序幕
現代社会に絶望して何もかも諦め、期待せず、ただ生きるだけ。自殺すら面倒になり、「最低限の収入と最低限の暮らし」を望む29歳の男。
5月中旬の木曜日朝7時15分。梅雨の近づきを感じるような小雨がぱらついており、湿度は高いがまだ涼しく感じる。
埼玉県某所。築34年木造2階建て1K。家賃2万5千円管理費3千円。イエローハイツ河城。男の住むアパートは202号室。
出勤の時刻。部屋の鍵を閉め、屋根のない剥き出しの階段を降りていく。しかしいつもは感じる事のない人の気配と視線を察知した男は、俯きがちの視線を正面に向ける。
黒いスーツを着た女性が立っていた。まっすぐこちらを目で捉えて。そして、口を開いた。
「おめでとう。合格よ。」
男はすぐに後ろに振り返る。しかし視界には誰も映らない。視線を前に戻せば、またこちらを見ている女性が確かにそこに居る。
男は目の前の女性が知人である可能性を考慮し、容姿を観察してみる。
艶のある長い金髪。身体のラインがしっかりと伺える黒のパンツスーツ姿は、モデルかのようによく似合っている。
白い肌、やけに高い鼻とまっすぐに伸びた鼻筋。メタルフレーム眼鏡の奥に覗く瞳は、淡いブルーの輝きを宿している。明らかに日本人ではない。
そんな女性が真っ黒の傘を片手に立って、こちらを伺っている。イエローハイツ河城の入り口から。
10秒程思案したが、自分に痩身の外国人女性の知人は居ないと結論付けた男は
「すいません、会社に行くので…。たぶん人違いだと思います。」と言い彼女の脇を通り抜けようとする、がしかし。女性はさも当然かのように「あぁ貴方、もう退職してるわよ。」と言い放った。
男の足がピタッと、止まる。“貴方”とは自分の事だろうか。そして聞き間違いでいなければ自分は退職している。つまり無職だと言う。
この二つの疑問を解消するのは容易だった。
上司の連絡先の番号に電話をかけて、確認すれば良いだけだ。何も難しい事はない。
しかし、現実は非情であった。
『君ねぇ。前日にいきなり退職届出しといて、次の日には「僕って在籍してることになってますか」って。馬鹿にしてんの?』とややキレ気味で一蹴されてしまった。
疑問は確信に変わり、男は現在無職だった。いやしかし待て。退職届など出した覚えが無い。
そして昨日の記憶を遡ろうとして、男はハッと気づく。
何故今日が”木曜日”なのだろう。
昨日は間違いなく”火曜日”だった。であれば今日は水曜日の筈だ。
男は若干、いや。かなりのショックと混乱状態により膝から崩れ落ちる。
それを見るや「あら。今の貴方にはもう、なんの”望み”も無い筈よね?無職になった程度でうろたえるなら人選ミスだったかしら。」と女性は訝しむ。
「望みならありました。最低限の収入と最低限の暮らし。今まさにその両方が崩れ落ち、消え去ったんです。良かったですね。貴女が誰か存じ上げませんが、私はお望み通りの人間ですよ。」男は自嘲気味に吐露した。
「あら。それじゃあさっきの合格発表は”今この瞬間”に贈るべきだったかしらね。」
女性は唇の右端をニヤつかせ、ニヒルな笑みを浮かべる。しかし瞳からは一切の感情が見て取れない。つまり、大真面目と言う事のようだ。
「さて、行きましょうか。あ、ちなみに貴方。悪魔は存在するって言ったら信じるかしら?」




