境界線
「ねぇ、ジュース取ってきて」
毛羽立ったカーペットにごろんと寝転がったマナがソファに寝転がる俺に言う。
「自分で行けよ」
「病人を労わってよ。もうすぐ死んじゃうんだよ、マナ」
俺の答えにマナは口を尖らせ、伝家の宝刀を取り出す。
聞き飽きたんだよ、その言葉は。
俺はその言葉を喉元でぐっと飲み込み、重たい体を起こして冷蔵庫に向かう。
ロクなもんがない。ミネラルウォーターとビール。冷蔵庫の中はそれだけだ。
「水とビールどっちがいい?」
「ジュース」
「ないんだよ」
「買ってきてよ」
ビールを取り出して冷蔵庫のドアを閉める。
戻ってきた俺の手にあるものを見て、マナが眉を寄せた。
「ビール嫌い」
「俺が飲むんだ」
「マナは?」
「知るか」
吐き捨てて、ビールのプルトップを引いた。泡と共に、パシュッという小気味の良い音が乾いた室内に飛び出す。
「ちょうだい」
マナが体を起こし手を伸ばしてくる。そう言うだろうと予想していた俺は、素直にビールの缶を手渡して、またソファに寝転がった。
「ねぇ、マナが死んだらさぁ」
チビチビと缶に口付けながらマナが言う。
マナが死んだらさぁ――それは聞き飽きた言葉のパレードが始まる合図だ。
俺はただ瞳を閉じて、そのパレードが過ぎ去るのを待つ。
「お葬式はしなくていいから、マナたちが出会ったあの海に遺骨をまいてほしいんだ」
知ってるか? お前、毎日、俺に同じこと言ってるんだぜ。
「貴方はマナのことを忘れないように海の傍に住んで、そうしたら、マナは時々波の音や風の音にまぎれて貴方に寄り添うから」
知ってるか? それ、ホントは
「約束だよ?」
俺が言った言葉なんだぜ。
きっとマナは自分と他人の境界線を見失いやすい性質なのだろう。
俺は、もっとはやく気がつくべきだったんだ。
彼女が俺と同じ銘柄の煙草を吸い始めた時。俺の嫌いなトマトを嫌いになった時。髪の色を変えた時。
よくよく思い返してみれば、その兆候は確実にあったのだから―― マナが、自分自身と俺との境界線を完全に見失う前に気がつくべきだった。
そうすれば、こんな事態になる前に別れることも出来たはずだ。
でも、まさか他人の余命まで自分のものにするなんて誰が思う?
半年前、医者から神妙な顔で余命を宣告されたのは俺の方だった。
まるでドラマのような医者の言葉に思わず噴出しそうになった俺の隣で、マナはいきなり膝から崩れ落ちた。
そして、俺よりも先に病院のベッドを使うことになったマナは、目が覚めるとなぜか余命1年の悲劇のヒロインになっていた。
最初はなんの冗談かと思ったが、死を恐れるマナの目は本気だった。
泣いて喚いて部屋をグチャグチャに荒らして、何度も「死ぬのはお前じゃない」と言い聞かせても信じようともしない。
一度は精神科医にでも診てもらおうかとも考えたが、すぐに思いとどまった。
診てもらって、それで正常になったところで、なにが変わるっていうんだ?
俺が死んで、マナは一人になる。
異常でも正常でも、その事実だけは決して変わらない。
現実を捻じ曲げた状態でマナのバランスがとれているのなら、そのままでも構わないような気がした。多分、俺もおかしくなっているのだろう。
「でもさぁ、長くもっても一年ってことは明日死んじゃうかもしれないんだよね。ねぇ、もし明日、マナが死んだらどうする?」
パレードの終わり。俺はゆっくり瞳を開ける。部屋の照明がやけに眩しく感じられた。薬の副作用もあるのかもしれない。
霞む視線を泳がせると、答えを待っているマナの顔が目にうつる。
なぁ、俺が明日死んだらお前どうするんだ?
「ねぇ、ちゃんと聞いてた?」
黙っていると不満そうにマナがソファを叩いた。
「聞いてたよ」
「答えは?」
「……そうだな、面倒くさいけど、船で沖まで出てお前の遺骨をまいたら、ちょっとだけ泣いてやるよ」
「約束だね」
マナが笑う。血色のいい健康的な肌で。
俺も笑った。青白くなった病的な肌で。
なぁ、マナ。死ぬのは俺なんだぜ。バカ。