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〔非在〕は、その存在を知る少数の誰もが予期せぬうちに、人体に巣喰う癌のように、時空に広がっていった。幸いだったのは、その占有域が非常に小さかったことだ。だが、それは同時に〔非在〕点在の発見を遅らせる結果ともなった。
調査隊が向かったのは、ノルウェー、オスロから北に十数キロ、フィヨルドの先の海底、百メートルの位置に発見された〔非在〕だった。
「レアル02よりイグザ34に報告」
調査隊長のラルフ・ノイマンがいった。
「そちらのレーダでは、われわれの位置は確認できるか? 〔非在〕領域内に突入してから、こちらの計器はすべて無意味な値を示している。どうぞ?」
『イグザ34より報告。ちょうど二メートルの位置を示している。深度はない。どうぞ?』
「レアル02了解。二メートルだって? まだ? こちらは、すでに数分は移動している気がするが…… 距離にして五〇〇メートルは越えているだろう。経過時間はどうなっている? 教えてくれ、どうぞ」
『イグザ34より返信。経過時間はだいたい七分三十秒だ。そちらとの時間の狂いはないらしい。〔非在〕は内部空間通信には支障を与えないようだな。せめてもの指針というわけだ。モニタ自体にノイズはない。まだ鮮明に映っている。どうぞ?』
「レアル02了解。では、もう少し進んでみる。ライトの光は見えるんだ。もちろん、その先は闇だが…… 足場はしっかりしてるんだがなぁ。……まったく、わけがわからんよ。どうぞ?」
『イグザ34了解。気をつけて進んでくれ。……なあに、これが最初の調査だ。わからんことがあったって不思議はないさ。おれたちが見守ってるから大丈夫だ。……いざというときは、量子クレーンでこっちに引揚げる。迅速野郎どもが腕を鳴らして、大勢控えているよ。どうぞ?』
「レアル02了解。なるほど、頼もしい限りだ。……では、前進する。以上」
ラルフ・ノイマンは新たな一歩を踏み出した。足は着く。地面かどうかは不明だが、固い感触が気持ちを落ち着かせた。だが、不思議だ。ここはいったい何処なのだろう? 単に光の届かない洞窟の中という気さえしてくる。あるいは文字通り海中か? ならば、そこには生命がいるだろう。生きることを至上の目的とした遺伝子被支配物が…… しかし、ここは〔非在〕だ。ここという言い方さえ通用しないかもしれない場所。いや、場所でさえないかもしれない何処かだ。仮にそこに生命が棲むとしたら、いったいその至上目的は何なのだろう?
『隊長?』
ラルフ・ノイマンが物想いの淵に嵌りかけたとき、隊員のひとりから問いかけがあった。
「ん、どうした、ハーシェル?」
『少し考えたことがあるんですが、口にしてもよろしいですか?』
やんわりした口調だったが、ノイマン同様、内面に不安を孕んでいるようにも感じられた。
「オーケイ。口にしていいよ」
ノイマンが答えた。
「ただし、他の隊員たちの緊張を解かない程度に、手短にだ。前進は続けるからな」
『了解』
スチュアート・ハーシェルが答えた。
『実は、わたしたちをここに跳躍させた質量転移について疑問がわいたんです。……隊長もご存知のように、わたしは主にヒッグス場の検証に携わる実験物理学者で、もちろん今回の探査プロジェクトにもアイデアを提供しています。しかし、ここにきて、うーん、どういったらいいんでしょう、考え違いがあったのではないかと思えてきたのです』
「というと?」
『ええ、これはプロジェクトの初期にも議論された質量転移の観測依存性についてなんですが、あの式に出てきたオブザーバブル、つまり可観測量の導出は、間違った仮定の上に求められたのではないかと?』
「具体的には?」
『わたしたちをいま包んでいる、この抗非在フィールドですが、これと非在場を包含させて成立する波動関数の解は、単純解のプラス、マイナスの二種類ではなく、それにプラスかつマイナスおよび非プラスかつ非マイナスといった別の二つも含まれるのではないかと思えてきたわけです』
「すると?」
『つまり、……わたしたちがすでにこの〔非在〕自体に包摂されている可能性が否定できなくなるということですよ』