3、合祀されない人々その1 「内戦での敗北者」
えー、まず、合祀されていないビッグネームを上げておきましょう。
その名も、「西郷隆盛」。
皆様ご存知ですよね。幕末維新における薩摩の大偉人です。戊辰戦争を官軍の事実上の大将として戦い、明治政府の設立に尽力したのち、政府内部の抗争に敗れて下野した人です。が、その後、地元・薩摩の士族たちに担ぎ上げられて西南戦争を起こし、その結果戦場で命を落としてしまいました。
西郷隆盛といえば幕末期の英雄です。でも、彼をしても靖国には合祀されていません。また、彼に付き従って西南戦争を戦った薩摩の士族たちも靖国には合祀されていません。
実は、こうした例は他にもあります。
一番顕著なのは、戊辰戦争における幕府側の死者です。なんと、誰ひとりとして合祀されていません。一応言っておきますが、官軍として戦って死んだ人たちは合祀されています。
どうやら、内戦において朝廷に弓引いた人たちは靖国に合祀されないようなのです。
まあ、それはそれでそういうルールなのだと言われてしまえばそれまでなのですが、中にはそのルールが適用されずに合祀されちゃってる例があります。
長州藩の久坂玄瑞という人です。
この人は元々吉田松陰に学んだ人で、桂小五郎(のちの木戸孝允)や高杉晋作と共に長州藩における尊王攘夷運動を牽引した人物なのですが、禁門の変という戦いの最中に命を落としています。
この禁門の変、簡単に言うと、御所を守る幕府方の兵と、その御所を攻める長州藩との戦いでした。なので、長州藩は賊軍とされ、のちの長州征伐までつながります(これ、覚えておいてください)。
西郷隆盛さんとまったく状況は一緒ですよね。
西郷も久坂も、共に最後は賊軍の責任者として命を落としています。なのに、かたや合祀され、かたや合祀されないということになっているのです。
ちなみに、さらに話がこんがらがってくるのが、幕府方である人々も靖国に合祀されている場合があるということです。この禁門の変で御所を守っていた会津藩(八重の桜で有名ですね)の死者たちは靖国神社に合祀されています。さぞ肩身が狭いことだろうなあ、と勝手な心配をしちゃいますが……(※)。
とにかく。
いわゆる「賊軍」の人々を合祀しない、という方針ならそれはそれでいいのですが、靖国神社に合祀されている人々を見ると、どうもその辺のルール適用があいまいな例があります。この「内戦での敗北者たち」では、そんな実情が垣間見えてきます。
※神道にあっては、人は死後、人格を失い一つの神格へと統合されていくものだという思想があるため、厳密にはこの表記は誤り。実は、この思想がA級戦犯分祀を宗教的な意味で難しくしているという経緯があります。