表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/27

001 霧海から来た男

 戦場には雨が降っていた。死して動く事のない死体にも、ほんの僅かな命の残り火を宿す重傷者にも、等しく雨が降り続ける。周囲に散乱するのは夥しい数の死骸と残骸。その多くは同じような意匠で、同じ紋章を刻んでいることから敗北した軍の兵士達である事がわかった。そんな死の匂いに満ち溢れた戦場を、一つの影が歩いていた


「……リュート公は無事に脱出できたか」


 片足を引きずりつつ、小さく呟く。元は流麗であったであろう鎧は傷付き、返り血と自身の血で赤黒く変色していた。その鎧をまとう身体もあちこちから出血が続いている。端正な顔立ちは苦痛で歪み、青い光を宿す瞳は右目を残すだけになっていた。誰が見ても満身創痍の身でありながら、それでも人影は歩みを止めようとはしない


「何とか……戻らないと……従姉上に……」


 体力はとうに尽き果て、精神力だけで歩み続けた人影だったが、やがて小高い丘の上で遂に崩れ落ちた。泥の中に顔を突っ込み、次第に弱くなる自身の鼓動を聞きながら、その視界は徐々に閉ざされていった


(ここまで、か……)


 既に呼吸も碌に出来なくなった身体で、死を覚悟した。すると、暗闇に落ち始めていた筈の視界が急に明るくなったように思われた。それはまるで、死に逝く自分を迎えに来た白龍の御使いが降臨したかのような感覚だった


(あぁ……俺は死ぬんだな……)


 諦めと悔恨を混ぜ合わせたような感情のまま、意識が溶けていった。成すべきを成せないまま消えていく自身を不甲斐なく思いながら、納得できないままに彼――ヴェルゼン公シグムント・ジグ・リッターラントは死を受け入れた。



だが、それは始まりだった



「君に、選択肢を与えたい」


 一度は闇へと落ちていった意識が、再び浮上する。残った右目を薄く開けてみると、ぼやけた視界の中で何人かの人影がこちらを覗きこんでいるのが辛うじてわかった。彼らは顔の下半分を何かで覆い、交流のある魔術師達によく似た印象を持っていた。頭上には真っ白な光が輝き、逆光となった彼らの表情を隠していた


「このまま死ぬか、或いはどんな身体になっても生き延びたいか」

「……」


 奇妙に歪んで聞こえる彼らの問いを、白濁した意識のまま頭の中で反芻する。死ぬか、生きるか。決まりきった選択を用意する彼らに何事かを言おうとするが、口が動かない。喉も引き攣り、微かに呼吸する音が聞こえるだけだ。どんな身体になっても、というのは足や腕を失うという事なのだろうか。思考力の大幅に低下した頭で、ぐるぐると考えだけが回り続ける


「君を救うには身体の大部分を取替えねばならない……人を模した人でない身体となってでも生きたいか。或いは人として尊厳のある死を望むか。どちらを選ぶにしても、我々は君の選択を尊重しよう」


 人でありながら人とは異なる存在。それは躊躇するに十分な響きを持っていた。正体不明の存在となりながら、それでも生き延びる選択か。人としての尊厳を胸にただ黙って死んでいくか。思考力と判断力の低下した頭では、まるで数時間以上も悩んだかのように思えたが、実際にはほんの数分だけだ。考えがまとまらないまま口が動き、小さな小さな呟きが漏れた


「……皆、を……守、り……ぃ、の、為ったら……」


 それは隠しようのない本心。忠義を捧げた君主、慕ってくれる民、仲間達や上官や部下や友人、様々な顔が頭の中に浮かび上がる。自分に出来る事はそんな皆を守る事。幼い頃からそう信じてきた、心に通った一本の信念。それが死の淵に立たされた今でも決してブレていない事をしっかりと証明する一言だった。その言葉を聴いた彼らは、殆ど聞こえないような声音で意味の分からない単語の混じった会話をしていたが、再び歪んだ声が聞こえてきた


「生き延びるという、君の選択を尊重する。そして……君の願いを、可能な限り叶えよう。君達の世界から見れば、比類なき力を君が間違う事無く振るえる事を願っている」


 頭上の光が一際大きく輝いた気がした。力尽きたように瞼が閉じられ、意識は再び闇へと落ちていった。彼の、シグムントの意識が再び戻るのは約144時間後の事であった








 オーレン大陸の東端、リッターラント王家が統治するグロウフェン王国。建国は今から800年以上前という、オーレン大陸でも指折りの歴史を有する国である。かつてオーレン大陸は大海ガルーサ海を隔てた別の大陸、今はニュートロン大陸と呼ばれる地から逃げ延びてきた者達が最後に行き着く地であった。内訳も様々で、ニュートロン大陸での勢力争いに敗れた者、一神教たるメスティア教により迫害された異教徒やエルフ、ドワーフを筆頭とした亜人種、中には一攫千金を夢見た商人等もいた。そういった者達が長い時間をかけて作り上げていったのがオーレンの諸国家である。グロンフェン王国の建国はその中でも古い方で、当時のメスティア教から異端視されて迫害を受けた白龍教団の信徒が中心となっていた。白龍教団はメスティア教とは違い、古代精霊信仰に近い形式を取り、メスティア教が目の敵にする亜人種に対しても偏見を持たない、いわゆる穏健派に属する宗派だ。初代グロウフェン国王は信徒や亜人種達が平穏に生きられる国を目指してグロウフェンを建国したと伝えられている。その建国の理念は今でも受け継がれ、国の主要機関には必ず亜人種の姿が見える。人間と亜人種が手を取り合って歩んでいく、そういった理想に燃えるのがグロウフェン王国である。しかし、そのグロウフェン王国の王都であるミュリオスの中心部にそびえる王城ミュリオスの一室では、その800年の歴史上で最も沈痛な空気が流れていた


「……第2軍と第3軍は半ば壊滅、辛うじて第1軍の残存戦力が後退に成功しました」

「……そうですか」


 沈痛な面持ちで頷いたのは第211代目グロンフェン王国女王エルリオン・フェル・リッターラント。齢16で女王として即位後、精力的に女王としての責務を果たしてきた彼女の顔には、隠し様のない疲労の色が見えた。巨大な円卓を囲むようにして座る王国首脳陣にも明らかな苦悩の色が見える


「幸いと言いますか、第1軍司令官のリュート公は脱出に成功してします」

「……では、ヴェルゼン公は」


 報告に現れたワーウルフの騎士に対して、国内の資源開発と管理を司る人間種の男性ウォルター・ザンバックが問いかける。それが如何に残酷な問いか、わからない訳ではなかったが、誰かが聞くしかなかった


「……リュート公の脱出を成功させるため、敵の一翼に切り込んだ所までは」

「……」


 重苦しい沈黙が円卓会議場を包み込む。現女王エルリオンの従兄弟にして善良なるヴェルゼン領主、そして王国でも指折りの騎士。此処に集う者達で彼を知らない者はいない。それだけに生死不明となった彼の事を思うと、口を開けなくなってしまう。だが、そんな沈黙の中からいち早く立ち上がった者が居た


「……彼の事が気にならないと言えば嘘になります。ですが、今は他にやるべき事がある筈です」

「陛下」


 恐らく最も彼の安否を案じている筈のエルリオンの言葉に、円卓に集った皆が顔を上げる。残酷とも冷酷とも見える彼女の言葉だが、今の彼女は王国の全てに責任を負う身だ。個人的な感情を押し殺し、グロンフェン王国の為に全力を尽くす。それが女王たる彼女に与えられた義務である。その決意を瞳に滾らせ、エルリオンは小さく頷いた


「ご苦労でした、下がって宜しいですよ」


 ワーウルフの騎士を下がらせると、エルリオンは円卓を見渡した。誰もがこのグロウフェン王国には無くてはならない人材だ。専門知識ではエルリオンなど比較にもならない知識と経験を持った者達。そんな専門家達を率いねばならないエルリオンに求められるのは決断力だ。


「ウェストン公、現在の残った戦力はどの程度ですか?」

「正規部隊ですと、不完全編成ながら4・5・6軍が残っております。残りはポートウィルの海軍と、治安維持部隊ですな」


 エルリオン自身の血縁であり、グロウフェン王国軍の最高指揮官であるウェストン公ディアス・ジグ・リッターラントが淀みなく答えると、今度は彼から少し離れた所に座っていた浅黒い肌の女性に目を向ける


「ミュ・リュク院長、理術院の方は?」

「直ぐに出せる部隊としては練成教導隊しかありません……が、出来るならば出したくないのが本音です」


 ダークエルフであるリラ・ミュ・リュク王立理術院院長が答えると、周囲から溜息が漏れた。練成教導隊は、言わば教師陣で編成された教育部隊である。今だ未熟な理術士達に対する教育を受け持つ部隊だけに実力は高いが、戦場に出してしまってその間の理術教育が全く出来なくなってしまう。それは継戦能力の低下を意味するだけに、そう簡単には出せる部隊ではない


「相手は、あのフリーディア帝国です。戦力の出し惜しみはしたくはありませんが……」

「連中のオーレン侵攻軍は未だに5万を超える戦力を有しています。それに加えて例のメスティア騎士団が1万ほど」


 情報を統括するアヌビス種のサティ・ジハークが付け加えると、円卓会議場は更に重い空気に包まれた




 フリーディア帝国。ニュートロン大陸において隔絶した国力を有する巨大帝国である。その歴史は古く、初代フリーディア国王(当時はフリーディア王国)が建国したのが約2100年前だとされている。その後に第5代国王が帝政へと移行、一気に世界帝国へと成長していった。絶対的権力を有する帝王家を中心とした国家であり、近隣諸国を次々と併合しては領土を拡張、今やニュートロン大陸の約三分の一を有するまでになった。その支配は苛烈で、亜人種はおろか併合した国の民を奴隷としている事もある。言って見ればグロウフェンと真逆の立場にある国だ

 一方のメスティア騎士団は、その名が示すとおり一神教であるメスティア教の保有する独自の戦力である。宗教勢力でありながら世俗の権力に干渉する為、信者の中から特に信仰心に篤い者を選んで編成されている。口の悪い、フリーディア帝国軍のある将軍が「奴らは狂信者部隊だ」と評する事から分かるように、異端者を抹殺する事こそが信仰の形であると信じている、ある意味でフリーディア帝国よりも更に性質の悪い連中だ

 そんなグロウフェン王国にとっては災厄以外の何者でもない連中がオーレン侵攻作戦を開始したのは一年半前の事。オーレン諸国家は協力体制をひいてこれを迎え撃ったが、根本的な国力の差が大きく、後退に後退を重ねて今ではオーレン大陸の約6割が占領下におかれている。中にはいち早く恭順の態度を示し、侵攻軍に降伏した国や都市国家もあるが、多くは徹底抗戦を選択した。フリーディア帝国の国力やメスティア教の差別を考えれば、進むも地獄退くも地獄といったところだ。現にグロウフェン王国も先日、カルナ大平原で大敗している


「連中の支配下では亜人種は良くて奴隷、下手をすれば即座に殺されます。特にメスティア騎士団は厄介です」


 サティが言葉を続けると、多くの亜人種の表情が曇った。グロウフェン王国に置いては特に差別の対象となっていない亜人種だが、相手がメスティア教となると話は別だ。連中にとって亜人種というのはそこらの獣と対して変わらない……いや、知識や言葉を扱える分だけ面倒な獣、という認識しかないのだ。そんな連中に祖国を支配されればどうなるのか、考えたくもない


「彼らの理不尽に屈するつもりはありません。何としてでも民を守り抜かねば」

「では、残存兵力を動かしますか。カルナ大平原以東の戦略的要所となると……ガリウス丘陵辺りが最前線となりますが」

「国内の治安維持は保安隊だけでどうにかするしかないか……」


 エルリオンの言葉に、ディアスが壁一面にかけられたグロウフェンの地図を眺めた。そのディアスのほぼ真向かいに座っていた国内の治安維持を担当するリザードマン種の女性、リッカ・リオネンが顔を歪める。何をするにしても手が足りない。そう言いたげなリッカの表情だったが、ない袖は振れないのだ


「手持ちの戦力でどうにかするしかないですね」


 エルリオンが小さく溜息を吐いた瞬間


 空間がぴしりと音を立てた


「っ!?」


 武術の心得のある何名かが椅子を鳴らして立ち上がり、其々の得物に手をかける。不気味に静まり返った円卓会議上の中で、周囲を見渡していた何名かの視線が一点に集中した。エルリオンを上座とした部屋の下座、比較的スペースの開いている側の壁から霧が噴出していた。それは円卓の少し手前までくると自然に消えており、壁一面と床の四分の一程度が完全に霧に包まれていた。まかり間違っても自然現象では起こりえない現象に、いよいよ警戒心が高まる。だが、そんな空気を無視するかのように、穏やかな声が響いた


「どうも、初めまして、皆様」


 霧の海から姿を現したのは、1人の男だった。地味な色のスーツにネクタイ、足元は霧に隠れて見えない。顔立ちは穏やかだが、その瞳には強い知性の色が見える。一瞬呆気にとられたエルリオンの視線の先で、男は軽く頭を下げた


「スギハラと申します、以後お見知りおきを」

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ