完璧な隣人
田中誠は新しいマンションの鍵を受け取りながら、不動産屋の営業マンの言葉を思い出していた。
「304号室の隣人の方は、とても静かで礼儀正しい方ですよ。きっと快適に過ごしていただけると思います」
転職を機に引っ越してきたこのマンションは、築十年とは思えないほど手入れが行き届いていた。エレベーターで三階に上がり、自分の部屋である305号室の前に立つ。隣の304号室のドアには、「山田」という表札が丁寧な字で書かれていた。
荷物を運び込んでいると、隣の部屋から夫婦らしい声が聞こえてきた。
「あら、お隣に新しい方がいらしたのね」
「そうですね。ご挨拶に行きましょうか」
程なくして、チャイムが鳴った。田中がドアを開けると、そこには四十代くらいの上品な夫婦が立っていた。
「初めまして、隣に住んでおります山田と申します」
夫の方が丁寧にお辞儀をした。妻も美しい笑顔で会釈する。
「私、田中と申します。こちらこそ、よろしくお願いします」
「何かお困りのことがございましたら、遠慮なくお声をかけてください」
妻の声は穏やかで、まるで音楽のように美しかった。
「ありがとうございます」
山田夫妻は再び丁寧にお辞儀をして、自分たちの部屋に戻っていった。
田中は感心した。最近は隣人との付き合いを避ける人が多い中、なんて礼儀正しい人たちなんだろう。
翌朝、田中は早めに出勤の準備を始めた。まだ慣れない通勤路のことを考えると、余裕を持って家を出たい。
洗面所で歯を磨いていると、壁の向こうから微かな音が聞こえてきた。規則正しい、機械的な音。まるで時計の秒針のような「カチ、カチ、カチ」という音だった。
「朝早くから何の音だろう」
田中は首を傾げたが、隣人に迷惑をかけるほどの音量ではない。むしろ、その規則正しさが妙に心地よかった。
玄関を出ると、山田夫妻がちょうど出かけるところだった。
「おはようございます、田中さん」
二人は声を揃えて挨拶した。夫はダークスーツを着込み、妻は上品なワンピースを着ている。まるで雑誌から抜け出してきたような完璧な装いだった。
「おはようございます」
田中が挨拶を返すと、山田夫妻は再び美しい笑顔を向けて、エレベーターの方へ向かった。その歩き方も、まるで訓練されたかのように美しく、二人の歩幅は完璧に揃っていた。
仕事から帰宅した田中は、コンビニ弁当を温めながら、隣から聞こえてくる音に耳を澄ませた。朝と同じような「カチ、カチ、カチ」という音が、変わらず続いている。
「一日中鳴ってるのかな」
田中は壁に耳を当ててみた。音は確実に隣の部屋から聞こえてきている。しかし、それ以外の生活音は一切聞こえない。テレビの音も、話し声も、足音も。
「静かな人たちだな」
田中は感心しながら、弁当を食べ始めた。しかし、食事をしている間も、あの規則正しい音は続いていた。
夜中に目が覚めた田中は、時計を見た。午前二時。しかし、隣からはまだあの音が聞こえている。
「さすがに夜中は静かにしてほしいな」
そう思いながらも、田中は苦情を言う気にはなれなかった。山田夫妻はとても礼儀正しく、きっと何か事情があるのだろう。
一週間が過ぎた。田中は新しい職場にも慣れ始めていたが、隣人のことが気になり始めていた。
毎朝、全く同じ時間に出かけ、同じ時間に帰宅する。挨拶も完璧で、服装も完璧。そして、24時間止まることのない機械音。
「もしかして、時計の修理でもやってるのかな」
田中は納得しようとしたが、どうしても違和感が拭えなかった。
ある日の夜、田中は隣の部屋の電気がついているのに気づいた。カーテンの隙間から漏れる光が、廊下をほんのり照らしている。
「まだ起きてるのか」
時計を見ると、午前一時。しかし、翌朝見ても、電気はまだついていた。
「一晩中電気をつけっぱなしにしてる?」
田中は首を傾げた。節電が叫ばれている時代に、なぜそんなことをするのだろう。
気になった田中は、管理人の佐藤さんに相談してみることにした。佐藤さんは初老の男性で、このマンションの管理人を長年務めている。
「304号室の山田さんのことですか?」
佐藤さんの顔が曇った。
「はい。とても礼儀正しい方なんですが、少し気になることがあって」
「田中さん、山田さんとお話しされたんですか?」
佐藤さんの声に、妙な緊張が含まれていた。
「ええ、引っ越してきた日にご挨拶をいただいて」
佐藤さんは深いため息をついた。
「田中さん、304号室は三年前から空室なんです」
「え?」
「山田さんご夫妻は、三年前に火事で亡くなられました。その部屋で」
田中の血の気が引いた。
「そんな…でも、私は確かに山田さんとお話しを」
「田中さんが話されたのは、本当に生きている人でしたか?」
佐藤さんの言葉に、田中は言葉を失った。
その夜、田中は隣の部屋をじっと見つめていた。カーテンの隙間から、相変わらず光が漏れている。そして、あの規則正しい機械音も続いている。
「空室のはずなのに、なぜ電気が?」
田中は意を決して、304号室のドアの前に立った。チャイムを押してみる。しかし、返事はない。
「山田さん、いらっしゃいますか?」
沈黙。
田中はドアノブを回してみた。鍵はかかっていない。ドアが静かに開いた。
「お邪魔します」
部屋の中に入ると、田中は息を呑んだ。部屋は完璧に整理されており、まるで誰かが住んでいるかのようだった。しかし、空気は異様に冷たく、どこか死臭のような匂いがした。
リビングに足を踏み入れると、田中は目を疑った。
テーブルを挟んで、二体の人形が向かい合って座っていた。
それは精巧に作られた人形で、まるで生きているかのようだった。男性の人形は黒いスーツを着て、女性の人形は上品なワンピースを着ている。
そして、その顔は…
「山田さん…」
田中が見知っている山田夫妻の顔だった。
人形の目は田中の方を向いており、口元には微かな笑みが浮かんでいる。そして、人形の胸のあたりからは、あの規則正しい機械音が聞こえていた。
「カチ、カチ、カチ」
それは時計の音ではなく、人形の内部から響く機械音だった。
田中は震えながら、人形の後ろを見た。そこには、手紙が置かれていた。
『完璧な隣人になりたかった』
手紙の内容は短かった。
『生前、私たちは騒音で近隣に迷惑をかけていました。
せめて死後は、完璧な隣人になりたい。
いつも同じ時間に出かけ、同じ時間に帰る。
決して騒音は立てない。
いつも礼儀正しく、笑顔で挨拶する。
私たちは、この人形に魂を込めました。
完璧な隣人として、永遠に生き続けるために。』
田中は慌てて部屋から出ようとした。しかし、振り返ると、人形の目がゆっくりと動き、田中を見つめていた。
「カチ、カチ、カチ」
機械音が少しずつ早くなっていく。
「完璧な隣人に…なりたかった…」
人形の口が、わずかに動いた。
田中は必死に部屋から逃げ出した。
翌朝、田中は引っ越しの準備を始めた。こんなマンションにはもう住めない。
荷物をまとめていると、チャイムが鳴った。田中は恐る恐るドアを開けた。
そこには、見覚えのある山田夫妻が立っていた。しかし、その顔は昨夜見た人形と全く同じだった。
「おはようございます、田中さん」
二人は声を揃えて挨拶した。その声は、まるで機械のように無感情だった。
「私たちは、完璧な隣人になりました」
「これからも、ずっと隣人でいましょうね」
田中は声も出せずに、ただ震えていた。
山田夫妻は美しい笑顔のまま、自分たちの部屋に戻っていった。
田中が恐る恐る隣の部屋を覗くと、そこには何もなかった。空の部屋。しかし、床には新しい人形が置かれていた。
それは、田中自身の顔をした人形だった。
人形の胸からは、規則正しい機械音が響いていた。
「カチ、カチ、カチ」
そして、人形の口元には、微かな笑みが浮かんでいた。
田中は鏡を見た。自分の顔も、いつの間にか同じような笑みを浮かべていた。
「完璧な隣人に…なりたかった…」
田中の口が、勝手に動いた。
隣の部屋から、山田夫妻の声が聞こえてきた。
「ようこそ、完璧な隣人の世界へ」
一ヶ月後、新しい住人が305号室に引っ越してきた。
若い会社員の鈴木は、隣人の田中さんという男性に挨拶を受けた。とても礼儀正しく、完璧な笑顔の人だった。
「何かお困りのことがございましたら、遠慮なくお声をかけてください」
田中の声は穏やかで、まるで音楽のように美しかった。
「ありがとうございます」
鈴木は感心した。最近は隣人との付き合いを避ける人が多い中、なんて礼儀正しい人なんだろう。
その夜、鈴木は壁の向こうから聞こえてくる音に気づいた。
「カチ、カチ、カチ」
規則正しい、機械的な音。まるで時計の秒針のような音だった。
「隣の人、時計の修理でもやってるのかな」
鈴木は首を傾げながら、眠りについた。
隣の部屋では、三体の人形がテーブルを囲んで座っていた。
山田夫妻の人形、田中の人形、そして新しく作られた、鈴木の顔をした人形。
三体の人形の胸からは、同じリズムで機械音が響いていた。
「カチ、カチ、カチ」
そして、三体の人形の口元には、完璧な笑みが浮かんでいた。