02:オカルト研
結局授業に集中しようにも、こうして放課後を迎えても、気持ちの悪さは一向に消えなかった。それどころか、ヘドロのようなものが胃の中でじわじわと広がり、腹部を引っ張るかのように重たくさせていた。
「実習棟の四階……」
教室を出たあたりの記憶がおぼろげだった。みぞおちのあたりを抑えながら、フラフラとした足取りで歩いていた。
実習棟はほぼ倉庫になっている。各授業や部活動などの準備室が連なっており、普段はあまり人の出入りはない。そのためか、音といえば廊下のリノリウムを擦る、かえでの靴音だけであった。
「……奥。ここ……?」
隣は美術室の準備室で、窓からは彫刻のモデルになるであろう銅像が姿を見せている。頭部だけのタイプだ。それがずらりと並んでいる光景は、肌寒さを覚えさせるものだった。かえではゴクリと喉を鳴らし、落ち着けと深呼吸する。別に美術準備室に入るわけではない。
「えっと……」
ドアには手書きで「オカルト研究部」と書かれた紙が貼ってある。だが、静かすぎる廊下からは、中に人の気配を感じることはできなかった。
留守かもしれない。いやそもそも。かえでは入学して二年になるが、オカルト研なる同好会があったことを今日まで知らなかった。そんな部活とも言えない、それも怪しげな「オカルト」などというものを看板にしている集まりが、規則正しく動いているとは思えなかった。
「はぁ……からかわれただけか」
言葉を口にして、口の端を釣り上げてみる。だが、ここを勧めた女子生徒の顔は真剣な、ちゃんとした「気遣い」を感じさせるものだった。それを嘘、と勝手に解釈することに、濁った罪悪感を覚えた。
「お客さんかな? 顔色が良くないけど……困りごと?」
涼やかな声が廊下を吹き抜ける。慌てて顔を上げると、廊下には一人の女子生徒が立っていた。
ロングヘアーを無造作に後ろでくくり、制服の上にずいぶんと傷んでいるミリタリーコートを羽織った少女がいた。校章の色で、三年生だとわかる。
「ふむ……何か良くないものに触れたか当てられたか、かな」
その少女は爽やかな笑顔のまま、固まってしまったかえでの顔を覗き込む。
「まあせっかく来たんなら、お茶でもどう? 「効き目」ならバッチリだよ」
ニコリと笑うと、少女はかえでの返事もまたずドアを開け、腕を引っ張り強引に部屋へと連れ込んだ。
(あ、あれ?)
ドアの敷居をまたいだ瞬間だった。今まで感じていた苦しさが、ふわりと軽くなった気がした。
「ささ、座って」
部室、扱いでいいのだろうか。普通の教室より若干広い準備室の中央には畳が敷かれており、その中央にちゃぶ台が置かれている。湯呑みが2つ並んでいた。少女は部屋の隅のロッカーから座布団を取り出し、いそいそと「お出迎え」の準備をしていく。
「お、お邪魔しま……」
いつまでも突っ立っているのも気まずくなり、仕方なく畳に上がろうと上履きを脱ぎかけた時、息が喉の奥でつっかえた。
天井。そこには、人間など簡単に包み込めるほどの大きさを持った「お札」が貼られていた。いや、天井だけではない。よく見ると壁や先ほどのロッカー、そしてドアにも、いたるところに同じデザインの「お札」が貼られている。
お札には大きな目玉のようなデザインの模様があり、なんと読むのかわからない、墨で綴られた文字が、その目玉模様に吸い寄せられるかのような配置で綴られている。
「ああ、それ? セキュリティ装置みたいなものだよ。最近物騒だからね」
変わることなく涼しい顔で言う少女は、ちゃぶ台につき急須でお茶を入れていた。
「現に一つ。役に立った」
少女がかえでの背後を目で促す。反射的に振り返ったかえでの鼻先には、焦げ臭いものが引っかかった。
ドアにも同じお札が貼られていた。だが、そのお札はじわじわと茶色く変色していき、細切れに崩れ落ちていく。
「え……え?」
「たちの悪い邪気が張り付いていたんだね。いくらばかりか気分は楽になったと思う」
「じゃ、き……ですか」
その「じゃき」たるものが何なのかよくわからず、オウム返しに言う。だが、かえでは笑う事もできなければ、混乱もできなかった。確かに彼女の言う通り、体は少し楽になっていたのだ。
「ささ。このお茶で殺菌。昆布茶にしてみたよ。昆布茶飲める?」
湯気のたつ湯呑みが出される。かえでは一瞬ためらったが、毒を喰らわば皿までと、覚悟を決めてちゃぶ台の前に座り、湯呑みに口をつけた。
(あ……美味しい……)
昆布茶は程よいしょっぱさと甘みを舌の上に広げ、温かな温度を体中に染み込ませていく。その温かさがじわりと胃にも入っていき、張り付いていた気持ち悪さは瞬時に消滅していった。
「あ、あの……これは」
「お清めの塩ってやつを入れたお茶さ。塩はそのまま使うと苦いから、オブラート代わりにお茶にしたの」
昆布茶なのは私の好みだけど、と付け足し、本人も湯呑みをすする。かすかに漂ってくる香りは、同じ昆布茶のものだった。
「その……先輩、は、霊媒師とかなんですか?」
「そんな立派なものじゃないよ。聞きかじった知識さ。って、初対面なのに自己紹介もまだだったね」
そう言うと少女は居住まいを直し、古いコートの襟を正す。
「私は柊切子。この『オカルト研』の部長だよ」
春の穏やかさを思わせる、優しい声だった。それに思わず頭を下げて、かえでは小さな声で自分の名前を告げた。
「小森かえでちゃん、ね。で、なにかあったの? そこそこのものだったけど」
湯呑みを起き、まっすぐにこちらを見る。混じり気のない爽やかな瞳だったが、微笑みであったが、先ほどまでとは何かが違う。その視線に射抜かれ、かえでは我知らずとうつむいてしまった。
「じ、実は……教室で」
何か後ろ暗いものを覚えつつ、昼休みにあったことを簡潔に話した。
かえでから話を聞いた切子は「なるほど」と一つ頷く。
「序列四位は伊達じゃないなぁ……名前を聞いただけでその威力とは」
「じょれつ……? あ、あの。何なんですか、その『縁切り……』」
ひたり、とかえでの唇に、切子の指先が触れた。
「言葉にしないで。それだけで「力」を発揮するものだってあるんだ。『言霊』って聞いたことある? 言葉には「力」が宿る時があるんだよ」
かえではよくわからないまま、しかしこちらを覗き込む切子の目に、ただ無言で頷いた。
「君に起こったことを簡単に説明すると、いわゆる「怪談」の悪い影響を受けたんだよ。ただその「内容」があまりに強いものだから、名前を聞いただけで影響がでちゃったんだ」
「怪談って……私、霊感とかそういうの、全く無縁で……」
「え?」
理屈はわかりつつも、戸惑いは消えない。つぶやくように言ったかえでの言葉に、切子は間の抜けた声を上げる。
「ないの?」
「……ありませんけど」
生まれてから、特に変わった人生を送っているわけではない。霊感などフィクションの範囲であるし、ホラー関連のエンタメには疎い。幽霊などといった怪異には、無縁の生き方をしてきたのだ。
だが。
「……。それにしては、ずいぶん……『食い込んでた』けどね……」
かえでを見る切子は指を顎に当て、黙り込んでしまった。食い込んでいた、とはどういうことだろうか。
「……かえでちゃん」
不意に名前で呼ばれ、反射的に背筋を正す。
「かえでちゃんは今……何か悩みとか、ない?」
かえでを射抜く目は真っ直ぐだ。それに、
「……特に、ありません」
またしても、濁った罪悪感を覚え、切子から視線をそらしてしまった。
「じゃあ悩み……んー、切り口を変えるか」
切子は一口、湯呑みで唇を湿らすと、
「今……誰かを強く好きでいたり、嫌っていたりしない?」
挙動すべてが観測されるような目に、かえでは押し黙ってしまった。
「うーん、じゃあたまたまかな?」
数秒の沈黙のあと、あっけらかんとした切子の声が固い空気を砕いた。
「ごめんね、変に聞いたりして。君はもう大丈夫だよ。ただ危なそうな場所には近づかないでね。今日はたくさんご飯食べて、ぐっすり寝てね」
「は、はい……」
釈然としないまま、かえでは頷き、ついもう一口昆布茶をすすって飲み込んだ。不思議と、塩っけが先程より増しているように感じ、舌が少ししびれた。