北海で見た悪夢
二人の子どもたちを救出して、無事に陸地へと送り届けたハインツとキャメロン。その日の晩のことである。
真夜中の北海、周囲に遮るもの無し。空気は冷涼で澄んでおり、聞こえるのは穏やかな波が打ち寄せる音と、潜水艇のエンジンのわずかな音だけ。昼間の強い風と高い波は幻だったかのようだ。
ハインツとキャメロンの二人が乗る潜水艇は、満点の星空に四方を包まれて浮かんでいた。
「きれいだな……」
星空を見上げるキャメロンは、たばこを咥えた。
「そうだな。この殺伐とした海の世界で唯一、オレの安らげる時間だ」
共感を示したハインツは、たばこをふかせながら、彼女にライターの火を差し向けた。
「天は神の栄光を物語り、大空は御手の業を示す――星空を見上げていると、神に見守られている気がして、心が落ち着く。だから、私は子どものころから、星空を見上げるのが大好きだった」
「聖書の言葉か。神様ってのは、洒落たことを言うな」
キャメロンは、聖書の言葉を引用して星空の美しさを褒めて称えた。
「父上と母上、そして私自身も、イングランド国教会の信徒だから、自然に魅せられた時に、聖書の言葉を思い出すんだ」
ずいぶん熱心に聖書を読み込んでいるんだなと、ハインツは思った。
「神学……宗教、か……オレはあまり興味を持てなかった分野だな」
「お前の両親は、何か宗教を信仰していたりしないのか?」
「オレの母がキリスト教プロテスタント派の信徒だった。毎週日曜に教会に連れて行ってもらっていたし、聖書を何度も読んだことあるが……まあ結果、オレには合わなかった」
母の教えもあったし、母に教会に連れて行かれたから、本気で信仰を深めようと思ったことがある。
しかし、神と疎遠になってしまう世界的不幸と、とある偉大な哲学者の言葉に彼は出会ってしまったのだ。
――神は死んだ。
世界恐慌に直面して、勤めていた銀行が破綻した過去を抱えるハインツは、あるとき、哲学者ニーチェのそんな言葉に出会ってしまって、神と距離を置くに至る。
神は、神の国に存在するかもしれない。
しかし事実、功利主義と資本主義の鬱屈たる毒が蔓延したこの現代の社会において【神は死んだ】のだと、ハインツは気が付いたのだ。
「なあ、ハインツ」
「あ?」
「神は……あの空の向こうにいると思うか?」
「……」
ハインツは、すぐに答えが出せなかった。
神の存在を完全に否定する証拠というものはない。その事実に気が付いて、こんなちんけなオジサンが、尊き神の存在について考えても無駄なんだと、ハインツは思ったのだ。
「わからねぇ。……天のはるか向こう、神の国にいる尊い神のことが、オレみたいな地よりも下の海を這う薄汚くて醜い潜水艇乗りのオッサンに、分かるわけがない」
「そんなことはない、お前は、自分を卑下しすぎだ。お前は、数多くの人を助けた、立派な潜水艇乗りだ」
キャメロンは、コーヒーを飲み干した。
そして、隣に座るハインツの黒い瞳を見つめ、改めて訊いた。
「どうして、お前は、そんなに優しい人間なんだ?特に、子どもに対して……あの子どもたちを助けるのに必死だったんだ?」
それは、今日の昼間の出来事……男の子と女の子のきょうだい二人を救出した任務だ。
ハインツは、自らの身を顧みることなく、子どもたちを救うべく、荒れ狂う北海の冷たい海に飛び込んだ。
もちろん、彼が人命を救おうとする気持ちが大きいのは周知の事実。そのうえで、どうして、躊躇いの一切なく、曇りなき眼で命を懸けることができるのだろうかと、キャメロンは疑問だった。
子どもたちの命を救うためとはいえ、一瞬の躊躇いはありそうなものだが、あのときのハインツには、その一瞬の躊躇いというものすら無かったのだ。そこが、キャメロンの疑問だった。
「お前は、自分の命すら顧みず、海に飛び込んで、男の子と女の子を助けた。どうやったら、そこまで他者に対して優しく、必死になれるのだ?」
「どうして、か……」
「何が、お前をそこまで駆り立てたんだ?」
ハインツのどんな過去が、彼をそんな寛容で優しい人間に仕立て上げたのだろうか。
キャメロンは知らないが、彼は、人さらいたちから母子を救出した際、ローズちゃんという子どもに、潜水艇の操縦をさせてやったという事実もある。
さらに、キャメロン自身、エンジンの故障によって大海原のど真ん中で動けなくなっていたところを、ハインツに助けられた。
――彼は、誰に対しても優しすぎる。
「……苦い過去がある。それのせいなのかもしれない」
コーヒーをまた一口飲んで、ハインツはたばこを咥えた。
「聞いてもいいか?」
「……」
ハインツは、いったんの間を置いた。
そして、たばこの灰を灰皿に落として、開口する。
「オレが潜水艇乗りになって一年が経ったときの日のこと……あれは、夏の入りの頃だったはずだ」
ハインツは、これまで誰にも語らなかった、潜水艇乗りになってから最も苦い経験を語り出した。
彼と、キャメロンが手にするたばこの白い煙が、星々に満ちる夜空に吸い込まれてゆく。
「その日の北海は、嵐が来てやがった。オレは、なんとか港へ帰ろうとしていた」
キャメロンの脳裏には、今日の昼間の光景が蘇った。
荒れ狂う海、粗末な木造船に男の子と女の子。男の子のほうが、自分に向かって「お姉さん、助けて!!」とヘルプを叫ぶ……そんな光景。
「そのとき、ふと、潜望鏡を覗いて海を見た。すると、船と呼ぶにはお粗末な木の筏に乗ったガキがいたんだ。男の子だ。今朝、オレたちが助けた男の子と同い年ぐらいだったと思う。ぐったりしていて、意識が朦朧としている」
「その男の子を、助けたのか?」
「……正確に言うと、助けようとした。が、助けられなかった」
ハインツは、たばこを吸い終えて、吸い殻を灰皿の上に置いた。
「オレは潜水艇から海に飛び降りて、筏から落ちたガキを助けに向かった。まさに、今日の昼間のオレのように。塩辛い海の水をガバガバ飲みながら、オレはガキを何とか、潜水艇に乗せてやった」
キャメロンはたばこを吸うのを忘れて、ハインツの話に聞き入ってしまった。
「そのガキの意識は無かった。起きろ、死ぬなと言っても、ピクリとも動かなかった。ガキの胸に手を当ててみると、心臓と肺が動いていないことに気が付いた。これはやべぇと思った。今でも覚えている、あれは、オレにとっての悪夢だ」
俯くハインツ。
語る彼の黒髪と、耳を傾けるキャメロンの金色の髪を海の潮風が撫でた。
「潜水艇を全速力で走らせて、一番近いオランダの港に急いだ。エンジンが焼き切れるギリギリで、だ。だが……」
「だが?」
「――ガキは、港に運んだ時点で、死んでいた」
「……そうか。せっかく見つけて運んでやったのに、気の毒だな」
「今振り返ると、ガキが目の前で死ぬ光景を二度と見たくないから、オレは今日、海に飛び込んでまで、あのガキのきょうだいを助けたのかもしれねぇな……仕事だからじゃねぇ、あれは、オレが悪夢を再び見たくなかったから、躊躇いなく海に飛び込んだんだ」
ハインツは、今日の昼間の救出劇の際の自分の精神を、そのように分析した。
「お前……その、優しいんだな」
若干言葉を詰まらせながらも、端的に彼の行為を称賛したキャメロン。
晴天の空を模したような彼女の青い瞳は、ハインツが話している間、ずっと彼の瞳にくぎ付けにされていた。
「あ?違ぇよ。さっきも言ったが、オレが、ガキが死ぬのを見たくないっていう、自分のエゴのために動いたまでだ」
「お前を突き動かしたのは、確かに、自分のエゴかもしれない。だが、お前の行動が、二人の命を救い上げたのは事実だ。それは、正当に賞賛されるべき事実だ。お前は、優しくて、心が広い男だ」
キャメロンからの称賛に、素っ気ない態度を示したハインツ。
しかし、彼の口角はわずかに上がり、頬も先ほどより朱を帯びている。
彼なりの、不器用な照れ隠しだったのだとキャメロンは勘づいた。
「潜水艇のエンジンの故障で動けなくなっていた、こんな私のことも助けてくれたこと、忘れていないぞ」
「……ちっ、ガキは寝る時間だぞ」
「私はガキじゃないから、まだ寝ない」
キャメロンは、たばこの吸い殻を灰皿に置いた。
二人で再び星空を見上げる。
「ハインツ、お前の昔話を聞かせてくれないか?気になって、寝れたもんじゃない」
「あ?昔話?」
「お前の過去を、もっと知りたい。お前が、どんな道を歩んできたのか、知的好奇心をそそられた」
「……はあ、しょうがねぇな。お前が聞きたいって言うなら、暇つぶしがてら話してやる。その代わり、コーヒーをもう一杯、淹れてこい」
「わかった」
キャメロンは、潜水艇の内部に戻り、エンジンの排熱でコーヒーを温める。
そして、温まったコーヒーを持って、椅子が置かれた潜水艇の甲板へと戻った。
「はいよ」
「ああ、助かるぜ」
「砂糖はどのくらい?」
「オレはお前みたいに甘党じゃない。一つで十分だ」
キャメロンは、椅子に腰かけるハインツにコーヒーが入ったマグカップと砂糖が入った小袋を手渡した。
なぜ、潜水艇乗りになったのか。
なぜ、ハインツという人間は生まれ、優しく心の広い男として形作られたのか。
なぜ、この広い北海に一人で居ようと思ったのか。
そのすべてを語り出した。
「オレは、すべてを失ったんだ。祖国も、勤め先も、金も、神も、父も……」
マグカップに注がれた温かいコーヒーの良い香りと、鼻を突くたばこの煙のにおいが漂ってきた。