イングランドから来た女
今日の任務は、タンカーを護衛すること。
ノルウェーの港を出発したタンカーの近くを、ハインツの潜水艇が航行する。
【北海の海神】が護衛しているとなると、近づこうとする輩は、まずいない。
航海は、何事もなく、順調だった。海賊や強盗団などの小型船の襲撃を受けることも、嵐に見舞われることもなかった。
タンカーは悠々と北海を進み、無事にイングランドの港に到着する。
「急な依頼に応えていただいたこと、深い感謝を」
港にて、タンカーの船長は、ハインツに対して直々に感謝を述べた。
「ああ、オレは何時だっていけるぜ。また機会があれば、指名してくれ」
ハインツは、船長と硬い握手を交わした。
「あなたがいるだけで、まるで神のご加護を受けているような安堵が得られる。大きな仕事ができたら、またお願いしようと思う」
「そうしてもらえると、こちらとしても助かる。あばよ」
「ありがとうございました。お気をつけて」
「おう。そっちこそな」
ハインツは、港で、水や食料を追加で積み込み、燃料の補給を行った。ついでに、港でシャワーを浴びさせてもらった。
そして、潜水艇に乗り込み、港を後にした。
♦♢♦
イングランドの港を出発して、北海を東へ航行中。
ブリテン島方面から東風が吹いており、追い風状態。燃料の節約になる。
しかし、少々海が荒れてきた。
「波が高くなってきたな……」
嵐になったら大変なので、早めに、ブレーマーハーフェンの港に到着したいところ。
気温計は、15℃を指し示す。少し寒くなってきた。
ハインツはペダルを踏みこみ、エンジン出力を上げて、潜水艇の航行速度を上げた。
「あ……なんだ、ありゃ?」
潜望鏡で、外の様子を伺っていたハインツ。
彼は、海の上に浮かぶ大きな黒い物体を水平線の近くに見つけた。
「クジラでも浮かんでるのか……?いや、違うな、あれは」
気になったので、その黒い物体の方向へ。
距離が近くなるとともに、その黒い物体のシルエットが浮かび上がってきた。
「潜水艇……チャールズの野郎か」
縦に細長い船体を持ち、そこから縦に伸びる潜望鏡や、エンジン用の排煙塔が見える。
ハインツの知る限り、北海で潜水艇に乗っているのは、自称ハインツのライバルのチャールズのみ。
だが、その潜水艇に近づくにつれて、違和感が大きくなった。
「チャールズの船じゃねぇ。船体が小さいし、艦橋の絵が違うな……あの絵は、ユニオンジャックだな。英国の紳士様が乗ってるのか!?」
チャールズが乗っている潜水艇は、これよりも大きく、そして、艦橋に【赤いリンゴ】の絵が描かれているのだ。
つまり、目の前に浮かんでいる潜水艇は、チャールズのものではない。
ハインツは、自動航行モードに切り替えて、艦橋に上り、浮かんでいる潜水艇に向かって声を張った。
「おーい!!どうしたんだ、こんな海のど真ん中で!!エンジンの故障かーー!?」
すると、ハインツの声が聞こえたのか、潜水艇のハッチが開いた。
そこから顔を覗かせたのは……
「女……!?」
収穫期の小麦のような黄金の色をした短髪、ビー玉をはめたように見える美しい青い瞳、粉雪をまぶしたような白い肌が特徴的だった。
まるで、不思議の国の【アリス】。
おとぎ話の絵本の世界から飛び出してきたような美女だった。
どうして女……しかも、容姿端麗な美女が、潜水艇になんか乗っているのだろうかと、ハインツは驚愕と疑問が頭の中で混濁した。
「そうだ!エンジンがイカれちまったんだ!!」
女は、低い声を張った。
「助けてくれ!もう二日も、ここにいるんだ!腹も減った!」
「今、潜水艇を横付けにする。飛び移ってこっちに来い!」
「分かった!」
金髪の女は、ハインツが潜水艇を動かすのを待たずして、海に飛び込んだ。
ハインツは驚き「おい、バカ!!」と怒鳴る。
女は、見事に泳いで、ハインツの潜水艇の側面の突起に足をかけて、そこからよじ登ってきた。
「今、潜水艇を横付けするって言っただろ!せっかちだな、お前」
そう言いながらも、よじ登ってきた女に手を貸してやったハインツ。
「すまない……感謝する」
女は、全身をびしょびしょに濡らしながら、低い声で感謝を述べた。
「お前、名は?」
「キャメロン」
「どこの輩だ?」
「イングランドの、ノーフォーク」
やはり、イギリスから来たらしい。
「なんで女が一人で潜水艇に乗ってるんだ……?」
「別にいいだろ、女が潜水艇に乗っていても」
キャメロンと名乗った女は若干、むすっとした。
「フランスのダンケルクから出発して、ノルウェーのフィヨルドを見に行こうとしていた。潜水するときに、操作を誤って、エンジンを壊した」
「お前……バカか?」
「私はバカじゃない。潜水艇の操縦が難し過ぎるだけだ」
キャメロンは、自分のミスを認めようとはしなかった。
「何か、食べるものをくれ。腹が減って仕方がない」
それどころか、食べ物を要求してくる始末。
「愚かなお前には、カビが生えたパンをやろう」
「腹は下したくない。まともな食べ物をくれ」
「命を拾ってやったんだから、贅沢言うな。まったく……」
ハインツは、深いため息を吐きながらも、船内へ。
真水タンクの上に置いてあった、ソーセージの缶詰をキャメロンに手渡した。
「ほらよ」
「ありがとう」
「傲慢な女だな」
「私が傲慢なのは、当然。私は、貴族だ」
「は、はぁ!?貴族!?」
ハインツは驚き、目を見開いた。
なぜ、北海のど真ん中に浮かぶ潜水艇に、貴族の女がいるのだろうか?
「私の艦を、ダンケルクの港まで引っ張ってくれ」
「無理に決まってんだろ。お前の潜水艇、オレの艦と同じぐらいの排水量あるだろ。そんなことをしたら、オレの潜水艇のエンジンが焼き切れるわ」
「どうにかならないか?この潜水艇は、私の大切なものなんだ」
「……仕方ねぇな。ドイツの海警に連絡する。えい航してもらおう」
「ドイツの海警……ナチか?私はナチが嫌いだ」
「助けてやったのに文句言うな。海に叩き落すぞ、このクソ女」
「すまない……」
立場を弁えないキャメロンに、ハインツは珍しく言葉遣いを乱した。
せっかく助けてやったのに、自分の食糧の缶詰は食べられるし、文句は言われるし。
ハインツの内側を流れる血は、キャメロンへのちょっとした怒りで沸々と沸き立った。
「チっ……潜水艇のえい航代は、当然だが、お前が払え」
「ああ、分かってる」
キャメロンは頷いた。
「改めて礼を言う。助けてくれて、ありがとう」
「礼は言わなくていい。後で、ちょっとでもいいから金を寄越せ」
「……」
「感謝の言葉は金にならない。だからいらねぇ」
「そんな冷たいこと言うなよ」
「黙れ。オレは、お前のことが嫌いだ。お前の声も聴きたくない」
「わかった……」
キャメロンは、叱られた後の子どものように黙り込んだ。
そして「機関室でおとなしくしてろ」というハインツの指示を受けて、船内へ。
ディーゼルエンジンが「ゴー」と動く中、キャメロンは体を横にした。
一方のハインツは、無線通信機の前に立って、ドイツ本国の海警との連絡を試みた。
しばらくして、ノイズ混じりの声が聞こえてきた。
「あーあー……こちらハインツ」
「あ、はい、ハインツ様。ご苦労様です。こちら、ドイツ海警局です」
対応したのは、聞きなれない声の局員だった。
声から推測するに、まだ若い。
「フリードリヒ中佐に代わってくれ」
「は、はい!少々お待ちを」
通信手は、離席。
しばらくして、ドイツ海警局のフリードリヒ中佐の声が聞こえてきた。
「代わった、こちら、フリードリヒ中佐だ。どうした、ハインツ?」
「潜水艇をえい航できる船を用意してくれ。問題が起きた」
「エンジンの故障か?」
「ああ、その通りなんだが……オレの艦じゃねぇ。偶然出会ったイングランド女の潜水艇だ」
「ほう、お前とチャールズ以外にも潜水艇乗りがいるとは、珍しいことがあるものだな……分かった。すぐに船を出そう。場所は?」
「北緯53度21分28秒、東経3度29分54秒……」
「……了解した。すぐに向かわせる。少し時間がかかると思うが」
通信は終了した。
その後、しばらくしてドイツ海警局の船が到着。
エンジンが故障したキャメロンの潜水艇は、修理のため、ドイツ東部の港【キール】へとえい航された。
「風邪ひくぞ。これ掛けて寝てろ」
ハインツは、床で蹲ったキャメロンに、毛布を差し出した。
「ありがとう」
キャメロンは、表情を一切変えないまま、生ける機械のように感謝を述べた。