3話 モニカレベル18 ノアレベル36 アルマレベル34
日中たっぷり遊んだモニカ達は、ノアが五分もしない内に立てたテントの中で川の字で横になるとあっという間に眠りの中に落ちた。
三角型に骨組みの上に布をかけて、地面に薄めの布を敷くだけのテント。モニカからしてみれば、元の世界で使っていたものからは形以外は遠く離れた物体に思えた。それでも狭いテントの中で三人で肩を寄せ合って寝れば説明することのできない楽しさと温もりの中であっさりと眠りに付くことができた。
数時間後、ノアとアルマの間に挟まれていたモニカは緩やかに目覚めた。
上半身だけモニカは起こせば周りを見た。服を濡らしてしまったため下着姿のノアは小さな寝息を立て、仰向けに目を閉じるアルマの胸元は規則的なリズムで上下する。
テントの外はまだまだ暗く、改めて一人で目を覚ますと不気味である。砂浜の波の音は癒されるという人もいるが、暗闇で黙って聞いていると意識を引き込まれるような錯覚をしてしまう。
怖いなら目を閉じて、早く寝てしまおう。そう考え、心強い仲間の眠る隣で体を寝かせようとしたモニカ。
「なにこの匂い……」
潮の香りに混じり、食欲を刺激するような甘い香り。
元の世界ではお菓子が好きでいろいろ食べてきたが、今まで嗅いだことのないような直接的に神経を刺激するような甘味の匂いだ。ソレが何かを判断する材料は匂いしかないのだが、それでも十分にそれが食べ物だと気づくことが出来た。
気が付けばモニカは立ち上がり、テントの外にいた。
一度、二人の寝顔を見る。近くに仲間がいるという安心感から、モニカは暗闇の砂浜を歩き出す。
「あ、しまった」
そこでふと、モニカも服を干していたことを思い出した。
モニカの身体的特徴が原因で高校生が着るとは思えないほど幼い下着を着ているのだが、これでも乙女だ。我慢して生乾きの服を着て、念のために鎧も装着する。腰には勇者の剣だ。
「さすがに、準備し過ぎかな? ……いやいや、アルマちゃんには気をつけるように言われているんだから、やっぱりこれぐらいしないと」
甘い香りに誘われて向かった先、数メートル先も見えない暗闇の中、何故か迷うこともなく真っ直ぐにその香りの発生源に辿り着いた。
「ショート……ケーキ……!?」
そびえ立つ鮮やかな赤は苺、それを支えるのは白いクリームの絨毯、そんなモニカからしてみればお城のような存在を支える柱は甘いスポンジ。その間には、さらにクリームが塗られていた。
モニカは喉を鳴らした。
モニカはケーキが大好きだが、その中でもショートケーキが一番好きだ。
何度も砂浜の上に突然現れたショートケーキを見る。一応、皿の上に乗っているので、汚れていることはなさそうだが。
(無駄の無いフォルム、洗練されらデザイン、一度見れば恋に溺れたように忘れられないそのお姿。……間違いない、ショートケーキ様だ。で、でも……)
明らかにおかしい。どう考えても、砂浜の上に一人分切り分けられたショートケーキがあるわけない。それにこの濃厚な甘い香りも、まるでショートケーキの香水を砂浜中に撒いたみたいな強い匂いだ。
「い、一度、ノアちゃんとアルマちゃんに……」
二人を起こすためにモニカが背後を振りかえろうとすれば、違和感。後ろに誰か立っている。そのため、モニカは背後へ歩くために引いた足をそれ以上動かすことはできなかった。モニカの背中には、誰かがぴったりと密着していた。
(誰……!? この感じ、絶対に二人じゃない!?)
「――そう怯えないで」
大人の女性の声。甘い香りが強くなり、モニカの頭の中にも侵入してくるようだ。
細い指がモニカの顎を撫でれば、耳に熱い吐息が触れる。
「やぁっ……」
「かわいい声ね。そんな風に鳴かれると、イロイロしてあげたくなっちゃうけど……。そんなことしてたら、怒られちゃうから」
女がもう一度息を吐いた。その吐いた息すら甘く、鼻を通り、口の中の歯を溶かし、喉すらも何か粘着質なものに変えるようだ。
少しずつモニカの思考が緩くなり、まともに物事を考えることが難しくなる。
(酔っ払うと……こんな感じなのかな……?)
歪んだモニカの視界は、目の前のショートケーキだけを見せる。
「さあ、お食べなさい。いつも頑張っている貴女へのご褒美よ。我慢しなくていいの。もう難しいことは何も考えないで、ただ貴女のしたいことを求めなさい。甘くて、おいしくて、ずっと欲しかったわよね? そうすれば、きっと幸せ。気持ちよくなれる。ただ、触れればいいのよ? 私は止めないわ、ただ貴女にこの幸せを送るだけ」
女の囁きが頭の中に直接響いていくようだった。その女の声すらも、モニカはショートケーキを求める際に発生する隠し味のようにすら思える。
「今がいちばん……おいしいの?」
女は小さく笑う。
「そうよ、今がいちばんなの。貴女の好きにしていいのよ。これは、ご褒美。これは、幸福。何を躊躇しているの? 求めることは悪いことじゃない。……ね、そうでしょ?」
その女の言葉を最後に、モニカの思考は完全に欲望に支配された。
モニカは声を出すこともなく頷いた。そのまま、ショートケーキがあるはずの方向へ手を伸ばせば、意識は暗闇に落ちた。
「おやすみなさい、勇者」
砂浜に倒れこむモニカを見ながら、女は闇に溶けるようなおぞましさで笑った。
※
「――おい! アルマッ!」
「うん……? なによ……」
深い眠りに落ちていたアルマは、ノアの大きな声で強引に睡眠の闇の中から引き上げられた。
アルマは返事をしたつもりだったが、ノアには聞こえていないようで、アルマの両肩を自分の両手で掴んでぐいぐい押しては引き押しては引きを力いっぱい繰り返して目を覚まさせようとする。
「アルマ! おい、早く起きろ! 大変だぞ、アルマ!!!」
「わ、わかった……。分かったから! 手を離しなさいっ!」
吐き気を感じさせるこの状況から抜け出すために、アルマは必死に手を伸ばしてノアの顔面を押す。
「んぐぅ!? ……す、すまない」
アルマの手はノアの鼻を押されて、そこでやっとノアはアルマを揺さぶっていた手の力を緩めた。
「一体、いきなりなんなのよ……」
着崩れた服を整えながらアルマが言えば、ノアの顔の表情からは深刻な雰囲気が滲み出ていた。
「あ、あのな、その、モニカ、モニカがなぁ!」
「さっきから、何を言ってるの……。落ち着いて、冷静になりなさい。そんな慌てた様子では、時間の無駄遣いよ」
声の調子を落として喋りかけるアルマを見て、はぁはぁと忙しくなく吐いていた呼吸を静かにしていく。そして、ノアは深呼吸を繰り返す。三度の呼吸をした後に、ノアはそれでも慌てた口調で告げた。
「いないんだ! モニカが、どこを探してもいない!」
「モニカが……?」
目が覚めた時にアルマもモニカがいないことに気づいてはいたが、まさかそれがノアの慌てていた原因だとは思いもしなかった。
とっさにモニカの寝ていた場所に手を置けば、寝ていた人間なんていないように冷たい。
「どうやら、いなくなってから、かなり時間が経過しているようね……」
眉間にシワを寄せながら言うアルマの顔には憤りが混じる。それはモニカへ向けた感情ではなく、ふがいない自分への怒りだった。
「どこにもいないんだ! 周囲を探してみたが、見つからない。モニカが危険な目にあっているのかもしれないのに……私は……何をしていたんだ……!」
苦しげに言うノアの手や足、顔にも砂や泥が付いていた。アルマが目覚めるよりもずっと早く起きてモニカを探し続けていたことが分かった。そんなノアを一人で捜索させていたことを思えば、アルマはさらに情けない自分を嫌に思えた。しかし、今は自分を責めている場合じゃない。そんなことを教えてくれたのは、モニカだ。
アルマは三角の帽子を深く被り、杖を手にした。
「自分を責めないで、それなら、私も貴女以上に責任があるわ。……二人で探したら、他に発見があるかもしれない。もう一度、モニカを探しに行くわよ」
「……ああ」
アルマの提案に、目を赤くしたノアは真摯に頷いた。
※
昨日まではただ明るく楽しかっただけの海岸が、今のモニカとノアの前には歩行を邪魔する障害にしか思えない。
「モニカ! どこだ! どこにいるんだっ!」
「モニカー! 隠れてないで、みんなで朝ご飯食べましょう!」
意味がないと分かりながらも、ノアとアルマはその声を止めることはない。
いつしかアルマの手足も砂だらけになっていたが、そんなことを気にしている場合ではない。大切な友達に危険が迫っているのに、自分のことなんて気にする気持ちなんてアルマには微塵もなかった。
それはノアも同じことで、その顔には今まで見たこともないような精神的な疲労の色が浮かんでいた。
ずっと前に日が昇り、既に昼前だ。もうここにはいないかもしれない、そんな考えが二人によぎった時だった。
『おーい、ノアちゃーん。アルマちゃーん』
どこからかモニカの声が聞こえた。二人は、声のした方向を見る。
「て……何アレ?」
声のした方向を見れば、そこにいるのは砂浜に突き刺さった案山子だ。本当なら、田畑を守る為にいるはずの人型のそれが、何故かこんな砂浜に立つ。さらには、モニカの着ていたものとどこか似ている鎧と服、それからモニカの音声を発していた。
アルマにははっきりと、その案山子が魔力でできた物体であることが理解できた。それ以前に、魔法使いじゃなくても、どこからどう見てもそれはモニカではなく木と藁と布で出来た案山子だった。
「露骨に怪しいわね。でも、これでモニカが第三者によってさらわれたことが明白になったわ。ノア、あの案山子を慎重に回収――」
「――モニカッ!」
ノアはモニカの声を何度も繰り返して発声を続ける案山子へ向けて突進していた。どうやら、今のノアにはあの案山子がモニカに見えているようだった。
「馬鹿! 何やってんのよ!」
慌てて声をかけるアルマ。しかし、今のノアはこんなところでは止まらない。一直線に罠に突き進んだ猪のように案山子に向かっていったノアは足元に発生した魔法陣に気づかない。
「なんだっ!?」
案山子に触れるまで後一歩というところまで接近したノアだったが、その手は宙を掴むのみ。足元から出現した魔力で作られたいくつもの手によって、両手や両足を掴まれていた。それでもなおも動こうとするノアに、さらにいくつもの手が出現してノアの全身を覆えば半球体の中に包み込まれる。
黒色の半透明の半球体の中から何度も叩く影が見えたり、「モニカ! モニカ!」と叫んでいる様子なら命の心配はなさそうだ。
「バカノア……」
あまりの間抜けっぷりにアルマは頭を抱えることとなる。同時に、警戒心を高めた。
できる魔法使いというのは、こんな半端な状態をそのままにしない。必ず、どこかにモニカとノアを捕らえた魔法使いがいるはずだ。ソイツの狙いはおそらく、アルマを含めたモニカ達。必ずどこかで、この光景を見ているに違いない。
「どこかに隠れているんでしょう。私にできること限られているし、顔ぐらい見せたっていいんじゃないかしら?」
軽口で言うアルマだったが、これは自分達が本当に緊急事態だというのを隠すためでしかない。こちらの分が悪いとしても、どこか余裕を相手に感じさせなければ、それはもう敗北であり対話すら不可能ということになる。
自信家の多い魔法使いの特徴をうまくつくことに成功したようで、案山子の横の空間が歪んだかと思えば一人の女性が現れた。
「ふふっ、この状況でそこまで言えるなんて……。勇者の仲間にしておくなんて、もったいない魔法使いね」
外見年齢は二十代後半に見える。その女性も同じくアルマと同じ三角の帽子を被る。地味な色のローブを着ているアルマと違い、真っ赤なローブの下の胸元がパックリ空いたシャツから豊満な胸元が主張をしていた。
腰まである長い赤髪を野暮ったく払えば、肉食獣を思わせる鋭い両目がアルマを見た。その姿から溢れる雰囲気は、まさしく自信そのものだった。
「魔法使い? ……同じ魔法使いとして最悪ね。まさか、モンスターの味方をするなんて」
吐き捨てるように言うアルマを見て、女性はアルマの神経をあえて撫でるように嘲笑う。
「酷いわ。せっかく、同じ魔法使いなのに。……まあ、私の場合は魔人族と人とのハーフなんだけどね」
アルマと同じつばの広い帽子を右側だけ女性が持ち上げて見せれば、そこからは先端の尖った耳が窺えた。
魔人族はどれだけ人間と似ていても、身体的特徴が体のどこかに現れる。
「忌み子ね……」
アルマの潮風にも消えてしまいそうな憎しみのこもる声を耳にした女性の顔から、笑みが一瞬消える。それだけで、空間が冷たくなったような気がした。強大な魔力を持つ魔法使いは、感情の動きで魔力を放出することが可能となる。初めて見る、魔法使いの放つ本物の殺意にアルマに悪寒が走った。
「そういうの嫌いよ。……私の名前は、ルビナスていうの。後、言い忘れたけど……私は魔法使いじゃなくて、魔女だから。そこのところ大事よ」
「魔女……!? なんで、そんな貴女が……」
「なによ、魔女が魔人族の味方になるのはおかしいて言うの? そんなのだから、貴女は魔法使いなのよ。……魔法使いのさらに上位の存在が魔女だということをお忘れかしら? 口の利き方には気をつけなさい。先輩からの助言よ」
ルビナスが何気ない動作で砂を蹴れば、蹴り上げたルビナスの足元が白く大きな膨らみに変化し、氷で作られた波が出現する。砂浜を凍らせながら氷の波は進み、二メートル近くなった氷の波が抵抗することもできずにアルマを飲み込んでいく。
「うぅ……あっ……」
苦しげに呼気を吐くアルマの首から下を包むのは、氷の塊。先ほど急に出現した氷の波から逃れることのできなかったアルマを固定して身動きをとれないようにしていた。
「冷たいよね、苦しいよね。私だって、たくさん辛い思いしているの。きっと、そういう気持ちが勇者の敵としての私を生み出したのよ」
いつの間にか氷の塊の上にはルビナスが立ち、必死にそこから抜け出そうとするアルマを見下ろしていた。
「うっるさい……。いい……から……モニカは……どこっ」
頭の中まで凍えてしまいそうになりながら、アルマは声を絞り出す。
アルマの反応はルビナスが求めていたものではなかったようで、アルマの顔を見て忌々しそうに表情を歪めた。
「……モニカちゃんは私が預かっているわ。貴女と違って、なかなか素直で可愛いわね」
「返せっ……! 私の友達……!」
歯を食いしばり、呻くように言うアルマの顔を見て、ルビナスはにっこりと笑う。そして、氷の塊から降りたルビナスはアルマの耳に顔を寄せた。
「イヤ」
「ルビ……ナス……!!!」
ルビナスの甘く囁く声が、アルマの感情を刺激する。激昂したアルマが、例えこの海や見える全ての景色を焼け野原に変えてでも、この女を倒そう。憎悪と共にアルマが、そう考えた時だった。
アルマの口に何か筒状の物がねじ込まれた。
「んぐぅ」
熱っぽい眼差しを向けるルビナスが、アルマの口の中に何か液体の入った瓶を突っ込み、その中の液体を流し込んでいた。
「私の名前、呼んくれてありがとう。……これ、お礼だから、遠慮しないで飲んでね」
無味だが蛍光色の目立つ色の液体。危険なものだと分かってはいたが、アルマは抵抗することもできずに、瓶の中の液体を全て飲んでしまう。そして、次にアルマに訪れる異変は急な睡魔と頭痛。
「くぅ……なんで、こんな……」
「仲間がいるっていいわね。ノアちゃんも一緒よ。そこで、ゆっくりと休んでいてね。……自由をこれから楽しみなさい。あぁ、私はなんて慈悲深いのかしらぁ」
意識を失う直前のアルマが見たものは、自分の両手で自分の体を抱きしめるようにしたルビナスが身悶えしている後ろ姿だった。