涙に溶け込んだ感情
過去の語りを終えたハインツは、「はぁ」と深いため息をついた。
彼が今日という日に至る経緯を一通り聞いたキャメロンは、思い出したかのようにたばこの吸い殻を灰皿に置いた。
「……」
キャメロンは言葉を発しない。
白い宝石のような半月が、潜水艇の甲板の上の二人を照らし出している。
あまりに静かなので、キャメロンの頬を伝って流れ落ちた涙の雫が「トン」と甲板を打つ音が聞こえた。
「お前、泣いてるのか?」
「え?あっ……」
粉雪をまぶしたようなキャメロンの白い頬に、また一滴、きらりと輝く光が伝った。
彼女は、自分でも気が付かないうちに、涙を流していた。
「……私はお前のことを、感情とか、夢をもたない機械のように思っていたみたいだ。お前にも、過去があって、愛していた父と母がいて、夢というものがあるのだな」
「当たりめぇだろ。オレだって、お前と同じ人間だ。忘れたい過去もあるし、悩むときもある……というか、お前も泣くんだな」
「……感情を隠しきれなくなったんだ。普段は、そんなことないのに」
お互いがお互いのことを、感情の無い機械のように思っていた節があるハインツとキャメロン。
ハインツは、月明りに照らされた水平線を見つめた。
「毎日毎日、不安で仕方がねぇ。潜水艇の建造ローンをあっちこっちに返さなきゃいけない。それに加えて、潜水艇は金食い虫だ。いつエンジンが止まるかわからない……いつ、オレの体にガタが出るかも運次第……嵐に巻き込まれて遭難しないかとか……そういう不安でいっぱいさ」
「不安で、心配で、生きるのがツラくならないのか?」
キャメロンは、止めどなく流れる涙を雑に袖で拭って、ハインツに尋ねた。
「もちろん、ツラいさ」
「私は、生きることがツラくてたまらない」
「じゃあ、そこから海に飛び込めよ。すぐに死ねるぜ」
「……」
ハインツは、夜の闇をたっぷりと含んだ眼下の海を指さす。
闇がうねり、胸の中心に重りを抱えたキャメロンのことを呼んでいる。
「正直に言うと、生きることも、死ぬことも恐い」
キャメロンは、眼下の海から目を逸らした。
けれど、水平線の闇の向こうには何が待っているのか……キャメロンにとって、未来や生きること自体も、不安の種だった。
「そうだな。オレもだよ」
5本目のたばこを吸うハインツが共感を示す。
「私は、どうしたらいいんだろう……」
「知らねぇよ。オレは、お前じゃない。それに、オレはオレの人生で手一杯だ」
そう言いながらも、本心ではキャメロンの不安定な心に寄り添ってやりたいと思うハインツ。腕組みして、30年の生涯で磨かれた人生哲学で、キャメロンに寄り添おうと試みる。
「そうだな……悩めるお前に、いいことを教えてやる。自分の死を考えてみろ。自分の死に様を考えることは、よりよく生きると考えることと同義だ」
「自分の死に様を考える……?」
「オレは、そうだな……夢を叶えるか、夢を追いかけながら死にたいと思う」
「私は……うーん……いつ死んでもいい。どんな死に方をしてもいい。ただ……たった1人でいいから、大切だと思える人に寄り添われて死にたい」
「良い死に様だ。そんな理想の死に向かって、明日を生きようじゃねぇか」
生きることも、死ぬことも楽観的に考える方法論を解いたハインツ。
彼の重厚なる人生経験から語られるアドバイスに寄り添われて、キャメロンは心を少し軽くした。
「理想の死のために生きるということか……かなりネガティブな考えかと思ったが、そんなことなかった。むしろ、優れた考え方だと思う」
「だろ?いつだって死ねるんだから、好きに、自由に、生きられるところまで生きてみればいいんじゃねぇか?」
「お前の言う通りなのかもしれない。いつでも死ねるから、生きる……まったく、その通りだ」
キャメロンは、雲の陰をまとった白い半月を見上げる。
しかし、すぐに夜の闇が溶け込んだ海に視線を落とした。
「でも、心が……私の心が満たされないんだ。潜水艇に乗って、どこまでも広く自由な海をいくら行っても、虚しい気持ちになる」
「新しい何かを初めてみたらどうだ?寂しいんなら、お前の好みの男を探してみろよ。男じゃなくてもいい。友達でもいいから、見つけろよ」
「……」
「お前、寂しいんだろ?さっきから寂しだの、虚しいだの言って、生き死にに真剣になったりしてさ」
「ああ、寂しいさ。私の胸の中心には、形の分からない穴が開いているんだ、それも、子どもの頃から。もしかしたら……そんな私の心の穴を埋めてくれる人を探して、潜水艇乗りになったのかもしれない」
「おう、聞かせてくれよ。なんで、イングランドの貴族出のお嬢様が、潜水艇乗りになったのかを」
「……いや、すまない。今は話したくない」
きっと、彼女なりの忘れたい過去があるのだろうと察したハインツ。これ以上、彼女の過去という話題について踏み込んだり、尋ねたり、詮索したりせず、たばこを吸うことに専念した。
キャメロンは「火」と端的に言って、たばこを口にくわえた。
ハインツは、ライターを差し出す。
たばこの煙を溜息とともに吐き出して、ハインツは続ける。
「寂しいときは、人に出会いを求めるのがいい。お前のことを愛して、お前のことを養って、お前の話に真摯に耳を傾けてくれる、そんなイケメンな男を見つければいい。そいつの妻にでもなれば、幸せなんじゃねぇか?」
「ああ……今、見つけたよ」
「い、今?」
キャメロンは、吸っていたたばこを海に投げ捨てて、隣に座るハインツの黒い瞳をじっと見つめた。
「――私が愛したいと思っていて、私が愛されたいと思う人間は、お前だ、ハインツ」
「はぁ?てめぇ……寝ぼけたこと言ってんじゃねぇぞ。こんな、臭くて醜いオッサンのどこが良いってんだ?」
「お前は、私の話を真摯に聞いてくれる。お前は、私のことを愛してくれる。お前は、私のことを助けてくれた。私は、お前の顔が好きだ、誰にでも優しくて寛大なお前の心が好きだ、お前の無骨で終わらない力強さと思慮深さが好きだ、海の神の名を冠したお前の艦が好きだ」
「……お、オレは、お前のことなんか愛しちゃいねぇよ。お前のことも、好きじゃない」
――この女、本気だ。本気の瞳をしてやがる。
ハインツの頬がカッと熱くなって、朱に染まる。
それを隠すために、ハインツは横を向いた。
しかし、キャメロンは椅子から立ち上がり、顔を逸らしたハインツの正面に立った。
「恥じるな、それを隠すな、こっちを見ろ。……私の目を見ろ」
「んだよ……」
ハインツの頬に両手を添えて、彼を振り向かせたキャメロン。
「お前は、私のことが嫌いなのかもしれない、――だが事実、私は、お前のことを愛している」
「世の中には、もっといい男が山ほどいるだろうがよ……よりにもよって、こんなオッサンに恋しやがって……もったいねぇ」
「お前は、私のものだ」
「そうかよ……」
ハインツは、うんともすんとも言わずに、灰皿に吸い殻を置く。
キャメロンは、ようやくハインツの頬から手を離した。
灰皿には、二人が吸ったたばこの吸い殻がたくさん転がっていた。
「……もう寝ろ。お前と話していると、気分がめちゃくちゃにされる」
「わかった」
「エンジンとタンクの点検、水抜き、それから……掃除と、冷蔵庫の整理だけやっておいてくれ」
「ああ、おやすみ、ハインツ。良い夜を」
キャメロンは、短い返事をして、船内に戻った。
「……なんなんだ、あの女は」
また新しい銘柄のタバコをふかして、ハインツは星空を見上げた。