第3話:ワイシャツとスマホ(後編)
閑静な住宅街の一角。少し小さめの一軒家の二階で、委員長はベッドに横になりながらスマホの画面をじっと見つめている。
ベッドの正面にある窓の向こうには家々の屋根が映り、その上にぽっかりと綺麗な月が浮かぶ。しかし今、委員長はそれどころではない。先程ハヤトに送ったメッセージの内容を深く後悔していたからだ。
「藤宮くんが入ってくれてよかったって、蘇芳くんと一ノ瀬さんはよくなかったって思われちゃうかなぁ。そんなつもりじゃないんだけど……うう、もう既読されてるし」
委員長はベッドにうつ伏せで寝転がりながら頭を枕の上に置き、両手でスマホの画面をじっと見つめる。風呂上がりの髪はしっとりとしていて、夜風に流れる髪からシャンプーの香りが部屋の中に広がった。
緊張した面持ちでスマホの画面をじーっと見つめる委員長。しばらく待ってもハヤトからの返信はない。油断して少しだけスマホから目を離した瞬間、スマホがぶるっと震えてメッセージの到着を知らせた。
「!? き、きた。藤宮くん勘違いしてないかな」
緊張した状態でスマホをじっと見つめる委員長。少しおぼつかない手つきでメッセージ画面を開くと、ハヤトからの返信が画面に表示された。
『俺も委員長が一緒でよかったよ』
「っ!? !!?!?!?!?!!!」
ハヤトからのメッセージを読んだ瞬間委員長の体温は急上昇し、その目が泳ぐ。しばらく動揺していた委員長だったが、何度もメッセージの文面を確認するとゆっくり仰向けの体勢になった。
「よかったって……それはつまりよかったってことだよね!? あああああああ!」
委員長はスマホを抱きしめながらゴロンゴロンとベッドの上で転がる。ほぁぁぁぁ! と奇声を発しながら転がる委員長の姿はクラスの誰にも見せられない。
「うひゃああああ! ―――いっだい!?」
ベッドの上で転がっていた委員長は勢い余って壁に足を思い切りぶつける。大きな音に反応したのか、階段をゆっくり上がってきた母親が委員長の部屋のドアを開いた。
「咲ちゃん、大きな音したけど大丈夫~?」
「だ、だいじょうぶ! だいじょうぶだから!」
ドアを開けた母親の元に駆け寄る委員長。委員長と同じ黒髪だがロングヘアの母親は濡れた両手をエプロンで拭いながら困ったように眉をひそめた。
「ほんとに大丈夫? どこかぶつけなかった~?」
「だ、大丈夫だから! ちょっと一人にして!」
心配そうな表情を浮かべている母親の背中を押し、部屋から出そうとする委員長。母親はおっとりした雰囲気で言葉を続けた。
「そうそう、お母さんビデオの録画を咲ちゃんにお願いしたかったのよ~。ほら明日商店街の寄り合いがあるでしょ? その間テレビ見れないからね、録画したいの」
「うんうん! わかった! 後でね、後で下降りるから!」
委員長は赤くなった顔を見られないように隠しながら、ぐいぐいと母親の背中を押す。母親は開いているのか閉じているのかわからない目をしながら、のほほんと言葉を続ける。
「お母さんもビデオテープの時は録画できたのよ? でも今のってあれでしょ? テープいらないやつじゃない? あれむつかしくって……」
「大丈夫! 私が責任持って録画しとくから! ねっ!?」
「わかったわ。おねがいね~」
鬼気迫る勢いの娘に背中を押され続けた母親は観念して委員長の部屋を出る。ドアを閉めた委員長は両手で頭を抱えた。
「なんか恥ずかしくて追い出してしまった……ごめん、お母さん」
委員長は頭を抱えながら小さく息を落とす。気を取り直して振り返ると、ベッドの上に転がっているスマホが見えた。
床に落としていなかったことに安堵した委員長はスマホを手に取ると、再びベッドにうつ伏せで倒れこむ。画面には先ほどのハヤトからのメッセージが表示されていた。
「これどう返せばいいんだろ……返さなくていいのかもしれないけど」
委員長は難しい顔をしながらスマホとにらめっこする。数秒悩んだ末、このまま放置するとハヤトが寝てしまう。そうすれば会話が終わってしまうということに気付いた委員長は、緊張した面持ちでスマホの返信ボタンをタッチした。
「とりあえず、質問しよう。急がなきゃ」
委員長は慣れた手つきで文字を打っていく。しかしその表情は真剣そのもので、余裕なんてものは欠片もない。やがてメッセージを返信すると、返信内容が画面に表示された。
『うん! いっしょに頑張ろうね! ハヤトくんはもう明日の予習とかした?』
表示される自分の書いた返信。それを読んだ委員長は顔の下にあった枕にボスっと顔を沈めた。
「いやこれ唐突すぎるでしょ……ていうか予習の心配って、先生じゃないんだから」
会話が途切れてしまうことを嫌った委員長は、とっさに思いついた質問を送ってしまった。枕に顔を埋めながらぐりぐりと動く委員長は質問内容を激しく後悔する。
しかしそんな委員長の心中とは裏腹に、メッセージはすぐに返信されてきた。
『予習はまだできてないんだよなー。さっきまで明日の弁当とか昼の仕込みしてたからさ』
「え、お弁当!? お昼って……まさか藤宮くん自分で作ってるの!?」
その時、委員長に電流走る。自分なんてたまーにお米とぐの手伝ってるくらいなのに、まさかハヤトは自分で三食料理しているんだろうか。委員長はその疑問をすぐにハヤトへとぶつけた。
『もしかして家の料理って藤宮くんが作ってるの?』
『そうだよ。簡単なのしか作れないけどね』
「えええ……私お米をとぐくらいしかできないんだけど、それでいいのか私」
再び枕に顔を埋めて落ち込む委員長。しばらくそうしていたが、新たな疑問が出現してすぐに顔を上げ、スマホを操作した。
『ご家族の分も作ってるの?』
『うん。うちは両親とも世界中飛び回ってて日本にいないからさ、姉ちゃんと俺の二人分だけど、毎日作ってるよ』
「ええええ……すごぉ。なにそれ藤宮くん超えらい」
それに比べて自分はどうだ。たまに自分の部屋の掃除をしたり、母の代わりに録画予約をするくらいではないか。それでいいのか七瀬咲。
「いや、よくない! 私もお手伝い頑張らなきゃ!」
ふんすと鼻息を強く吹き出す委員長。その刹那、スマホはメッセージの到着を告げた。
『料理で思い出したんだけど、今度の調理実習一緒の班だったよな。作る料理考えとかない?』
「…………」
家の手伝いをすると奮起し立ち上がる寸前だった委員長は、固まった表情で画面を見つめる。スマホを握る手は微かに震えていた。
「家の手伝いはね、しなきゃだよ。でもね……」
委員長はスマホを一度こつんと自分の額に当てると、枕に自身の顔を押し付けて声を殺した。
「藤宮くんとの料理相談めっちゃしたい!」
押し付けられた枕には委員長の声が大音量で吸い込まれる。この対策をしなければまた母親が飛び込んできたことだろう。その後枕からゆっくりと顔を上げた委員長は引きつった笑顔で視線を左右に泳がせた。
「いや……うん。家のお手伝いは明日から、明日から頑張るからね?」
誰に言い訳をしているかわからないが、視線を泳がせていた委員長はスマホに視線を戻して画面を操作する。
そうしてメッセージをやりとりしていると、また別の想いが委員長の中に去来する。そんな委員長の視線の先には、画面に表示された受話器マーク。
「……だめ、いきなりすぎるよね」
委員長は受話器マークを血走った目で見つめるが、諦めてメッセージの送受信を続けた。
そうして何度もやり取りされるメッセージ。その会話は寝る時間になってようやく終わりを告げ、委員長の母親は翌朝から急にお手伝いをするようになった娘に驚くことになるのだった。
文化祭実行委員になった翌日の朝。普段通りの朝だ。朝日は眩しいくらいカーテンの隙間から漏れてくるし、春の空気は暖かでそれだけで気分が良くなる。
だがその日は、姉ちゃんの様子が明らかに変だった。いや、いつも変ではあるのだが。
「じゃあ姉ちゃん、俺学校行くから。お昼はいつもの場所にあるからね」
「はいよぉ~、いってらっしゃぁい。ふへへ」
姉ちゃんはねぐせで跳ねた髪を直そうともせず、玄関先でパジャマのままぱたぱたと手を振る。どうも朝から機嫌が良いというか、心ここにあらずといった感じだ。何か良い事があったんだろうか。
―――いや、まてよ? そういや今日は姉ちゃんがいつも楽しみにしてる“超時空お笑いバトル”の日じゃないか。そりゃ機嫌もいいわ。
「あの番組年に一回しかやらないからな……姉ちゃんにとっては待ちに待った放送日だろう」
俺は通学路を歩きながら安堵のため息を落とす。姉ちゃんは朝から一体何を企んでるんだと思ってたが、原因ははっきりしてるじゃないか。あー、びびって損した。
そうと決まれば、学校へ急ごう。今日も委員会活動はあるだろうしな。
昨日は委員長とたくさんメッセージ交換できたが、考えてみれば委員会の相談は全然できていない。
「まずは、アキラの家からだな」
あの無機質なメイドさんのちょっと怖い顔を思い出して物怖じしながらも、俺は朝の通学路を歩く。
その後チャイムを押した瞬間背後から胸板を揉んできたアキラの頭を引っぱたいたりしながら、いつもの日常は始まるのだった。
「あっという間に放課後か……なんか一日が早かったな」
俺はアキラ、一ノ瀬さん、委員長と放課後の廊下を歩く。今日も今日とて委員会活動。まずはあの倉庫を片付けなければならない。
帰ってからは家事が待っていると思うと少し気が滅入るが、大丈夫。委員会活動は基本的に楽しいしな、家事も嫌いじゃないし。
そうして歩いていると、アキラが少し遅れて俺の言葉に反応した。
「今日は時間を三限分使った特別体育があったからな。一日が早く感じるのは当然だろう」
キラリと眼鏡を輝かせながらそう言葉を返してくるアキラ。確かに今日の体育は長くてつらかった。校内マラソンなんかぶっ倒れるやつ出てたもんな。アキラは涼しい顔してみんなの倍走ってたけど。化け物かよ。
「蘇芳くん凄かったねー。私なんか休憩してた時間のが長かったもん」
委員長は横を歩くアキラの顔を見上げながら言葉を返す。その言葉に気をよくしたアキラは前髪をかきあげながら「委員長を抱っこしてても走れるぜ、俺は」なんてほざいていたが、実際やれそうで怖い。あいつはどこに向かってるんだ。
「あ、でも一ノ瀬さんも凄かったよね。野球でホームラン打ってたし」
「あ? ああ、別に大したことじゃないよ」
「場外ホームランは十分たいしたことだと思う……」
一ノ瀬さんも凄かった。アキラの投げた馬鹿みたいな剛速球を涼しい顔して学校外に吹き飛ばしてたからな。まあ落下先にあった学園長の車がへこんで騒ぎになったけど、とにかく凄いパワーだ。
「でも汗かいちゃったね。夏はまだだけど充分暑いもん」
委員長は困ったように笑いながら手で胸元に風を送る。その時引っ張られたブラウスの下の肌が少しだけ見えて俺は咄嗟に目を逸らした。
「はっはっは! 水分補給が大切だな! 委員長、俺の飲んだスポーツドリンクを一緒に」
「言わせねえよ!? セクハラやめろ!」
妙な事を口走ろうとしたアキラの口を両手で押さえる俺。アキラは俺に口を塞がれながら「コミュニケーションなのにぃー」とか言っているが無視だ。そんなコミュニケーションがあってたまるか。
「???」
突然アキラの口を手で塞いだ俺を見て目を白黒させる委員長。多分状況がわかってないんだろうなぁ。ていうかアキラ、お前そんなことばっか言ってるからモテないんじゃねえのか。
「とにかく、委員会がんばろーね! 今日頑張ればちょっとは片付くよ!」
横を歩きながらぐっと両手を握りしめる委員長。その瞬間花のような香りが風に乗ってやってくる。多分制汗剤か何かだろうか。汗かいたって言ってたもんなぁ。
アキラが委員長に「おうよ! 世界を取ってやろうぜ!」と少しずれた返事を返している間、俺は自身の匂いが気になり始めていた。
俺は袖口を鼻の近くに持ってきてくんくんと自身の匂いを確かめる。汗臭くはないと思うが、こういうの自分ではわかんないからなぁ。
「うーん、俺も制汗スプレーくらいかけてくるべきだったかなぁ」
「はぁっ!? ざけんな馬鹿、ぶっ殺すぞ!」
「なんでっ!? ごめんなさい!」
何故か一ノ瀬さんは突然ブチギレて俺を罵倒する。俺は一瞬にして変な汗を大量に流して思い切り頭を下げた。何に対して怒ったのか全くわからないこわい。
「ま、まあまあ! とにかく倉庫は目の前だし、ささっと掃除しちゃおうよ」
委員長は俺と一ノ瀬さんの間に入り、仲裁する。言われて気付いたが、目の前には文化祭用の倉庫の扉が現れていた。いつのまに着いてたんだ。
確かに委員長の言う通り、今は自分の汗臭さよりも掃除が大事だな。そうして俺が決心を固めていると、アキラは慣れた手つきで倉庫の扉を開けた。
「ははっ委員長の言う通りだぜハヤトォ。さっさと掃除しねぇと……」
「会いたかったー!」
「ぐばぁ!?」
倉庫の扉を開けた瞬間飛び出してくる影。その影は扉の前にいたアキラへ飛びついてその顔面を強打する。
アキラは鼻血を出しながらもその影を受け止めたが、俺だったら吹っ飛んでいただろう。相変わらず凄い反射神経だなあいつ。てか飛び出してきたの誰よ。
「いてて……何が起きたんだ」
突然の流血に動揺するアキラ。しかし飛びついてきた影はアキラから手を離すと、今度は俺に向かって突っ込んできた。
「こっちか! 会いたかったよはーちゃーん!」
「はーちゃ……はぁ!? 姉ちゃん!?」
突然抱き着いてきた影をよく見ると、それは普段着を着た状態の姉ちゃんだった。普段パジャマ姿しか見ないからわからなかった……ってそうじゃなくて!
「うへへへ……グッド触感」
「いや、どゆこと!? なんで学校にいんの!?」
藤宮ハヤトです。今日学校の倉庫から、姉が飛び出してきました。
俺は胸元でぐりぐりと頭をすりつけてくる姉ちゃんに驚きながら、なすすべもなくその体を受け止めていた。