ベルリン・オリンピック
ここは、ドイツ北西のノルデン沖。
ハインツと、彼の相棒の潜水艇が浮かんでいた。
気温21℃。波風穏やか。
「のんびり過ごすには最高の天気だぜ、ハハッ」
ハインツは、潜水艇の甲板上に椅子を置いてそこに腰かけ、レコードをかけて日向ぼっこをしていた。
「私は、頭からつま先まで……全身全霊で恋をしているわ♪」
レコードから、女優マレーネ・ディートリッヒの美しい歌声が響く。
そんな歌声に鼓膜を撫でられながら、ハインツは、タバコとコーヒーを嗜んだ。
「……心が落ち着くな」
聞こえてくるのは、レコードの音声と、カモメの鳴く声、それから、穏やかな風と波の音。
潜水艇のローンなどのお金周りの不安、嵐、戦争、政治への憂鬱……あらゆる不安の重りから解放され、心が軽くなったのを、ハインツはひしひしと感じていた。
「タバコもコーヒーも美味い。女の歌声と、どこまでも広く青い北海の海は美しい」
そうやって心と時間を満たしていると、瞼が重たくなってくる。
いよいよ眠りそう……
「……いけねぇ。今日は、4時からパトロールを頼まれてるんだった」
居眠りをして、依頼をすっぽかしてはいけない。
「次は、ラジオでも聴くか」
目覚ましにと、ハインツはラジオを聞こうと思った。
レコードを船内に置いて、次は、ラジオを持ってきた。
真空管ラジオのつまみを回すが……
「あれ……あんまり聞こえねぇな」
海上であるからか、音声に混じるノイズが多い。
「お、整ったな」
方向を変えたり、ラジオの頭を軽く叩いたりすると、音が鮮明に聞こえてくるようになった。
放送の内容は、現在開催されているベルリン・オリンピックに関するものだった。
「はるか遠いギリシアの地から運ばれた聖火が、聖火台に灯される」
ナレーション役が話しているのは、聖火ランナーの話題だった。
ギリシアか……太古のスパルタの兵士たちや、アレクサンドロス大王のマケドニアを育んだイオニア海やエーゲ海は、どんなに綺麗で美しいことか。
いつか、暇と金があれば、この潜水艇でジブラルタル海峡を通過して、地中海から回って行ってみたい!
そういえば、オレの潜水艇の名前は、古代ギリシア神話の神【ポセイドン】の名前から取ったなと、ハインツは思い出した。
彼の潜水艇の艦橋の側面には、ポセイドンの三又の槍が描かれている。
「各国代表団が入場します。英国、イタリア、日本、アメリカ……」
ナレーション役が、そう解説する。
「ほう……日本にアメリカか。海の向こう側から、はるばるご苦労さんだぜ」
ハインツは、酒を飲み交わしたハリウッド女優ワトソンとチャールズの故郷アメリカと、侍の国日本にも、いつか行ってみたいなと思った。
「この大会の主宰である総統閣下を前にして、代表団は敬礼を捧げ、帽子を脱いで敬意を表する。観衆の大歓声が聞こえてきます」
「わぁぁぁぁぁぁ!!」
「ハイル!ハイル!!」
そして、ドイツ代表団が入場したと思しき場面では、観衆の歓声が一段と大きくなった。
何時になく落ち着いた口調の総統閣下が、オリンピック大会の開会を宣言した。
「第11回、ベルリン大会の開会を宣言いたします」
総統が開会を宣言すると上がる、空を割らんとばかりの「万歳」の声。
その観客の声が、ハインツにとっては、どこか狂気的に聞こえていた。
「あのちょび髭のオッサンの何が良いんだか……」
世界大戦後の混乱と、世界恐慌から、祖国ドイツを復興させたのは、間違いない。
ただし、「ヒーロー」や空から舞い降りた「天使」と呼ぶべき存在か否かについては、微妙だ。
「何かある……戦争に負けて、バカみてぇな賠償金を課せられて、軍と領土を削られて、恐慌に飲み込まれて大混乱だった国が、オリンピックを主宰する……?こんなに、物事がうまくいくはずがない。きっと【何か】ある」
ラジオの電源を切った。
いくら考えても、ナチと総統が何を考えて、何を企んで、何を隠しているのかは、ハインツには分からない。
「まあ、考えても無駄か。例の総統閣下が救世主か悪魔か……判断するのは100年後の歴史の教科書がやるべきことだな。オレが考えても仕方がねぇ」
総統のけたたましい演説と民衆の熱狂の大歓声を聞くよりも、カモメの声を聞いていたほうが、よっぽど心の栄養になる。
さて、カモメたちに囲まれながら、空を見上げて昼寝でもしよう……
「ジリリリリリリ……」
そのとき、船内の無線通信機がベルを鳴らした。
「……はぁ、まったく間が悪いな、チクショウが」
恐らく、仕事を投げてくれるフリードリヒ中佐だろう。
船内へのハッチを速足で降りたハインツ。
受話器を取ると、やはり、聴き慣れた中佐の声が聞こえてきた。
「こちらドイツ海警局のフリードリヒ中佐だ。いかがお過ごしかな、ハインツくん?」
「お前のせいでロクに昼寝もできねぇ」
「はは、それはすまなかった」
中佐は笑って、それから、依頼の内容を告げた。
「一週間後、ノルウェーのオスロ近郊の港に行ってくれないか?イングランドの港に向かうタンカーを、ハインツ様に護衛してもらいたいという、お前指名のご依頼なんだが」
「指名は久しぶりだな。もちろん、受けるぜ」
「報酬はいつも通り、後日に、いつもの口座に振り込んでおけばいいな?」
「そうだな」
「わかった。では、よろしく頼む。ハイル・ヒトラー」
「……」
中佐との短いやり取りを終えて、通信を切る。
「万歳、万歳ってうるせぇな……軍と当局の連中は」
【アドルフ・ヒトラー】がドイツで実権を握ってから、やけに聞くようになった挨拶だ。
軍や、中佐のようなドイツ海警局の人々は、みんな、総統を尊敬して、総統に心酔しているのだろうか?
それもまた、不気味な話だ。
無線通信による依頼を受けたハインツは、午後4時の依頼までの時間、潜水艇の上、昼寝に明け暮れた。