5、合祀されない人々その3 「赤祢武人」
実はこのエッセイ、これを書きたかったがためのものです。
「靖国神社に合祀されていない人物」という切り口の中で、これほど鮮烈な例は他にはありません。
その人物とは、赤祢武人。昔からなぜか「赤根」と慣わされていますが、彼の自署を見ると「赤禰」であることからしても、「赤禰」ないしは略字の「赤祢」にすべきです。ということで、この稿では「赤祢」で統一します。
長州の人。ほんの少しの期間だけ吉田松陰に学び、高杉晋作や伊藤俊輔(のちの博文)、井上聞多(のちの馨)らと一緒に英国総領事館を焼き討ちしたりしています。つまるところ、いわゆる尊王攘夷の志士というわけですね。のちには、奇兵隊の第三代目の総督にまで昇り、幕末の動乱の中で命を落とします。
おや、この経歴を見ただけでは、靖国に合祀されていてもおかしくない人物です。
が、彼は合祀されていません。
なぜか。
彼は、長州藩から裏切り者と目されていたからです。
当時、長州は「幕府に従うべし」という派閥と、「幕府に従わず尊王で行くべき」とする派閥がありました。高杉ら多くの松下村塾生たちは尊王派だったのですが、赤祢は違いました。彼は、「今派閥争いなんてやってる場合じゃねえだろ派」だったのです。ちなみにこの頃の長州は、禁門の変において朝廷に弓を引いてしまったがために賊軍扱いされて幕府から睨まれて軍まで差し向けられて(第一次長州討伐と言います)藩の存続が危ぶまれる状況でした。その中で、内ゲバなんてやってる場合じゃない、という赤祢の考えも尤もです。というわけで、赤祢は長州藩内の不和を解決するべく動きます。
ですが、その行動が彼を孤立させます。
二つの派閥がある中で、そのどちらにもつかず我が道を行こうとしたのです。それを見た長州藩士たちは、「あいつは敵方のスパイなんじゃないか」と疑われることになってしまいました。そうして彼は長州を追われ、潜伏先で幕府方に捕まります。
さらにその後、新撰組の伊東甲子太郎という人物が、「こいつを使って長州を丸め込むことが出来れば、長州を攻めることなく屈服させることが出来るのではないか」ということを言い出し、長州へと帰されました。が、彼のその行動が「今度は幕府の犬に成り下がったのか」と疑われることになり、結局長州藩士たちによって捕まり、申し開きもないままに赤祢は処刑されてしまいました。
司馬遼太郎さんの「世に棲む日々(主人公:高杉晋作)」によって明らかに印象が悪くなっている赤祢ですが、海外の圧力が厳然と存在する現在にあって国内で争うことになど意味はない、と看過した上で、融和の道による解決を模索した一廉の人物だったのです。
では、なぜ合祀されなかったのか。
実は、明治も末の頃になってくると、西郷隆盛などの朝敵とみなされた人々も位階を贈られたりして再評価されるようになっていました。それは赤祢も例外ではなく、「位階の受章に足る」という調査結果まであったそうです。が、それを阻止した人がいました。それこそ、山県有朋(さっき、ちょこっと出てきましたね)なのです。一説には、山県が赤祢叙勲の話を聞いた途端に激怒し、「わしの目が黒いうちはあいつに叙勲などさせん!」とまで言わしめたと言います。結果、赤祢は叙勲されることもないまま現在に至っています。
個人的な感想ですが、似たようなことが靖国の合祀でもあったのでは、と考えています。彼のことを維新志士と認めたくない人たちがいて、未だに合祀されていないのでは? ということです。
赤祢のやったこと(藩内・幕府と長州との融和)を認めてしまうと、のちに幕府を倒すことになる長州の、ひいては維新政府のやったことに泥を塗りかねないのです。そして、長州藩内で言えば、当初奇兵隊内部は高杉晋作の挙兵に否定的な立場でした。が、高杉晋作が勝っていくのを目の当たりにして、奇兵隊は高杉に合流したという歴史があります。もしかして、奇兵隊は赤祢の考え方にある程度同調していたのだけれど、高杉の挙兵を前に全てをひっくり返した、だからこそ彼を叙勲したり靖国に合祀することなんてできない、ってことだって考えられますね。
追記
たぶん、これをご覧の方の中には、「単純に、赤祢のやったことが評価されてないだけじゃないの?」というご意見もあろうかと思います。
でも、靖国に合祀されている人の中には、尊王家なんだけど結局本人の業績をまとめてみると佐幕派に利することしかしていない例(清川八郎※)もあるので、赤祢の業績はまるで問題にならないと考えています。
また、「叙勲に足る」という調査結果もまた、彼の業績が靖国に合祀されるだけのものであることを裏打ちしています。
※清川八郎の業績
彼の業績は、のちの新撰組の母体となる浪士組を建策し、実行したことです。
ただ、武力討幕ないしは朝廷に武力を持たせようとしたその目論見が評価され、靖国に合祀されています。




