04:うってつけ
(ひどい顔……)
翌朝、洗面台の鏡に映った自分を見て、かえでは強い疲労感を覚えた。目は暗く落ちくぼみ、目元にはくまがくっきりと張り付いている。肌は青白いほどで、指で触れても荒れているのがわかった。
起床時……いつの間に寝たのか、意識を失っていたのか分からない時間から目が覚めた時、すでに母の姿はなかった。その代わりか、リビングのテーブルには、コンビニのサンドイッチと書き置きのメモが置かれていた。
しかしかえではメモを開くこともなく、力任せに……苛立ちに任せるがまま、握りつぶし、ゴミ箱へと投げ入れる。
時計は朝の六時を指していた。母はいつも通り仕事に行った、それだけだ。
「……『縁切り地蔵』……」
もう一度、自分の唇でつぶやいてみる。しかし、そこに何も感じるものはなかった。
「確か……山本さん、だったかな」
昨日の昼休み。教室を一気に凍りつかせた『縁切り地蔵』という言葉をつぶやいたクラスメイトの名を思い出す。彼女とは特に親しくはない。単なるクラスメイトというだけで、挨拶以上の会話をしたこともない。下の名前すら知らないし、興味もない。だが。
「聞いてみる……か」
かえではスマートフォンを立ち上げ、画面をタップしていった。
「ごめんなさい。日直の手伝いをお願いしちゃって」
実習棟から、一時間目の授業に使う資料などを運ぶのは、その日の日直の仕事だった。
「い、いいよ別に。時間ならあるし」
かえでは資料を抱えながら、同じく資料を抱えて隣を歩くクラスメイト、山本彰へと声を掛ける。返ってきた山本の声はどこかよそよそしく、そして不安の色を帯びていた。
「そ、その……私こそごめんね。昨日変なこと……」
山本はかえでに目を合わせようとしない。いや、できない。
(……やっぱり、引け目を感じている)
それもそうだろう。なぜあそこまで教室の場を凍りつかせたかは分からないが、少なくともすぐに謝った山本は、その理由と意味を知っている。そして、普段は見向きもしないクラスの掲示板などに昨日の放課後から、彼女の書き込みが行われていないことを、かえではスマートフォンから確認済みであった。
「気にしないで。私も気にしてないっていうか……」
確認ついでに、本来今日の日直だった男子生徒にメッセージを送り、仕事を変わってもらう。変に思われるかと考えたが、実習棟に寄るついでに、と適当な言葉をつければ、怪しまれることなく二つ返事で了承をもらえた。ただでさえ、日直の朝の荷物運びは、誰からも嫌がられている仕事であった。
あとは。朝の教室で彼女が落ち着きなく自分の席にいることを確認できれば、問題はなかった。
今、山本彰はクラスから微妙な距離感を置かれ、浮いている状態にあった。昨日の昼休みの『変なこと』で……。
「そもそも、何で『変なこと』なの? ただの……「怪談」の話じゃないの」
ガシャン、と派手に音を立て、山本が持っていた資料集が廊下に落ちた。
「や、山本さん? 大丈夫……?」
我ながら白々しい。心のどこかで、冷めた自分が失笑していた。
バラけて落ちた資料集を整えるが、立ち尽くしたままの山本は、それを拾う様子も見せず、ただ「どうしよう……」と、涙目になって途方に暮れていた。
(……この様子……単なるオカルトってレベルじゃないんだ)
ならば……「うってつけ」だ。廊下の窓ガラスに映る自分だけが、一瞬赤く見えた。
「もし、山本さんさえ良ければ、その話を聞かせてほしいんだけど……だめ?」
山本はビクリと肩を震わせた。
「なんだか……一人で抱え込んでる。辛そうなの、見てわかるよ」
山本のそばに立ち、震えている肩にそっと手を添えた。
「で、でも……聞いちゃったら、小森さん……が」
怯えている目で、そしてすがるような目で、山本は震えていた。……あと、一押し。
「山本さん、一人で悩まないで。ひとまず落ち着こう? 私も知りたいの……あなたを苦しめてるのが、何なのか」
さほど身長の変わらない少女の頭を、抱えるように腕を回す。やがて山本は、決壊したダムの水のように、かえでの胸の中で「怖い、怖いよぉ」と泣きわめいた。
空は朝にもかかわらず、暗く、雨雲で淀んでいる。廊下は灰色の光を窓から受けていた。
「大丈夫……聞くだけなら、私にもできるから」
くすむ光の中を、赤い煌めきが僅かに駆け抜けた。