子ども好きなハインツおじさん
「かなり狭いが、我慢してくれよな」
潜水艇の上部ハッチを閉めて、ハインツが船内へ。
母は、命の恩人であるハインツへ、深い感謝を述べた。
「助けてくださり、ありがとうございます、……ポセイドンさん」
「ハインツでいい」
「あ、はい!ハインツさん」
ハインツは、操縦席に腰掛けて、右側の壁の操作盤のつまみやレバーをいじる。
「この船、くさーい!」
娘ローズが、鼻をつまんだ。
そんな失礼を言う娘に、母は「そんなことを言うんじゃありません」と、やんわりと叱った。
しかし、かわいいローズちゃんに「臭い」と言われても、ハインツは怒るどころか、むしろ、笑った。
「ハハハッ、これが潜水艇乗りさ。おじさんは、5日間、シャワーを浴びてないぞ」
「わー!ハインツおじさんもくさーい!」
「フハハハ!ローズちゃんは、おじさんみたいに臭くならないように、ちゃんと風呂に入るんだぞ」
「うん。わたし、ちゃんと毎日シャワー浴びてるよ!」
「そうだ、それでいい!」
膝を折って屈んで、ローズちゃんと目線を合わせて話すハインツ。
ローズは、そんなハインツに、父親の面影を見た。
「ハインツおじさん、わたしも運転してみたい」
ローズちゃんは、母の腕を抜け出して、操縦桿の前に走った。
「ちょっと、ダメよ、ローズ!戻りなさい」
「いいんだ、奥さん。この娘の好きなようにやらせよう」
ハインツは、メカニックに溢れた操縦席できゃっきゃとはしゃぐローズを腕に抱いた。
「ハインツ様、だ、大丈夫なんですか……?ほんとに、良いのですか……?」
「この娘は、きっと、恐い思いをしたに違いない。だから、その気持ちを上塗りにできるぐらいの楽しい思い出を作ってやろうと思っただけだ」
ハインツはそう言って、ローズちゃんを抱えたまま、潜水艇の操縦席に座った。
「――子どもの半分は勤勉で、半分は自由であるべきだ」
誘拐されて、怖い思いをしたローズちゃんを楽しませられるようにと、ハインツは、声色を変えた。
彼は、元々声がかなり低いが、喉を絞って、子どもの親しみやすい高めの声を演じた。
「さあ、どうやったら、潜水艇が動くか、分かるか?」
「このレバー?」
ローズちゃんは、左手側の赤いレバーを指さす。
「残念。不正解だ。正解は、おじさんが踏んでる、右の、このペダルだ」
ハインツが右のペダルを踏み込むと、背後にある機械室から「ガコ、ガッコ」という音が聞こえてきた。
その少し後に、船尾のスクリューが動いて「ゴー……」という鈍い音が聞こえてきて、潜水艇が発進した。
「わぁ、動いた」
「ここを覗いてごらん。潜水艇が動いているのがよく分かる」
ハインツは、操縦席の双眼鏡のようなものを叩いた。
潜水艇や潜水艦は、海に潜ることができる船。
しかし、深く深く潜るほど、水圧は高くなる。
大きな水圧に耐えるために、通常、窓はない。
その代わりに、こういった【潜望鏡】と呼ばれる縦に長い筒状のものが備え付けられており、外の景色を覗き見ることができるようになっている。
「なにこれー?」
「これは、【潜望鏡】って言うんだ。簡単に言うと、船の外の景色が見られるのぞき穴だな」
「あ!ほんとだ!海が見えるー!」
ローズちゃんは、潜望鏡から見える広大な海を見て、心底楽しそうだった。
一生乗ることがないはずだった潜水艇に乗って、実際に動いているところを見せてもらうというのは、子どもであるローズにとっては、夢のような時間だった。
「さて、ローズちゃん、普通の船と、この潜水艇、何が違うか分かるか?」
ハインツが問題を投げると、ローズちゃんは即答した。
「知ってるよ。海に潜れるんでしょー?」
「よく知っているな」
「うん。わたしね、一生に一回は、潜水艦に乗ってみたいなーって思ってたの!」
「夢が叶ってよかったな。――さあ、潜るぞ」
「え、できるのー!?」
「お手の物だぜ。潜望鏡をそのまま見てな」
操作盤のレバーやつまみ、バルブの開け閉めをするハインツ。
すると、潜水艇は、ゆっくりと海面下に沈んだ。
この潜水艇には、水を入れるためのタンクが存在する。
船首に二つ、船尾に二つずつある。
このタンクに空気を入れれば浮かび、水を入れれば沈む、という仕組み。
「弁の開閉、確認よし。沈むぞ!」
指さし確認したハインツは、重い操舵桿を前に倒している。
「第一タンク、第二タンク、第三タンク、第四タンク注水中!動力切り替えよし!航行速度よし!油圧よし!」
酸素が必要なディーゼルエンジンを停止させ、海中でも稼働できる蓄電池に動力を切り替える。
手元の計器を確認しながら、潜水艇を海に潜らせた。
「かっこいい!」
終始大興奮なローズちゃん。
そんなローズちゃんを膝の上に座らせたハインツは、彼女と一緒に操舵桿を握った。
「さあ、ハンドルをしっかり握って!じゃないと、岩礁にぶつかるぞ~。左に曲がれ!」
「左、左……んんんん!」
操舵桿を必死に左に傾けようとするローズちゃん。
しかし、まだ10歳の彼女の腕力では、この大きな潜水艇を動かすのは難しかった。
「取り舵いっぱーーーい!!んん……曲がらないよ!」
腕にぐっと力を入れるローズちゃん。
取り舵(進行方向の左)で操舵桿を左へ傾けようとするが、なかなか傾かない。
潜望鏡から見える景色は、ほんのわずかに左に寄った程度の変化であった。
「オレにまかせろ。曲がるには、少々コツがいる。タンクの水の量とか、潜水艇の傾きを調整して……こうする」
ハインツは、右の壁の操作盤のレバーを上げ下げしながら、左手で操舵桿を左へ、ゆっくりと倒した。
「どうだ?ゆっくりだが、曲がっただろ?」
「うん!曲がったよ!……でも、ハインツおじさん」
「なんだい?」
「この【せんぼーきょー】を見なくても大丈夫?岩にぶつかったりしないの?」
「ああ、大丈夫さ。この辺の海は、何回も通ったことがある。海の深さ、波の立ち方、岩礁の配置、全部頭に入ってるぜ」
「すごーい!」
ハインツは「ふふん!」と、自慢げに鼻を鳴らした。
北海は、彼にとって庭のような場所だった。
「岩礁の位置を覚えているなんて……すごいわ。ハインツ様は、記憶力がとても良いのですね」
ローズちゃんの母も、ハインツの記憶力と操縦技術に感心していた。
「オレは、覚えるのは得意なほうだった。ガキのころは、父親にギムナジウム※に通わさせられて、大学を出た後は、ミュンヘンのユダヤ系の銀行で働いてたからな、頭は、それなりさ」
※ギムナジウム:大学への進学を目指す生徒が通う学校。教育水準が高い。
「ええ……!?ハインツ様は、もともとは、金融機関に勤めていらしたのですか!?」
「意外か?」
「ええ……でも、さすがハインツ様だと思います。ハインツ様の豊かな教養と、頭の良さがあってこそ、このような複雑な潜水艇を操縦して、北海の海神と慕われるようになったんですよね」
「ハハッ、ギムナジウムと大学では、いつも、びりっけつだったけどな」
成績は振るわなかったハインツ。
自虐を吐いたハインツに対して、ローズちゃんの母は「そんなことはありませんわ」と、ハインツの頭脳を称えた。
「ハインツおじさん、大変なんだねー。こんなに重い操縦桿を、ずーーーっと握ってるんでしょ?」
ローズちゃんは、潜水艇の操縦が容易ではないことを知った。
「ああ、大変さ。これを何時間もやってると、腕がパンパンになって、すごく痛くなるんだぜ」
「でも、すごい!カッコイイね!わたしも、いつか、ハインツおじさんと一緒に潜水艇でお仕事したい!」
「ハハハッ……いい夢だが、オススメはしない。この仕事は、過酷そのものだ」
順調に航行を続けるハインツから、乾いた笑いが起こった。
本国であったなら、もっとまともな仕事があるだろうと、彼は思った。
「ハインツおじさん……」
「あ?こんどは何だ?」
「おトイレに行きたいかも……」
股を両手でおさえて、モジモジするローズちゃん。
しかし、過酷な環境下の潜水艇は、トイレをするにも、簡単ではない。
「あー……潜水艇のトイレは、操作を間違えると、下水が逆流する、まさに【糞】仕様だ。だから、外でしたほうがいいかもな」
「外って?」
「潜水艇を浮上させる。甲板の上に立って、海に向かってすればいい」
ハインツは、操作盤のレバーを上げ下げ。
タンクから海水が抜けて、潜水艇は、ゆっくりと浮上。
潜水艇は、海面から顔を出した。
「わたしが連れていきます」
母は、ローズちゃんを連れて、上部ハッチのはしごに足をかけた。
「奥さん、この娘が海に落ちないように気を付けてな」
「は、はい。気を付けます」
「今、ハッチを開ける」
ハインツが操作盤のつまみを上げると、赤いランプが点灯。
潜水艇上部のハッチが「ギイイイ……」と鳴きながら、ゆっくりと開いた。
母とローズちゃんは、はしごを上って、船体上部の甲板へ。
「さて、オレもたばこ休憩でもするか」
手元の作業台の海図の上においてあった紙たばこを咥えて、ローズちゃんがトイレを終えるのを待った。
目的地の陸は、まだまだ遠い。