第七十二幕 姫君、墓穴を掘る。
「え? 今なんて言ったの?」
つい数秒前に耳に飛び込んできた言葉に、私はたまらず聞き返した。
聞き返したと言っても何もそれが小さかったからではない。
ちゃんとはっきり聞こえていたわ。
ただ、あまりにも突拍子もないような言葉だったの。
それを発したのは、私のすぐ傍にいるソファに座っているリク。
まるでここが自室のように足を組み、背もたれへ体重をかけ寛いでいる。
たが、その表情はむすっと機嫌が悪い。
腕を組み、眉を吊り上げている。
つい数秒前、私はこのご主人様に「癒せ」との仰せつかり、のこのこと彼の元へやってきてみた。
そしたらこう言われた。
――『キスしろ』と。
てっきり肩揉みとかだと思っていたら、そっち!? と思うわずツッコミたくなる出来ごと。
「聞こえなかったのか? 疲れたから、俺にキスしろと言ったんだ」
「しれっと言わないで! ラッシュアドではメイドに徹するって言ったわよね? 恋人同士みたいな事は禁止だってば」
「あぁ、覚えている。だからこれは主として命令」
「そんな命令あるの!? それに疲れたらマッサージとかでしょ!? なんでキスっ!?」
「あの蜂蜜王子のせいで、かなり精神を消耗したんだよ……あいつ、カシノ姫とのなれ染めを小一時間だぞ!? 出会い編で一時間って長すぎるし、俺にはどうでもいい。その削れたメンタルを回復させないとならないんだ」
「それとキスなんの関係が?」
「物語の姫が王子のキスで起きるように、俺はお前のキスじゃないと回復しない。だから俺にキスしろ」
きっぱりとリクはそう言うと、私を見据えた。
彼が纏うのが、あまりにも真面目な空気。
そのため私は怯んだ。
――え? マジで?
と、一瞬思いかけるぐらいにシリアスなムードだったが流されるわけがない。
部屋には私とリクだけ。
カーテンは開けられているけど、ここは城の五階部分。
しかも近くには建物も見当たらなく、小さく城下町が広がっている。
そのため、見られる心配はないと思うわ。
――でも、メイドとしてのモラルがっ!!
「あぁ、そうだ。さきほどカシノ姫より、城下町を案内してくれるとの申し出があった。もちろん、お前も一緒に。だが、このまま俺が回復しないとその予定キャンセルだな」
「ええっ!?」
「行きたくないか?」
そう問われれば、行きたいに決まっている。
だってラッシュアド初めてだもん。
それにササラさん達に買い物を頼まれているし。
みんなに「時間があったら買ってきて」と、お金も預かっていた。
なんでも最新式の双眼鏡が欲しいんだって。
リクに内緒で。
「まあ、リノアが真面目な事は分かっている。お前のそういう所も好きだからな。だが、こうしてゆったりと出来る時間が俺達には限られているんだ。だから少しぐらい大目にみろ」
「時間が限られている……?」
「あぁ」
リクは一度頷くと、「取りあえず座れ」と席に着くように促した。
そのため私はリクの隣りのスペースへと座ろうとした。
だがその瞬間、ぐいっと腰を掴まれ右側へずれてしまう。
そのため腰を落としたのは、陸の太ももの上。
微妙な体勢のためバランスを崩してもおかしくは無いが、それはリクにより支えられていた。
「ちょっと!?」
だからこういうのは――と抗議しようとしたが、リクから出た言葉により私は思わず息を飲んだ。
焼け触れるような風。それは私に纏わりつき、身動きを止める。
「今、なんて……?」
やっと絞り出した私の乾いた呟き。
リクはそれに受け、はっきりと先ほど口にした言葉を再度空中に放り投げた。
「先ほど出会ったあの舞姫らは間者だ」
「嘘……」
体を捻り、自分の体を支えるためリクの肩に手をかける。
「本当だ。あれはお前の弟・ラズリ=ハイヤードの間者だ」
「ラズリの?」
弟の間者と聞いて安堵した。
精霊信仰国のならば、私の命は狙われる。
それに一緒にいたリクにも危害が及ぶかもしれない。
「うちにも間者がいるんだね」
「どこの国でも間者ぐらい放っているだろうが」
「そうなんだけど、ハイヤードでなんて聞いた事なかったの。しかもラズリがなんて……」
「まあ、お前は知らなくても良い事だからな。あいつらは、今回の件を真っ先にラズリ王子に報告する。そうなればラズリ王子は間違いなくギルアへとやってくるだろう。そうなったら、お前の弟が騒がしくてお前とゆっくり出来なくなってしまうんだ」
「ラズリに知られたらゆっくり出来ないの?」
「出来るわけ無いだろ。お前を連れ戻しに来るに決まってる。騎士団引き連れギルアへ奇襲でもかけるかもな。いや、夜襲か」
「ラズリはそんな事しないよ。物騒な事言わないで……」
ラズリは優しい子なのに。
リクってば、かなり誤解しすぎ。
「賭けてみるか?」
「いいわ」
私はリクを見上げ、胸を張った。
「なら、なんでも一つ言う事を聞く事」
「……なんかそれヤダ。リク、変な事言いそうだもん」
「さあ? 俺にとっては変な事ではない。賭けを了承したのだから、今さら変更は聞かないぞ? ハイヤードからギルアまで一ケ月以上かかる。転移魔法を使えば一瞬だが、それは漆黒の魔女に手を回しているから不可能。その上、あの間者達も旅には騒動がつきものだ。なかなかハイヤードまでは最短距離では向かえないだろう――」
リクは、器用に片方の口角だけ上げ笑った。
「賭けの結果は、早くて二ケ月半から三カ月。だからその嵐が来るまで、お前と甘いひと時を過ごしても構わないだろ?」
リクに頬を撫でられ、私は俯いた。
なぜこの人はこうもストレートに……
「俺を見ろ、リノア。俺だけを――」
ぐいっと顎を長い指で上向きにされ、強制的にリクの姿が視界に入る。
青い瞳に映る、私はなんて弱いんだろう。
大切な人を守るためなら、私はその人たちに危害が加わらない為に一人で生きていく。
見ず知らずの地でだろうと。
でもそれが出来ない。
私は偽名のリノアとして生きれない。
リクの前だと、シルクになってしまう。
彼に恋するただの女の子に――
傍に居たい。ずっと……
私は掴んでいたリクの両肩に少しだけ力を加え、そして体をわずかに浮かせると、キスを落とした。
唇の端ギリギリの場所に。
「ねぇ、回復した?」
私の問いかけにリクが大きく瞬きしたその後、一瞬でリクの顔が朱に染まった。
「あ、赤くなった」
「お前、不意打ちすぎるぞ……」
「リクだって私にキスする時、ほとんど不意打ちじゃん。キスしたから回復したでしょ? ちゃんとご主人様を労わったんだから城下町連れて行ってね」
「そうか。なら俺も日頃頑張って働いているメイドを労わなければな」
「は?」
それならお給料として貰っているのだけれども……
ギルアでは特別賞与も出てるから十分です。
首を傾げリクを見ているとその青い瞳が意地の悪い光を帯びたため、私はすぐさまリクの膝の上から
立ち去ろうとした。
だが一足遅かったらしい。
がしっと体がしっかりとリクの腕でホールド。
「え、え~と。私、お給料十分貰っているし……」
「お前も慣れないラッシュアドで、メイドの仕事で疲れただろ」
その答えはノー。だから私は首を左右に振りまくった。
振り子時計の如く。規則正しく。
「遠慮するな」
「してない! 私、キスで回復しないもん。キスは普通にしたいよ!」
「そうか。普通にしたいのか」
「あ」
なんか墓穴掘った……?