110、腐った勇者
激しい腐臭が風に乗ってダンジョン内へと漂ってくる。
頭をよぎる嫌な予感を振り払うようにしながらダンジョン入り口へ向かうと、頭に浮かんだ「嫌な予感」を体現したような光景が俺の目の前に広がった。
「よぉ! 来てくれて助かったぜ、ここ呼び鈴とか付けねぇの?」
体中に纏った異臭を放つ肉の向こうで胡散臭い笑みを浮かべる男。ゾンビに変装した先輩である。
……この格好をしてダンジョンに来たという事は、またなにか悪巧みをしているに違いない。
「なにしに来たんですか? 本当、いい加減にしないと死にますよ」
「実はだなぁ、お前に……というかお前らに頼みがあってきたんだ」
「頼み……?」
「ああ」
先輩は悪びれる様子もなく狐のような胡散臭い笑みを浮かべ、大きく頷いた。腐臭と共に厄介事の臭いがプンプン漂ってくる。
すぐさま先輩を追い返すべく口を開きかけたところで、俺のすぐ後ろから足音が響いてきた。
「どうしたレイス、なんだか酷い臭いが――げっ」
「あーっ! 豚ミタイナ味スルヒト!」
臭いを嗅ぎつけてやってきたのだろう。ダンジョンの暗がりから渋い表情を浮かべた吸血鬼とゾンビちゃん、スケルトンたちがぞろぞろと歩いてくる。ほかのアンデッドに気付かれる前に追い返したかったのだが、どうやら手遅れのようだ。今無理に追い返せばかえって怪しまれる。
先輩はというと、腐肉の向こうでニコニコ顔を浮かべながらアンデッドたちへ果敢に近づいて行く。
「これはみなさんお揃いで! 突然で申し訳ないんですけども、実は皆さんにお願いがございまして」
先輩は胡散臭さを全身から漂わせながら吸血鬼たちに詰め寄る。
だが吸血鬼は先輩から一歩二歩と後退りし、鼻をつまんで思いっきり顔を顰めた。
「宗教はゴメンだし、新聞は取らないし、アルバイトは募集してないし、金は貸さないぞ」
「俺のことなんだと思ってるんだ……そうじゃなくて! ちょっと待っててください!」
先輩はそう言いながらおもむろにダンジョンの外へと出て行く。そのまま帰ってこなければ良いという俺の願いは天に届かなかったらしく、先輩はすぐにダンジョンへと戻ってきた。それも妙な物の乗った台車を転がしながら。
「これをダンジョンに置かせて欲しいんですよ」
「……なんですかこれ?」
台車の上に乗っているのは、美しく光る剣である。だがただの剣ならば台車で運ぶ必要などない。その剣は、石で作られた頑丈で重そうな台座の上に突き刺さっていたのだ。
それの使いみちや先輩の意図が分からず首を傾げていると、吸血鬼が「ああ!」と声を上げておもむろに剣の柄を掴み、台座ごとそれを持ち上げた。
「剣にもハンマーにもなるハイブリッド武器か」
台車でもないと持ち運びできないのであろう超重量級の剣を、吸血鬼は片手で軽々振り回す。
もちろんそんな事ができるのは吸血鬼やゾンビちゃんのような化物くらいだ。やはりそれは本来の使い方と違うらしく、先輩は悲鳴にも似た声で吸血鬼を制止する。
「ち、違う違う! 乱暴にしないでください!」
先輩はなんとか吸血鬼を説得し、台車の上に剣を戻させる。先端についた台座の重みで剣が折れたりしていないか念入りなチェックが行われた後、先輩はようやくこの剣が何なのかを説明しだした。
「これはですね、ある村に伝わる伝説の聖剣――通称、勇者の剣です」
「はぁ? 勇者?」
「また突拍子もないことを……」
俺たちは怪訝な表情を浮かべて剣と先輩を交互に見やる。
「聖剣」と呼ばれる武器はこの世にいくつも存在するし、その剣は確かに普通の武器とは違う神秘的な輝きを持っている。剣を持ってきたのが先輩でなかったなら今の話もすんなり受け入れられたのだろうが、こんな胡散臭いやつに「勇者の剣」だなんて言われても「詐欺」という言葉が頭に浮かぶばかりである。
すると先輩はムッとしたように目を細め、口を開いた。
「あっ、信じてないな? これは村を救う選ばれし者のみが振るうことを許された剣です。疑うならば、どうぞその怪力でこの剣を抜いてみて下さい」
先輩に促され、吸血鬼がその剣の柄を再び握る。そして台座を足で押さえて大きなカブでも引き抜くように腕に力を込める。
しかし剣は一向に台座から抜ける気配を見せず、やがてその行為に飽きたのであろう吸血鬼の方が音を上げた。
「確かに抜けないが……」
吸血鬼の言葉に先輩はしたり顔で頷く。
「そうでしょう? しかし村を危機から救う――つまり勇者になる素質がある者ならばプリンに刺さったスプーンを抜くかのごとく容易く剣を手に取る事ができるのです。そこでこの剣をダンジョンの最深部に置いていただき、勇者を探し出して欲しいと村の者から依頼を受けまして」
「危機って……そんなの、村の人間たちでなんとかしてくださいよ」
「もちろん村の人間だって剣を抜こうと試したんですよ。でも昨日までクワを握っていた人間が、急に剣なんて持てるわけないんです。結局勇者の素質ある者はいなかったようで、誰も剣を抜くことはできませんでした。しかしこのダンジョンをクリアした猛者ならきっと勇者になれる! 村人たちはそう考えたのです」
「そもそもそんな依頼をなんでお前みたいなのが受けるんだ? その村っていうのは魔物の村じゃなく人間の村だろう?」
吸血鬼は疑いのこもった眼差しをまっすぐ先輩へ向ける。今の先輩の姿は明らかに人間受けする見た目じゃない。こんなのが人間の村なんかに入ったら阿鼻叫喚間違いなしである。
この質問を想定していなかったのだろう。先輩は視線を泳がせながら不明瞭な声を口内で咀嚼するように呟く。
「あー……それはその、俺の友達の友達の従兄弟の知り合いが人間好きらしくてですね……」
そのしどろもどろな答えに吸血鬼の視線はみるみる鋭くなっていく。先輩も自分の立場が危うくやってきた事に気付いたのだろう。突き刺さる視線を振り切るように声を上げた。
「とにかくお願いしますよ! 良いでしょ、減るもんじゃないし!」
「それをやったら、僕らになんの得があるんだ?」
「はぁ? 得って……このままじゃ村が危ないんですよ? 物凄い数の人が死ぬかもしれないんですよ?」
白々しい正義を振りかざし、先輩は吸血鬼に詰め寄る。だが日々冒険者と殺し合いを繰り広げている吸血鬼がそんな言葉に動じるわけもない。
吸血鬼は腕を組み、先輩を見下ろしながらため息混じりに口を開く。
「物凄い数の人を救えるんなら、なおさらそれ相応の報酬があって然るべきじゃないのか」
「ネェ」
ゾンビちゃんが横から肩をつついてくるのを無視し、吸血鬼は更に続ける。
「そもそもなんで僕らが見ず知らずの人間のために無償で手助けしなきゃならないんだ」
吸血鬼の冷徹な言葉に先輩はその細い目をいっぱいに開く。
「な、なんだと!? この悪魔め!」
「悪魔じゃない、吸血鬼だ」
「ネェネェ」
ゾンビちゃんは再び横から吸血鬼の肩をつつく。
さすがに二回目は無視できなかったのか、吸血鬼は小さく舌打ちをしながらもゾンビちゃんの方へ視線を向ける。
「ああもう、なんだ一体――」
その瞬間、吸血鬼は言いかけた言葉を飲み込み、そのまま固まってしまった。
一体どうしたのかと、俺も後ろを振り向いてゾンビちゃんに視線を送る。俺の目に飛び込んできたのは、神秘的な輝きを放つ剣の切っ先を堂々と天に向け、ドヤ顔を浮かべるゾンビちゃんであった。
「抜ケタよ」
「えっ……え!?」
慌てて台車を見ると、その上には俺が先程見たときと全く同じ位置に台座が置かれている。だが先程とは違い、その台座に剣は刺さっていない。
「ほ、本当にお前が抜いたのか……?」
吸血鬼が恐る恐るといったふうに尋ねると、ゾンビちゃんは大きく胸を張って誇らしげに頷いた。
「モチロン!」
「ええと……この場合どうすれば」
想定外の展開にしどろもどろになりながらやっとの思いで先輩に尋ねる。
すると先輩は静かに腕を組み、数秒の沈黙の後ゆっくりと口を開いた。
「……剣をダンジョンに置く必要はなくなった」
先輩はそう言い放ったかと思うと、懐からおもむろにトランペットのような金管楽器を取り出す。
「おめでとう、選ばれし勇者よ!」
先輩がそれを口にあてがった瞬間、たった一本の金管楽器から出ているとは思えないほどの壮大なファンファーレがダンジョンに響き渡った。それに合わせ、ダンジョンを囲む森の木々たちもざわざわと色付いた木の葉を揺らす。まるで世界が新しい勇者の誕生を祝っているかのよう――
いや、そんな詩的な事を考えている場合ではない!
「いやいやいや、彼女はアンデッドですよ!? 勇者になれるだけの適性があるとは思えないし、もしかしたら力ずくで抜いちゃったのかも」
勇者というのは、基本的には魔物を倒す側である。あふれる愛で魔物をも包み込む博愛勇者というのならまだしも、魔物の勇者など聞いたことがない。しかも彼女は人間を「戦う食料」程度にしか思っていないゾンビだ。正統派勇者像からもっとも遠いところに位置しているのが彼女であると言っても過言ではない。
だが先輩は目をつむって数秒考えるような素振りを見せた挙句、ニンマリ笑ってこう言った。
「たとえ力づくだったとしても、剣を抜いたならそれはもう勇者だ。勇者以外の何者でもない」
「そんな適当な……」
ゾンビちゃんの勇者としての適正についてどれだけ疑義を唱えても、先輩は聞く耳を持とうとしない。このままではまた面倒なことに巻き込まれてしまう。作戦を変えねば。
俺は考えた挙句、ゾンビちゃんが背負わされそうになっている「勇者の仕事」を丸投げすることにした。これ以上ない適任者の心当たりだってある。
「こんな付け焼き刃の勇者じゃなく、もっと由緒正しい勇者に頼んだら良いじゃないですか。呼んでみましょうか?」
先輩にも心当たりがあったのだろう。
怪訝そうな表情を浮かべ、こちらの正気を疑うような視線を寄越しながら口を開く。
「勇者ってお前……まさかあの痛いコスプレ野郎か?」
「ま、まぁそうですけど。でもダンジョンで酒盛りできる程度には強いですよ。本物の勇者だってのも、あながち嘘じゃないと思います」
俺の必死の説得に対し、先輩は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべて首を振る。
「ダメダメ。村を救えるのはあくまでその剣が選んだヤツであって、肩書や血統は関係ない。第一、本物の勇者なんか雇えるわけ無いだろ。俺のマージンが減っちまう」
「結局金なんですね……」
「ネェネェ、私ナニすれば良イのー?」
俺たちの長い話に痺れを切らしたのか、ゾンビちゃんが闇雲に剣を振り回しながらそう声を上げる。一見子供がおもちゃを振るって遊んでいるような光景だが、彼女は子供ではなくゾンビで、その手に持っているのは紛れもなく真剣だ。
怪力による一撃は轟音を立てながら風を切り裂き、その切っ先は吸血鬼の頬をかすめた。
「あ、危ない危ない! 馬鹿に刃物を持たせるな!」
吸血鬼は頬に滲んだ血と冷や汗を拭いながら、後ろに飛び退くようにしてゾンビちゃんから離れる。
それでもゾンビちゃんは剣を振りまわす手を止めようとしない。
「ネェ、ナニ斬ルのー?」
どうやらゾンビちゃんはやる気満々であるらしい。その剣も気に入ってしまったようだ。
先輩は勇ましく剣を振るう「勇者」を満足げに眺めながら、快くゾンビちゃんの質問に答える。
「ああ、肝心なことを説明し忘れてたな。実は最近村の近くに魔物が住み着いてしまったんだ。暴れるし、生贄まで要求する始末で村人たちは困りきっている。そこで、選ばれし勇者様には村に害をもたらす魔物を退治してもらう」
やはり勇者といえば魔物退治、という俺のイメージは間違っていなかったらしい。そうなるとますます人間じゃないゾンビちゃんが勇者をやるのがおかしく思えてくるが、今更そんなこと訴えても多分無駄だ。
「そんなの冒険者に依頼すれば良いじゃないか。こんな回りくどいやり方しなくても、ギルドとか……よく知らないが、なにかそういうのがあるんだろう?」
吸血鬼が呆れたように声を上げるが、先輩はその言葉を鼻で笑う。
「冒険者に依頼して、それでもダメだから頼んでるに決まってるだろ。やはりこの剣が選んだ者でないと、村を襲う危機は取り除けないんだと」
「……本当ですか? ギルドに払う金がなくて、ろくな冒険者を呼べなかったんじゃ」
俺の言葉に先輩は虚をつかれたように口籠る。
「い、いやいや、そんなことは……とにかく頼む、このままでは村の娘が生贄にされてしまうんだ」
先輩はゾンビちゃんに縋り付くようにして頼み込む。彼女もやる気満々で剣の素振りをしている。このままでは本当にゾンビちゃんが魔物退治に繰り出してしまいそうだ。
だが彼女が勇者をやるなんて現実的に考えて無理である。「やる・やらない」の問題ではない。「無理」なのである。
「生憎だが小娘はダンジョンから出られない。どうしても、というなら『こちらに勇者がお待ちです、今からあなたをぶちのめしますのでこちらへどうぞ』とか何とか言ってここまで連れてくるんだな!」
剣の切っ先の届かない範囲でゾンビちゃんに擦り寄る先輩を見下ろし、吸血鬼は彼を嘲笑った。
ところが、嫌味っぽい吸血鬼の言葉に先輩はあっさり頷く。
「ああ、それなんだがな……実はもう呼んである」
その瞬間、ダンジョン入り口から激しい突風が吹き込んだ。スケルトンたちの骨が風鈴のごとく揺れて音を立て、何体かのスケルトンは風圧に耐えきれずダンジョンの奥へ飛んでいく。
「な、なんだ!?」
俺たちはダンジョン入り口へと一斉に視線を向ける。
そこから見えたのは薄い被膜の付いた翼、ひと振りで木々をなぎ倒してしまうであろう尾、そして一面に広がる燃えるような赤い鱗。
――火竜だ。
「あれが最近村の近くに住み着いた魔物だ。縄張り争いに負けて逃げ出して来たらしくてな。酷く腹を空かせてやがる」
「はっ!? な、なんでそんなヤツがこんなとこに……」
思わず声を上げると、先輩はニタリと笑って先程吹いたトランペットを懐から覗かせる。
「これも村に伝わる秘宝でな。勇者が選出された瞬間に吹くよう言われた。滅すべき魔に向こうからやって来てもらうんだそうだ」
「あっ……あの時のファンファーレ……!」
どうやら俺はひどい勘違いをしていたらしい。
あの壮大なファンファーレは勇者の誕生を祝うためのものではなく、いわば魔物との戦いの火蓋を切るゴングだったのだ。
だが今更そんなことを知ったってなんの得にもならない。魔物は俺たちの目と鼻の先にいて、そのギョロギョロした金色の目でダンジョンの入口を覗き込んでいるのだから。
「さて、役者は揃って舞台も整った。勇者よ、今こそ立ち上がる時だ!」
いつの間に移動したのだろう。
先輩は大きな岩の陰に身を隠しながら勇ましい声を上げて勇者を鼓舞する。だがこんなの、先輩の安っぽい応援の一つや二つでどうにかできるものではない。
「そんなこと言ったって……」
「こ、こんなのと戦えだなんて、本気で言っているのか……?」
「ワァ、デッカイトカゲ」
体に纏う燃え盛る炎でダンジョンの闇を照らす巨大な火竜を、俺たちはただ呆然と見上げる。
その大きさといったら、まるで燃え盛る小さな山が降って湧いたみたいだ。そしてその巨体は真っ赤に燃える鉄のような鱗がびっちりと隙間なく覆い尽くしている。重火器を使ってもその体に傷をつけるのは困難だろう。
だがどんな強い魔物にも――いや、強力な魔物であればあるほどあっけない弱点があるものだ。火竜だって、例外ではない。
……と、思うのだが。
「火竜の弱点は……ええと、確か……」
「弱点があるのか!? なんだそれは、早く言え!」
吸血鬼は目を輝かせ、藁をも掴む勢いで俺の言葉に食い付いた。
火竜の攻撃の特徴、本に載っていた恐ろしい姿の挿絵、逸話、その鱗がどれだけ頑丈であるか――様々な情報が頭の隅から掘り起こされていく。だが、図鑑に載っていた「弱点」の欄だけ、まるで霞がかかったように思い出すことができない。必死になって思い出そうとすればするほど、靄はより濃く頭の中の図鑑を覆っていく。
「ああ……ええっと……ダメだ。思い出せない!」
「なんで思い出せないんだ馬鹿!」
「プレッシャー掛けないでよ、ますます出てこなくなる! あの、あれだよ、図書室の奥の棚にある『徹底解析! ドラゴンスレイヤーのためのドラゴン図鑑』に載ってた」
「使えない奴だな! なんで本のタイトルが出て、その内容が出てこないんだ」
「し、仕方ないじゃん、ド忘れだってするよ! そうだスケルトン、ちょっとその本持ってきて!」
俺の言葉にスケルトンたちは頷き、逃げるようにダンジョンの奥の暗闇へと走っていく。
……とはいえ、彼らが図書室から持ち出してくるであろう情報が役立つかどうかは微妙、というか絶望的だ。
すでに敵は目の前におり、ヤツがその気になればすぐにでも戦いを終わらせられるのだから。
「クク……ようやく生贄を差し出す気になったか。娘よ、もっとこちらへ来い。暗くてよく見えないじゃないか」
火竜は悪役じみた低い声を上げながら、ダンジョン入り口へゆっくりとその頭を押し込む。頭だけでも非常に窮屈そうであり、とてもその体までダンジョンに入れることはできないようだ。
そしてどうやら、火竜はゾンビちゃんを生贄の娘だと勘違いしているらしい。その手に持った剣にも気付いていないのか、警戒する素振りも見せずゾンビちゃんの方へとその金色の眼を近付けていく。
――勝機があるとするなら、それは今しかない。
「油断してる今がチャンスだよ。一気に脳天を叩き割るんだ」
「ウン、トカゲ食ベル」
ゾンビちゃんは使い慣れない剣を両手に構え、柄を強く握ったままジッと「その時」を待つ。
一日中暗闇に覆われているダンジョンが火竜の身体によってあかあかと照らされ、室温もみるみるうちに上がっていく。先輩と同じように岩陰に隠れた吸血鬼は額を伝う汗を拭いながら緊張の面持ちでどんどんと距離を縮めていく火竜とゾンビちゃんを見つめている。
そして熱風のような鼻息がゾンビちゃんのスカートの裾を焦がし、彼女の脚より太い牙が目の前に迫ったその時。ゾンビちゃんは素早く火竜の鼻先に飛び乗り、その眉間に剣を振り下ろした。瞬間、鉄の鐘をハンマーで殴りつけたような鋭い音がダンジョンに反響する。
――だが、彼女の振り下ろした剣の切っ先は、火竜の体に一ミリもめり込んではいなかった。
「うむ、活きが良いな。合格だ!」
火竜は嬉々として声を上げながら鼻先に乗ったゾンビちゃんを振り下ろす。そして呆気なく地面へ転がったゾンビちゃんを、火竜は業火の如き息吹で火炙りにした。それも人が料理をする時のように、ゆっくり、そして丁寧に。
いくらタフなゾンビちゃんとはいえ、さすがにこの温度には耐えられまい。俺は慌てて岩陰に隠れた先輩の顔を覗き込む。
「どうすんですか、勇者負けちゃいましたよ!?」
「おっかしいなぁ、そんなハズは……」
先輩は首を傾げながら恐る恐る岩陰から顔を出し、火竜とゾンビちゃんの様子を伺う。
火竜はその大きな口をほんの少し開き、こんがり焼き目のついたゾンビちゃんの肉を前歯で削ぎ落とすようにちびちびと食べていた。
「……ドラゴンにしては上品な食べ方だな」
勇者がやられたという事実を直視したくないのか、先輩はくだらない事を呟いてお茶を濁す。
とはいえ、確かにあの食べ方は特徴的だ。火竜の大きさを考えれば、ゾンビちゃんを頭から丸呑みにすることだって可能である。だが「火竜」という種族には餌を丸呑みにせず、あのように少しずつ食べなければならない理由があるのだ。
「あれはですね、胃腸に負担をかけないようにする火竜特有の捕食方法で――」
その瞬間、俺は自分の言葉にハッとした。頭にかかっていた靄が嘘みたいに消え失せ、夢から覚めたみたいにスッキリした気分だ。
思い出したのである。火竜の弱点を。
「ぐっ……うぐっ」
上機嫌でゾンビちゃんを捕食していた火竜の顔色が突然変わった。
低い声で呻き出し、風に吹かれた蝋燭のように火竜の体を覆う炎が揺れ動く。
呼吸も早く浅くなり、地獄を吹きすさぶ熱風のようだった鼻息が、今やドライヤー程度の温度しか保てていない。
そしてとうとう火竜は押し込んでいた首を引っ込め、ダンジョンの外で海老のようにまるまってしまった。
「な、なんだ? なにか様子が」
吸血鬼が火竜の様子を見ようと岩から体を乗り出した瞬間、ドラゴンの体から地響きのような音が鳴り響く。
そして数秒の後、地響きは嗚咽と、そしてなにか重い液体が地面を落ちる音に姿を変えた。
「う、うえっ……ゴボッ」
えずき、よろめきながらも、火竜はなんとか翼を広げて地面を蹴った。しかしその飛び方にはゾンビちゃんを火炙りにした時のような覇気はなく、まるで弱った蚊のように見えた。
本物の蚊のように小さくなっていく火竜の姿を見上げながら、吸血鬼は夢でも見てるみたいにぼんやり呟く。
「逃げてくぞ……どうしたんだ?」
「『弱点』を突いたんだよ」
火竜が空の彼方へと消えていく中、今更スケルトンたちが本を持って転がり込んできた。
自分の仕事を遂行するのに必死で火竜が消えたことに気付いていないのか、スケルトンたちは分厚い図鑑のある1ページをその細い指で指し示す。
火竜の攻撃の特徴、緻密に描かれた挿絵、逸話、その鱗がどれだけ頑丈であるか――様々な恐ろしい記述が並ぶ中、挿絵のすぐ横に可愛らしいフォントでこんな文章が書かれていた。
『弱点:おなかがよわい』




