう萌える」
【転生しても名無し】
『バルザックって下品なオッサンなのに、そこはかとなくリア充の匂いがする』
【転生しても名無し】
『バルザックの色恋話もっと聞きたいぞ』
△*+*+:*+*+:*+*+:*+*+:△
頭の中の妖精たちはバルザックに懐いてしまっている。
波長が合うのだろうか。
「じゃあ、今日は海で一番綺麗な夜の話をしよう」
バルザックはそう言うと、僕の顔の隣にあぐらをかいて座った。
「あっちの空を見てみろ。薄っすら月が出ているのが分かるか?」
バルザックの指差す方向には確かに空の青に霞んでいる白い月が見える。
「普通月は夜に昇って朝までに沈むか、昼間昇って夜までに沈むもんだが、何百年かに一度、昼に昇り始めた月が夜になっても沈まず、次の朝まで残る夜があるんだ。
それだけでも奇妙な話なんだがな、何がすごいかって、この月は凄まじくでかいんだ。
どれくらいでかいかって言うと、空を見上げると月しか見えなくなるってくらいだ。
そんなでかい月だから光も強い。
夜の海原が銀色に染め上げられるんだ。
さらにその光に驚いた魚や夜光虫が水面に溢れかえって、それはもう美しい夜らしい」
バルザックは酒をあおりながら月を見つめている。
自分が話した光景を思い浮かべているのだろうか、目尻が下がっている。
「聞いたことあります。
『死なず月』でしたっけ。
イフェスティオ帝国ではむしろ不吉の象徴とされてました。
人の罪を見たがる悪魔が月に乗ってやってくるって……
おとぎ話ですけどね」
メリアは腕で自分の体を抱きすくめるようにしてそう言った。
「イフェスティオの連中は悲観的だねえ。
クルスはどうだい、見てみたいとは思わないかい?」
「興味ない」
僕の一言にバルザックは肩をすくめる。
「まったく。
せっかく花も恥じらうお年頃の娘だってのに、そんなに色気がなくちゃ嫁の貰い手がないぞ」
「僕はもらってほしいなんて思ったことない」
「ヒュー、波が凍りつくくらいクールだな。
たしかにお前をもらう男は苦労しそうだぜ」
そう言い残してバルザックは甲板の向こうに歩いていった。
するとメリアが僕の耳元で、
「あの人、クルスさんのこと女の子だって思ってるみたいですね」
「そうか」
「そうかって……いいんですか?」
「別にいい。
大して問題ない」
僕がそう言うと、メリアは呆れたように、
「たしかにクルスさんのパートナーは苦労しそうです」
と言って、再び本に目を落とした。
その夜、メリアは船室内に用意された個別の寝室で早々に眠りに入り、僕はその部屋の前で剣を抱いて座っていた。
すると、バルザックが僕のもとを訪れた。
いつも片手に持っている酒瓶がない。
「相方はもう眠っちまったか」
「ああ」
「お前さんは眠らないでいいのかい?」
「必要ない」
バルザックは溜息をついた。
「で、そうやって守護獣みたく侵入者が近寄らないように一晩中見張って過ごすわけだ。
この船に乗ってから毎晩毎晩。
なあ、俺達ってそんなに信用ないかい?」
「そうだ。
背中にそんなもの隠して近づいてくるんだからな」
そう言うと、バルザックはニヤリと笑って背中に隠し持った湾曲刀を抜いて僕にめがけて振り下ろしてきた。
僕は横に避け、振り下ろされる湾曲刀を上から剣で叩く。
バルザックは前のめりに倒れそうになるが、さらに勢いをつけて前転し、僕の剣の間合いから離れる。
そして振り向きざまにコインを弾き僕に向かって飛ばすが、それは剣で切り落とす。
真っ二つになったコインが床を跳ねた。
僕は距離を詰め、胴体に向かって剣を薙ぐ。
バルザックは湾曲刀で受け止め、僕らは密着状態になる。
バルザックの力は僕より強い。
じわじわと僕の体勢は崩されていく。
しかし、力の均衡が崩れる瞬間、僕は剣を手放し、バルザックの胸ぐらをつかんで背負い投げた。
バルザックは床に背中からドシンと叩きつけられた。
「イテテテテテ……ちょ! 分かった!
もう勘弁してくれ!!」
バルザックは呻きながら降参した。
「どうしてこんなことをした?」
僕が問い詰めると、バルザックは――
「お前さんが踊れそうなダンスはこういうのかと思ってな」
ダンス? たしかに殺気はなかったが。
「なかなかの腕前だ。
女じゃなかったら荒事要員としてスカウトしてるな」
「僕の戦闘能力を見極めたかったのか?」
「ククク、だからオレは踊りたかっただけだって。
こんな夜だからな」
バルザックは甲板に出るように促してきた。
メリアのそばを離れるのはどうかと思ったが、手下たちがひそんでいるような気配はないし、少しだけ付き合うことにした。
船室の扉を開け、甲板に出ると大きな月が眼前に広がっていた。
海は銀色に照らされていた。
波の上を跳ね回る魚の群れがいた。
「これは……『死なず月』?」
「――じゃねえな。ただの満月だよ。
と言っても、これだけ見事な月は年に一度見れるかどうかだけどな」
バルザックはいつもどおり酒瓶を片手に持っている。
「飲もうぜ」
と言ってグラスを差し出してきた。
▽*+*+:*+*+:*+*+:*+*+:▽
【転生しても名無し】
『いいじゃん。もらっとけよ。
酒で酔っ払うことなんて無いだろ?』
△*+*+:*+*+:*+*+:*+*+:△
当然だ。ホムンクルスに大抵の毒は効かない。
僕が無言で頷くと、バルザックは相好を崩しながら僕のグラスになみなみと酒を注いだ。
そして、自分のグラスに酒を注ごうとしたが、僕はその酒瓶を取り上げた。
「こういう時、相手に酒をつぐのが礼儀だと聞いた」
頭の中の妖精からだが。
僕はバルザックの持つグラスに酒を注いだ。
すると、バルザックはクククとうつむいて笑った。
「いい夜だ。酒はやっぱり良い女についでもらうに限る」
そういって、一口でグラスの酒を飲み干した。
僕も一口、飲んでみる。
口の中に含むと、枯れた草のような香りがし、喉を通り抜けると首の後ろのほうが熱くなった。
目の前に広がるのは今まで見たことのない景色。
夜空の包み込むような黒、銀色の月の切り裂くような光、世界の果てから聞こえてくるような絶え間ない波音。
当たり前だと思っていた現象で構成された世界は美しかった。
僕の世界に対する認識を改めるほどに。
潮風が頬に触れる。
軽い肌寒さを酒の熱で打ち消す。
なるほど、これが酒を楽しむということか。
「インプットした」
「あん?」
「なんでもない」
僕はさらに一口、グラスに口をつける。
「オレにとって酒は人生最大の友で、そして世界で一番愛おしいものだ。
コイツのためにオレは生きていると言っても過言ではない」
「酒を飲むことがあなたの生きることか」
僕の問いかけにバルザックは笑って頷く。
「そして、二番目に愛おしいものは美しいものだ。
今宵の月のようにな。
美しいものを愛でながら飲む酒は安酒だろうと極上の美酒になる」
そう言うとバルザックはグラスを置いた。
そして僕の顎をつまむようにして軽く持ち上げる。
▽*+*+:*+*+:*+*+:*+*+:▽
【転生しても名無し】
『おや、なんだこの雰囲気は……』
【転生しても名無し】
『ちょ! バルザック船長!!
ウチのホムホムになにするつもり!?』
△*+*+:*+*+:*+*+:*+*+:△
バルザックはしっかりと僕の目を見つめ、
「だが、今宵の月ですらお前の引き立て役にしかならねえ」
▽*+*+:*+*+:*+*+:*+*+:▽
【転生しても名無し】
『うわあああああああああ!!
この色男!!
マジで口説いてきやがった!!』
【転生しても名無し】
『死ね!マジで死ね!
俺らのホムホムだぞ!!』
【転生しても名無し】
『つーか、君は月より美しいって……
リアルで初めて聞いた』
△*+*+:*+*+:*+*+:*+*+:△
頭の中の妖精たちは阿鼻叫喚の悲鳴を上げている。
だが目の前のバルザックは涼やかな顔で僕にささやきかける。
「お前さんを初めて見た時、雷に打たれた気分だったぜ。
野蛮な男たちに取り囲まれているっていうのに、ビビリもせず、媚びもしない。
その絹のような黒髪に水晶のような瞳、凛とした佇まい。
どれもこれも美しすぎて、白昼夢を見てるかと思った」
よくわからないが、これは褒められているのだろうか?
▽*+*+:*+*+:*+*+:*+*+:▽
【転生しても名無し】
『超弩級に褒められとるわ!!
女としてだけどな』
【転生しても名無し】
『オレの中でホムホムは男の娘。
だってこんな可愛い子が男の子じゃないわけないじゃない』
【転生しても名無し】
『逃げろ! ホムホム!
どうなっても知らんぞ!!』
【◆オジギソウ】
『あ、私的には受け入れてもらってもオッケー。
このオッサンの夜の生活は興味ある』
△*+*+:*+*+:*+*+:*+*+:△
「あなたは僕を褒めてくれるんだな」
「褒める? いや、思ったことを言ってるだけさ。
で、ここからが本題だが――」
バルザックは僕の肩に手を回して、
「オレの女にならねえか?」
と、いった。
▽*+*+:*+*+:*+*+:*+*+:▽
【転生しても名無し】
『いやあああああーーーーーー
△*+*+:*+*+:*+*+:*+*+:△
いい加減うるさい。
僕は頭の中の妖精を無視することにした。
どうやら今の彼らは冷静じゃない。
ここは僕が考えよう。
……バルザックの女?
そういえば、フローシアが言ってたな。
「自分のものにしたい」という気持ちについて。
バルザックは僕を女として所有したいということか。
バルザックは僕を美しいと言っていた。
そして美しいものが好きだとも言っていた。
なるほど、美しいものを手元において所有欲を満足させたいのか。
「美味いものを食わせてやる。
きれいな服や宝石もかき集めてやる。
こうやっていろんな美しいものを見せてやる。
楽しそうだろ?
オレは惚れた女に尽くすタイプだ」
バルザックの顔がどんどん僕の顔に近づいてきたが、
「あなたの気持ちはわかった」
僕は肩に回された手を振りほどく。
「だが、僕は誰かのものにはならない。
僕にはやらなきゃいけないことがある。
メリアをイフェスティオ帝国につれていかなきゃならない」
そう言うと、バルザックは肩をすくめて、
「オレよりあのお嬢さんを選ぶのかい?」
「選ぶ? そうだな。
僕は短い時間だけどメリアと一緒にいる時、メリアを選び続けてきた。
自分の身の危険やタブーを犯すことを天秤にかけて。
でも選んでいるつもりはなかった。
ただ、そういう結果だけが残っている。
……ならば、僕はメリアの女なのだろうか?」
思考が混乱してきた。
一瞬、掴みかけた何かが遠くに流れていってしまったような感覚だ。
「ハイハイ! 分かりましたよ。
男は引き際が肝心ってね」
バルザックは僕から離れ、船の端の手すりにもたれかかった。
月の光を背に受けてバルザックの表情はわからなかった。
僕はグラスに残っている酒を飲み干した。
先程までと味が変わった気がする。
酒という飲み物は自分の状態に応じて味が変わるのだろうか。
不思議なものだ。
僕は酒瓶を掴み、バルザックに近づいた。
「ひとつ分かったことがある。
酒を呑むというのは悪くないものだ」
そう言って、バルザックにグラスを渡し、酒を注ぐ。
「へっ。
なびかねえくせに離れもしねえ、タチの悪い女だ。
酔い潰してやろうか」
バルザックも僕のグラスに酒を注ぐ。
「酔いつぶれることはないと思う」
「言ったな、覚悟しやがれ」
僕とバルザックは月明かりの下で一晩中飲み明かした。
翌日バルザックが二日酔いで死にかけていたことについては、省略する。




