三話
「エステル」
シャルロット達と別れ、夜会の会場に向かっていたエステルは呼び止める声に足を止め振り向いた。
「殿下」
「エステル、あまりに帰りが遅いので探していたんだ」
「申し訳ありません、殿下。シャルロット様が階段から落られまして大事はなかったのですが心配でしたので今まで付き添っておりました」
「何っ!?シャルロットが!!してっシャルロットは!!!」
エリクの取り乱しようにエクセルは悲しげに目を伏せる。
「意識はしっかりしているようで、今はミカゲ様がついておられます」
「……ミカゲ?あの異邦人が。……ちっ」
自分こそがシャルロットのそばに、とでも考えたのだろうか。宗司の名が出た途端、エリクは不快そうに顔を歪めていた。
「しかし、シャルロットは何故階段から……」
「無理をされていたのではないでしょうか、グリフィス伯爵家のエリーゼ様は厳しい御方ですので。アレックス様との婚約が許さてたといっても、そこですべてが許されたわけではないのでしょう」
(それに……)
「殿下」
「ん、どうしたエステル?」
「シャルロット様にお心を割かれるのはおやめくださいませ」
「……なに」
エステルの言葉にエリクの瞳に剣呑な光が宿る。
「殿下、そのお心が民を思いやってのモノでしたら良うございました。……ですが殿下はシャルロット様を一人の女として見て、お心を割かれてます。確かにわたくし達の婚約は政略的なものです、しかし王族である殿下がそれを蔑ろにされては臣下たちはどう思うでしょうか。ましてシャルロット様には心からお慕いする婚約者がおられるのです、そこに割り込むようなことをされてはますます信を失うことに――」
「黙れっ!!」
政略、そう言ったエステルの表情は痛みに耐えるように歪められた。しかし、どれほど心が傷だらけになろうと言わなければならない。
それが王族の婚約者として選ばれたエステルの役割であり、公爵家に生まれた者としての矜持だから。
だが、その諫言は王子の耳には届かなかった。
「名ばかりの婚約者の分際で俺に説教などするな!シャルロットは何時も笑顔で俺を迎えてくれる、俺を癒し支えてくれるというのにっ!まったく忌々しいっ、お前のような者が婚約者などと。何時も何時もすました顔で偉そうに!!」
子供のように癇癪を起こし捲し立てるエリクは激しく床を鳴らして歩き出した。
「殿下っ」
「来るなっ!!」
「・・・・・・・・・」
エリクの拒絶にエステルは立ち尽くし顔を伏せた。そんなエステルにエリクは振り返ることもなく歩き去った。
“笑顔”
王族に対して男爵家のシャルロットが向けることが出来る表情はそれしかない。
決してエリクが男として特別なわけではない、それに気がつかないエリクは王族として致命的に欠けているものがあった。
○●○
(おのれ!おのれ!なんなのだっ、あの女は!!!)
床を鳴らしながら乱暴に歩くエリクは内心で悪態をつきながら廊下を進む。
上の兄たちと常に比べられ卑屈になっていたエリク、そして宛てがわれた婚約者がエステルだった。
エステルは王族の婚約者として完璧だっだ、与えたれた権利の意味を理解し、果たすべき義務を理解し、そのために努力を怠らなかった。
王太子に婚約者がいなければ候補に上がっていてもおかしくないほどに。
だが、それはエリクのコンプレックスを刺激するには十分すぎた。
エリクは逃げてしまった、シャルロットの笑顔に。恋は女を綺麗にすると言うがこの時ばかりはそれが仇になったと言わざるを負えないだろう。
しかも、シャルロットに参ってしまったのがエリクだけに留まらなかったのが頭の痛い話だろう。
(そんなに俺がシャルロットの近く居るのが気に入らないのかっ!!!何故っ、俺が縛られねばならんのだ!!!こんなモノはただの契約であろうにっ!!心などっ!!!)
そこまで考えてエリクは急に歩みを止めた。
(俺のせいか……)
噂はエリクの耳にも届いていた、公爵令嬢が男爵令嬢に執拗な嫌がらせを繰り返していると。
(そういえば、あの頃からシャルロットの笑みに陰りが……)
そこからエリクの思考は自分に都合の良い方に加速してゆく。
(まさか!?階段から落ちたのも!!)
好いた女と煩わしい女、そして己にとって最も都合の良い顛末。
(あの女っ!!そこまでして妃の地位が欲しいか!!!!)
それを止める者が居ない事は、はたして誰にとっての不幸であっただろうか。
(守らねば……)
そしてエリクは呟く。
「貴女は私が守る……」
○●○
「シャルっ!!」
ベットで休んでいたシャルロットに駆け寄るアレックス。
大事にはならなかったがそれでもしばらく安静にしていたほうがいいだろうと言う医者の言葉に数日、自宅で療養することになったシャルロットのもとへアレックスが訪れたのは夜会から三日目の昼過ぎだった。
「アレク、……ごめんなさい。無理をさせてしまったみたいね」
「いやっ!いいんだ、……無事で良かった」
そう言ってアレックスはベットの横で膝をついくとシャルロットの頬をなでた。
視察地からグリフィス伯爵邸までは馬を飛ばして一日、すぐに連絡を送ったとしても三日目というのは早過ぎる、それは乗り手に多大な負荷をかけることになる。
「シャルが階段から落ちたと知らせを聞いたときは心臓が止まるかと思った、最近は特に無理をしてるようだったしね。でも、シャルは大丈夫と笑うばかりで……こんな思いをするくらいなら強引にでも止めるべきだったよ」
「心配かけてごめんなさい。……ミカゲ様にも怒られちゃったわ」
「ソウジはなんて?」
「もっとアレクに甘えろって」
それを聞いたアレックスは何とも言えないような表情を浮かべ、少し赤くなった顔を隠すように真横に視線を逸らした。
その様子を見てイタズラを成功させた子供のような顔をしてシャルロットは小さく笑っていた。
「まぁ、その、なんだ。……シャルが俺と一緒に居るために頑張ってくれてるのは嬉しいよ、だけどこれからは俺の事も頼ってほしい。つらい事があれば言ってくれ、一人で我慢しないでくれ。シャルが俺を支えようとしてくれているように俺もシャルの支えになりたい。……お願いだ、シャル」
「ええ、約束する」
シャルロットは目を瞑り頬に触れるアレックスの手に自身の手を重ねた。
「愛してるわ、アレク」
「愛してるよ、シャル」
○●○
月明かりの中、振るわれる鉄の棒が風を切る音が響く。
『宗司様』
『茂康か』
『いよいよですな』
宗司がグリフィス家より宛てがわれた別邸の庭、槍の鍛錬をしていた宗司の前に現れたのは宗司と同じ黒い髪と瞳の、宗司より歳が上の青年、見張り兼従者としてともにこの国へやって来た二人の家臣の片割れだった。
『気の早いことだな、まだ迎えの船も来ていないというのに』
『何を仰られますか!100年続いた乱世が終わろうかという大戦が近づいているのですぞっ、半月やひと月など刹那に等しいではありませぬか!!』
『そこを比べるのは可笑しいと思うがな……』
熱く語る茂康に宗司は呆れ顔を向けるが、その心は宗司も似たようなものだった、だが。
『あまり騒ぐとまた半兵衛の小言をくらうことになるぞ』
この血の気の多い家臣と一緒に騒いではもう一人が何かと口煩くなる。
『むっ、……そうですな』
『戻れば嫌でも戦場に立つのだ。せめて今くらいはのんびりしようではないか、なぁ茂康』
そんな宗司の言葉に茂康の瞳に炎の如く燃え上がっていた闘志は一転して穏やかな光へと変わった。
『この一年でお変りに成られましたなぁ。御影の鬼喰いが随分と丸くなられた』
『戦は殺し合いじゃ、勝つために修羅だろうと何だろと成ってやる。……だが、それ以外なら、人で居っても良いのだと気づいただけのことよ』
宗司は月を見上げながら静かにそう呟いた。
『この国に来たのは宗司様にとって良き縁であったようですな』
『あぁ、好かぬ奴らも居ったがそれ以上に良き人らに出会えた』
『・・・・・・・・・・・』
『・・・・・・・・・・・』
優しい月明かりの中、しばらく沈黙が続く。
『あの、……宗司様。……その』
何やら言いづらそうに口を開いた茂康に、何事かと宗司は視線でその先を促した。
『いや、……お伝えしなくてよろしいので?』
何をとは宗司は聞かなかった。それを聞かねば分からぬ程の浅い付き合いでもない。
『覚悟と矜持を持って立ってる女に、戦で死ぬかも知れぬ男が独りよがりの想いを伝えて何になるというのだ』
苦笑いでそう答えた宗司に茂康はそれでも、と思う。
『しかし、伝えねばそれは無いと同じではありませぬかっ!!』
『それで良いではないか、茂康』
宗司の声はどこまでも穏やかだった。
『あの方にはあの方の道があり、俺には俺の道がある。重なることがないのならそういう縁であったそれだけの話じゃ、それを無理に重ねようとするのは無粋であろうよ』
『……宗司様』
『まぁ、惚れた女の相手が阿呆であるのは気に入らんがなっ』
そう言って笑った宗司は月を見上げ左手を月に向けて伸ばした。
『茂康よ』
『はっ』
宗司は月にかざした左手をグッと握る。
『天下を取るぞっ!我ら御影の手で乱世を終わらせる!!』
『御意!』