5話 ノアレベル40
アルマ主催の勉強会が終わり、よほど楽しいことがあったのかスキップ混じりのモニカ、小さく笑みを見せるノア、そしてやたらと疲労した様子のアルマが出て来た。
「今日は楽しかったねー」
「楽しかったねー、じゃないわよ! アンタ、半分以上も寝ていたでしょう!」
ぐっとモニカに顔を寄せながらアルマが怒声を飛ばす。対して、たじろぎつつもモニカは、まあまあ、とアルマを制止するように両手を前方へ伸ばした。
ノアから率直な感想を言わせてもらえれば、モニカは半分以上寝ていたはずだ。下手をすれば、開始五分で机に突っ伏していたのではないのだろうか。遠回しの言い方をしているのはアルマなりの分かり辛い気遣いなのだろうと勝手に解釈しておくことにする。
「まあまあ、じゃないっての! 最初に言っておくべきだったかもしれないけど、事の発端はモニカでしょ! いつか三人で一緒に冒険したいから、そのために勉強しようて言ったはずよね」
「そ、そうだったかなー……? あれれー? えへへーうふふー」
「笑った誤魔化せるなと思うな、こらぁ!」
どれだけ酷い喧嘩をしても一日もすれば喧嘩していた記憶ごと忘れている二人だ。どれだけ言い合おうとさほど気にすることはない。そう考えていたアルマだったが、ある一点だけが鼓膜に絡みつくように取れることはない。
「三人で冒険……」
「うわぁん、ごめんなさいごめんなさいー! ……て、どうしちゃったの? ノアちゃん」
ノアの呟きが聞こえたのか、様子のおかしなノアを心配してモニカが声をかけてきた。
「……なんだか、今の会話に違和感があってな」
沈んだトーンで話をするノアを見れば、アルマは肩をすくめれば自嘲気味に笑う。
「私達の会話なんて、ほとんどが違和感ありまくりでしょうが。一つ一つ気にしたってしょうがないわよ。変だなおかしいななんて思ったら、聞き流すのが一番よ」
「なんか、アルマちゃんて……サラっととんでもないことを言うよね……。これでも、いろいろと考えてお喋りしているつもりだったんだけどな」
「いったい、いつどこで頭を使って会話しているところがあったのよ……」
「出かける約束をして、寝坊した時に言い訳を考える時とか……かな?」
「かな? じゃないわよー!」
「いたたたたた! アルマちゃんアルマちゃん! お願いだから、腕の関節を人体が絶対に曲げることのできない方向に曲げようとするのはやめてー!」
ドタバタとした楽しげな光景の中で、ノアは仕方なさそうにモニカを助けようとする。
ふわふわと現れた視認できない霧のような違和感は、このドタバタとした嵐の中に消えてしまった。あまりにも強すぎる二人の嵐は、あまりに心地よくてノアは抗うことができないままに暗くなるまで二人と話が盛り上がり遊び続けた。
※
「くそ、しまったな! 遅くなってしまった……。イムとルルとみんなは、どうしているんだろうか」
急ぎ足で駆けていくノアは夕食を用意していなかったことを思いだして、慌てて帰宅の道を進んでいく。
お昼は何も用意をしていなかったことを酷く後悔した。
せめて仕込みぐらいはしておけば良かった。いや、それ以前に材料は買っていたのだろうか。ダメだ、それさえも思い出せない。
頭の中でぐるぐると思考を巡らせるが、悩んだ末に良い結果は何一つ思い浮かばない。
無駄に頭を使っている内に気づけば家の前。灯りを見るに、家族は既に居間に集まっているようだった。外から走ってきた勢いのまま、家の扉を開くとほぼ同時に飛び込んだ。
「すまない、遅くなった! すぐに晩御飯の用意を――」
「――なにしているのよ、ノア」
「え――」
聞こえるはずのない女性の声に下げた頭をすぐに上げた。
「あ……ぁ……」
ノアは自分がよく知っている女性の声を聞き、そして、姿を視認することで雷に打たれたような衝撃が全身を駆け巡った。
会いたくて、焦がれて、瞼の下で追いかけ続けた人がそこにはいた。
気がつけばノアの両目から涙が流れ落ちた。
「うわわ!? どうしたんだい、ノア!」
食卓に座っていたノアの父親は机に足をぶつけながらも涙を流す娘に近寄った。表情を変えずに、ただただ涙だけを流し続けるノアを前におろおろとしている巨体の父親を軽く押してどかせば、涙の原因である女性がノアの頭の上に手を置いた。
「子供の前で動揺してんじゃないよ。……女の子には、泣きたい時ぐらいあるのさ。そうだろ、ノア?」
乱暴な声が凄く優しく響いた。それは、ノアの前に立っている女性が、誰よりも優しくしてくれることを知っているからだ。
涙の理由も忘れてしまったノアが、じっと頭に手を置いてくれた女性の顔を見つめた。
「うん……急に泣きたくなったんだよ……。――お母さん」
自分の娘から返事が返って来たのを聞けば、ノアの母親であるシルハが満面の笑顔を向けた。
長い銀髪、成長したノアよりも僅かに高い身長、腕は少女のように細いのに手の平は厚く固い、そして、全ての人間を受け入れてしまいそうな広い度量を感じさせる青い瞳。ああこの人は、私のお母さんだ。
毎日見ているはずのその笑顔を目にしたノアは、理由もなく自分の心の中で彼女が自分の母親であることを反復した。
「お母さん……お母さん……」
泣き出すノアを「子供みたい」というルルや「どこか痛いの?」と心配そうにするイムのことなんて気にもならないぐらい、ノアの両頬を涙が湿らせ続けた。
「やれやれ、子供の頃の甘えん坊が再発しちまったかい?」
ぶっきらぼうな口調の後に、ノアは優しい香りと心すら包み込んでしまうような温もりの中に抱きしめられた。シルハがぎゅっとノアを抱きしめたのだ。頭に手を置いて撫でながらも、背中に回した手はほどよい力の加減で。
「どうしてだろうな……。お母さんとは毎日会っているはずなのに……。ずっと会っていなかった気がする……」
シルハがノアの涙を吹き飛ばすように豪快に笑った。
「馬鹿言ってるんじゃないよ! こんなにも可愛い子供達と優しい旦那といつも笑顔のじいさんばあさんを残して出て行けるものか!」
「ごめんね、いろいろ迷惑かけて……あたたっ」
ノアの父が申し訳なさそうに言えば、空いた片手でデコピンを喰らわせるシルハ。
「アンタまで沈んでんじゃないよ、私は好きでここにいるんだ。今さらとやかく言われても背中が痒くなるだけだよ」
「お母さん……」
「さあさあ、辛気臭い顔はやめてみんなでご飯を食べよう。今日は勉強で疲れているかと思って、ノアの好きな物を作ってるんだ。もうすぐできるから、期待して待っていてくれ」
「あ、だったら、すぐに手伝いを……」
「――いいんだよ、そんなこと。たまにはみんなとおしゃべりでもしながら、腹を空かしときな。家族みんなと会話するだけでも、十分にお手伝いだよ」
シルハに背中を押されれば、ノアは不慣れな感じで自分の定位置の椅子に座った。隣を見れば妹弟、祖父、祖母の笑顔。父は母の手伝いを。
みんなが楽しそうで幸せそうだ。
なんで悲しんでいたのか、何を思って涙を流したのか、そんなことはもう全く思い出せない。
そうだ、私のやるべきことは、何もない。ここでこの温かな空間で笑えばいいんだ。
「さあさあ、できたよー! 今日は腕によりをかけたから、腹いっぱい食べてもらうよ!」
鍋を運んでくるシルハの顔を見れば、ノアは満たされた表情で目を細めた。そして、全員に聞こえるようにはっきりと言う。
「お父さん、お母さん、おじいちゃん、おばあちゃん、ルル、イム……。みんな、ただいま」
驚いたようにノア以外の家族全員が顔を見合わせると、息のあった様子で返事をした。
――おかえり。
家族の温かな声がノアを迎え入れた――。




