2 契約の真実
契約書にサインをしたその日から、藤井結菜の胸の中に何とも言えない違和感が広がり始めた。クラスメイトの名前がなぜかうまく思い出せない瞬間があったり、教室の中の空気がいつもより張り詰めているように感じたり。だが、それは最初の一週間ほどで、すぐに日常の中に埋もれていくような些細な感覚に過ぎなかった。
しかし、ある日の昼休み、結菜は教室の隅で不自然に空いている席に気づいた。その席の持ち主が誰だったのかが思い出せない。そして、自分が何を思い出そうとしているのかすら曖昧だった。その時、隣の席の浅見修が小声でつぶやいた。
「……気づいてる?」
「何のこと?」
結菜はぎこちなく笑いながら問い返したが、修の表情は真剣そのものだった。
「このクラス、何かおかしい。あそこの席、昨日までは誰かが座ってたはずだよな?」
修の言葉を聞いた瞬間、結菜の胸にかすかな恐怖が芽生えた。確かにその席には誰かが座っていた気がする。けれども、その「誰か」が誰なのかどうしても思い出せない。それどころか、昨日まで当たり前に存在していた気配すら、霧のように消え失せている。
「それ、たまたまじゃないの?」
結菜は自分の疑念を否定するように笑った。しかし修は真剣な目つきのまま、そっとポケットから何かを取り出した。それはスマートフォンで、画面にはクラスメイト全員で撮った写真が表示されていた。
「見てみろよ。最初にこの写真を撮った時、ここにもう一人写ってた。今朝見たら、なぜかその人が消えてたんだ。」
写真の中には明らかに不自然な空間が映っていた。二人分の間隔がぽっかりと空いていて、本来ならそこに誰かが立っていたはずだ。だが、その「誰か」の存在は完全に消されていた。結菜の背筋に冷たいものが走る。
「まさか……」
結菜は森山先生の契約書を思い出した。
「ルールを破ったら適切な処置が施される……あれって、まさか本当に?」
修は小さくうなずき、周囲に誰もいないことを確認してからさらに続けた。
「森山先生の過去を調べたんだ。どうやら昔、彼女が担任していたクラスでひどいいじめがあったらしい。そのせいで、ある生徒が……命を絶ったって。」
「……そんな。」
結菜は息を呑んだ。
「だから、あの契約書を作ったんじゃないか?生徒たちを制御するために。でも、それだけじゃない気がする。ルールを破るとどうなるのか……僕らの記憶が書き換えられてるんじゃないかと思うんだ。」
結菜は言葉を失った。修の言葉は荒唐無稽に聞こえる一方で、今の状況に妙に合致しているようにも思えた。その時、教室の前方から森山先生の冷ややかな視線が二人に向けられる。彼女がすべてを見透かしているかのように。
「どうすればいいの?」
結菜が震える声で尋ねると、修は少しの間考え込み、それから低い声で言った。
「僕らで証拠を掴むしかない。このクラスが本当に何を失っているのかを。」
結菜は修の目を見つめ、こくりと小さくうなずいた。ルールを破った者が消えるという恐怖。それが事実なら、次に消えるのは自分たちかもしれない。それでも、結菜の中には、答えを見つけたいという強い意志が芽生え始めていた。