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第2話:一ノ瀬さんとハンカチ(後編)

「はぁっはぁっ……なんとか、間に合った」


 教室のドアを開けるとまだ先生は来ていないようで、生徒達は思い思いの場所で談笑している。ホームルームまではあと十分か……意外と早く着いたな。

 アキラは呼吸を整えている俺の肩を叩くと、いい表情で言葉を紡いだ。


「間に合ったぞハヤト。これで心置きなく委員長に筆箱を借りられるな」

「心苦しさしかねぇんだけど……うう、言いづれぇなぁ」


 俺は胸の辺りを押さえながら教室の中を見回して委員長を探す。やがて教室の隅でクラスの女子と話している委員長を目が合うと、委員長はぷいっと顔を逸らした。


「か、顔を逸らされた、だと。ショックで死にそう」


 クラスの誰とでも笑顔で挨拶する委員長から拒絶されたショックは大きく、正直言って膝から崩れ落ちそうだ。ていうか俺、ちゃんと立ってる?


「大丈夫大丈夫。きっと照れてるだけだって。そうに決まってる」

「ポジティブすぎだろ……」


 ぐっと親指を立てるアキラを横目で見ながら、重い足を引きずって委員長の元に近づく。今にも心臓を吐き出しそうになりながらも、どうにか委員長に話しかけた。


「あの、委員長?」

「ひゃぅい!?」


 俺に声をかけられた委員長はびくっと肩をいからせる。何もそこまで嫌がらなくても……マジで泣きそうなんですけど。

 そうして次の言葉を俺が躊躇っていると、委員長はせわしなく髪を整えながら俺の顔を見上げてきた。

 こうして見るとまつげ長ぇし目がおっきくて可愛いな……なんでか微妙に瞳が潤んでるのが気になるけど。てか泣きそうなほど嫌なのか。つらい。

 委員長の様子に俺がショックを受けていると、しびれを切らしたアキラが肘で小突いてきた。


「おいハヤト。さっさと本題を切り出せ」

「あっ、そ、そうだった。委員長ごめん。筆箱なんだけど……もう一日だけ貸してもらえない、かな」


 俺はその場から逃げ出したくなりながらもかろうじて委員長にお願いする。

 くそぅ、なんでこんなことになっちまったんだ。委員長から嫌悪感たっぷりに断られても嫌々了承されてもつらいわこんなん。

 しかし委員長はどちらの予想とも違い、俺の言葉を聞くと花が咲くように両目を見開いて驚いている。なんかバックに満開の花が見えた気がするけど幻覚かな。


「うんうん! だいじょぶ! 借りててだいじょぶだよ!」

「お、おお、そっか。ありがとう」


 キラキラとした瞳で俺を見ながら食いつくように近づいてくる委員長。俺が半歩後ずさると、委員長は突然わたわたと手を動かした。


「あっ!? そうだ。ちょっと待ってね! えっと、えっと……」

「???」


 委員長は机の横に置いていた自分の鞄を持ち上げると、焦った様子で中をごそごそとまさぐる。俺が頭に疑問符を浮かべていると、委員長はほっと安堵の表情を浮かべた。


「あったぁ……! 藤宮くん、一旦筆箱渡してもらえるかな」

「??? うん」


 委員長は少し目線を泳がせながら俺に右手を差し出す。俺は言われるがまま鞄の中にあったクマちゃん筆箱を手渡した。

 あ、もしかして今日は別の筆箱を持ってきていて、そっちを貸してくれようとしているのか? さすが委員長。ありがたすぎる。

 しかしそんな俺の予想も見事に外れ、委員長は俺に背中を向けてしばらくごそごそしていたかと思うと、再びクマちゃんを俺に手渡してきた。


「はいっ。これで大丈夫だよ」

「あ、ああ。ありが、とう?」


 委員長から再び手渡されたクマちゃんに変わったところは見当たらない。しいて言えばちょっと重くなった、かな? 消しゴムでも補充してくれたんだろうか。さすがは委員長だ。


「ありがとう委員長。じゃあ、もうちょっと借りるね」

「うんっ。返すのはいつでもいいからね」


 俺が席に向かおうと踵を返して歩き出すと、委員長は笑いながらぱたぱたと小さく手を振る。よかった、いつもの委員長だ。あの笑顔を見るとほっとするぜ。

 こうして無事筆箱を借りられた俺は自分の席に戻って一息つく。隣の席に座っている一ノ瀬さんに挨拶しようかと思ったが、一ノ瀬さんは今日も赤く長い髪を風に流し、不機嫌そうに窓の外を見つめていた。

 うん、挨拶は無理だ。怖い。


「いやーよかったなぁハヤト。委員長普通に貸してくれたじゃないか」


 席に座った俺の肩をぽんぽんと叩いてくるアキラ。俺はそんなアキラを横目で睨みつけた。


「元はと言えば全部お前のせいだろが……俺がどんだけ緊張したと思ってんだ」


 女子と会話するのだって慣れてねぇのに、筆箱を二日連続借りるってなんだよ。斬新な処刑か。


「ふむ。では今日もクリスマスに向けて、お前と女の子の出会いを演出するとしよう」

「そういやそんなこと言ってたな……でも今日はいいだろ。委員長とはもう話せたんだし」


  真剣な表情で考え込むアキラをげんなりしながら制止する。俺今日はもう十分頑張ったよ。もう一生分女子と話したんじゃないの。


「バッキャロー! いろんな女の子と触れあった方がいいに決まってんだろ! やる気あんのか!?」

「無いですけど!? ……ああもう、いいや。どうせ止めてもやるんだろうし、今日は何企んでんだよ」


 胸ぐらを掴んできたアキラに対し俺は脱力しながら質問する。これはもう止めても無駄だ。暴走したこいつを止める術がないことは付き合いの中でわかってるからな。

 そしてそんな俺の言葉を受けたアキラはメガネを輝かせて右手を俺の方に伸ばした。


「ふっふっふ。とりあえず君の鞄を貸したまえ」

「貸すわけねーだろ! 昨日筆箱をドブに投げられたの忘れてねぇから!」


 次鞄を渡したら何をされるかわかったもんじゃない。絶対に渡さんぞ。その強い意志で素早く机の横に置いている鞄を取ろうとしたが、その手は見事に空を切る。横を見るとアキラがいつのまにか俺の鞄を両手で持ってニヤニヤしていた。


「てめぇ!? いつのまに取ったんだよ!」

「速さこそわが命」

「うるせーよ! 返せ!」


  俺は立ち上がってアキラの持っている鞄を掴もうとする。しかしアキラは俺に背中を向けて鞄を守った。


「今日の作戦が終わったら返してやろう」

「作戦? 嫌がらせの間違いだろ」

「ハヤト、一限なんだったっけ」

「人の話聞けよ! 国語だよ!」


  ツッコミながらも律儀に質問に答えてしまう俺。そんな俺の言葉を聞いたアキラはにっこりと微笑み鞄の中をまさぐった。


「国語か。じゃあこの教科書を使うわけだな」

「ああ、まあそうだな。それがどうした?」


 国語の教科書を取り出すと、それをじっと見つめるアキラ。何がしたいかわからず呆然としていると、アキラは両手で教科書を掴んだ。


「せーの、ワッショイ!」

「アァァァ!? 何すんだてめぇ!」


  アキラは教科書を持っていた両手を左右に広げ、思い切り教科書を真っ二つに引き裂く。どういう腕力してんだこいつ、てか人の教科書破るなよ!


「許せ。これもお前のためなんだ」

「意味がわからないんですけど!? 意味がわからないんですけど!?」


  あまりに理解が追いつかなすぎて思わず二回尋ねてしまう俺。しかしアキラはドヤ顔で破れた教科書を持ちながら話を続けた。


「わからんか? これでお前は誰かに教科書を見せてもらわねばならん。そしてその相手は隣の生徒しかいない」

「!? ま、まさか……」


  アキラの恐ろしい計画の正体を知った俺は背中に冷たい汗を流す。なんて恐ろしいことを考えやがるんだこいつは。


「国語の担任は怖いからな。教科書忘れたとなれば減点ものだ。こりゃ隣の人に見せてもらうしかないなーうんうん。これはシカタナイナー」

「隣の人……って」


  わざとらしく俺をたきつけるアキラの言葉を受け、俺の隣の席へと視線を動かす。

  そこでは普段通り戦国武将のようなオーラを発しながら席に座っている一ノ瀬さんの姿があった。肩肘ついて窓の外を見てるから表情まではわからないが、赤い髪から発せられる威圧感が凄い。正直近くにいるだけで怖いんですけど。


「いやいやいやバカヤロー! 一ノ瀬さんは無理だろ! あの人めっちゃ怖いんだぞ!? 今にもタバコとか机の中から出てきそうだもの!」


  俺はアキラの耳に近づいて内緒話のボリュームで言葉をぶつける。アキラはさわやかな表情でそよ風のようにその言葉を聞くと、俺の耳元で囁いた。


「タバコくらい大丈夫だ。注射器じゃないだけいいじゃないか」

「基準が謎なの! とにかく絶対やらんからな!」

「そうは言ってもお前、教科書無しでどうやって授業受けるんだよ」


  アキラはきょとんとした表情でもっともな事を言う。てかお前のせいじゃねーかこの野郎。ちょっとは責任感じやがれ。

  俺は両手を握りしめ、悔しさを全身で表しながら言葉を返した。


「……アキラが見せてくれ」

「お前の席から俺の席まで四列くらいあるんだが?」

「教室の端から端まで手を伸ばせばいいでしょ!」

「無茶なこと言うな君は!? いいから観念しろ! これでモテ男だ!」


  アキラは俺の肩に腕を回して引き寄せると、笑いながら俺をたきつける。俺はさらにアキラに近づくとさらに声のボリュームを落とした


「せ、せめて斜め前の委員長ならなんとか話しかけられるかもしれない」

「いや、委員長は距離的に見せてもらうの無理だろ」

「デスヨネー」


 友だちと楽しそうに話している委員長をこっそり見ながら妥協案を提示した俺だったが、即座に却下だった。教科書見せてもらうならそりゃ隣だよな。


「頑張って一ノ瀬さんに話しかけるんだな。骨は拾ってやる」

「ずああああ! 助けてくれええええ!」


  アキラはぷらぷらと手を振りながら自分の席へと戻っていく。俺は地獄に垂らされた糸を掴み損ねたような顔で手を伸ばすが、その手がアキラを掴むことはない。

 伸ばし切った手を力なく下ろした俺は、自分の席に座って隣の一ノ瀬さんの様子を横目で伺った。


「…………」

「…………」


 こうして降りてくる沈黙の時間。一ノ瀬さんは窓の方を向きながら頬杖をついている。後頭部しかほぼ見えないのにもう怖い。せめて横顔なら声もかけられるが、声かけてこっち向いてもらうとか無理。難易度高すぎる。

 そもそも一ノ瀬さんは暇つぶしに一晩で暴走族を三つ潰したとか実はマフィアの娘とか色々噂が絶えない。正直隣に座るだけでいつも怖いと思っている。

 でも、でもテストが近いこの時期授業についていけないのは痛すぎる! 行くしかねえ! 男藤宮ハヤト、いきまーす!


「い、一ノ瀬しゃん。申し訳にゃいんだけどきょうかしゅ見せてもらえぬかな」


 噛んだ。盛大に噛んだ。ハヤトの馬鹿! 死んじゃえ!


「あぁ?」


 一ノ瀬さんは気だるそうに俺の方にゆっくりと顔を向ける。なんか重厚な効果音が背後に見える気がする。ていうか見える。魔王かな。


「教科書ぉ? 忘れたの?」

「あ、うん……」


 一ノ瀬さんは面倒くささと苛立ちを表情に映しながら低い声を響かせる。

 だめだ。これは死んだわ俺。一ノ瀬さん目つきがやばいもん。この後嬲られて殺された後に海の底コース確定だもん。これは無理。ノートだけ取って乗り切ろう。

 そうして結論付けた俺は即座に深々と頭を下げ、一ノ瀬さんに謝罪した。


「ご、ごめんね一ノ瀬さん。やっぱりいい―――ほぎゃああああ!?」


 一ノ瀬さんは突然自分の机を俺の机にくっつける。その結果机の横に垂れていた俺の指がギロチンを落とされたように思い切り挟まれる。指からズキズキとした痛みが走り、目に涙が浮かんできた。やばい、息が苦しくなるくらい痛い。


「あ」


 一ノ瀬さんは痛がる俺を見て何か言いたげに口を開く。これはあれだろうか、「調子のんなブタ」とか「沈めんぞ」とかいう意味だろうか。いやもう絶対そうだよめっちゃ睨んでるもん。


「ぐ、うう。何故こんなことに……」


 それもこれも全部アキラのせいだ。あいつが教科書を破きさえしなければこんなことには、いやちょっと待てこれ本格的に痛くなってきた。

 挟んだ指のところは赤くなってる。折れてはいないと思うけど。


「と、とりあえずハンカチ巻いておこう。気休めにしかならんが……」


 できればハンカチを水で濡らしてきたいが、授業中に行くのは無理そうだ。俺はお気に入りの水色ハンカチを指に巻いて重いため息を吐いた。


「……ほら。教科書見るんでしょ」

「えっ!? あ、ありが、とう」


 一ノ瀬さんはぶっきらぼうな動作でくっつけた机の真ん中に開いた教科書を置く。もしかして実はいい人なのかな? 

 いやでも、これ―――


「えっと、今国語なんだけど……これ数学の教科書だよね」

「っ!?」


 俺の言葉を聞いた瞬間みるみるうちに一ノ瀬さんの顔が赤くなっていく。おおぅ、髪と同じくらい赤くなっちまったぞ。


「わかってるよ! この次の時間は数学でしょうが!」

「ええええ!?」


 教科書の予約ってこと!? いやよくわからん。俺が混乱していると、一ノ瀬さんは勢いよく国語の教科書を数学の教科書の上に重ねて開いた。


「ちっ……」

「な、なんというか、ごめん」


 一ノ瀬さんは舌打ちを一つ落とすと再び窓へと顔を向ける。なんか申し訳ないことしたな……いや、せっかく教科書を見せてくれてるんだ。ちゃんと授業受けないと。


『えーここの主人公の心情は、この行の一言に凝縮して表現されており……』


 先生の話を聞きながら教科書を確認し、ノートを取っていく。この先生早口だから聞き逃すとやばいんだよな。

 集中して授業を受けていると、目の前に赤い糸が流れていることに気が付いた。

 ん? なんだこれ。糸? いや教室の中で糸が飛んでくるわけないか。

 その風に流れている糸の元を目で追ってみると、一ノ瀬さんの横顔が飛び込んできた。突然どアップになった一ノ瀬さんの顔を見た俺は思わず奇声を発する。


「ひゃお!?」


 びびび、びっくりした。いつのまにこんな近づいてたんだ。確かに二人で共有してる教科書は見づらいけど、いくらなんでも一ノ瀬さんに寄りすぎだ。


「ご、ごめん一ノ瀬さん近づきすぎた。今離れるから」

「……ああ」


 一ノ瀬さんのぶっきらぼうな返事を聞いた俺は両手を使って椅子を持ち上げ、ガタガタと動かして一ノ瀬さんとの距離を離す。

 うーん、いくらなんでも集中しすぎたか。距離感も測れなくなっていたとは。


『―――というわけで、この部分の表現を掘り下げることで全体の印象が変わってくるわけだ。ここはテストに出すから覚えとけよー』


 おっと、先生がポイントを話してる。ノートに赤線を引いてっと……ん?

 左肩になにか当たっている感触がある。頭に疑問符を浮かべながら左に顔を向けると、またしても一ノ瀬さんの横顔がどアップになっていた。


「ふぉっ!?」


 な、なんだ、また近づいちゃったのか? いやでも、椅子の位置はさっきと変わらないぞ。というかこれ以上右に行ったら隣の席にぶつかってしまう。何がどうなってるんだ。

 俺は顎の下に曲げた指を当てて混乱する頭で思考を回転させた。


「ねえ」

「ひゃい!?」


 ドスの効いた低い声に驚きながら意識を戻すと、一ノ瀬さんの赤い瞳が真っ直ぐに僕を見ている。うわ、委員長に負けないくらいまつげ長ぇ、てかなんか良い匂いする。

 ……いや、今そんなこと考えてる場合かよ。


「どど、どうかされました?」


 俺は若干裏声になりながら一ノ瀬さんへと返事を返す。我ながら情けないがこの眼力の前では仕方あるまい。だって怖いんだもの。


「こっち向いてないで授業聞けば? 集中できてない」

「あっ。そ、そうだよね。ごめん」


 そうだ。せっかく一ノ瀬さんが教科書見せてくれてるのに、何を気にしてるんだ俺は。教科書を共有してるんだから多少近づくのはしょうがないじゃないか。

 よし、もう気にしないぞー。ちょっと肩がぶつかるくらい近いけど、集中、集中……

 こうして俺はかろうじて集中力を取り戻し、どうにかその授業が終わるまでノートを取り続けた。


『チャイムか。じゃあ今日はここまでー』


 チャイムの音と共に先生の気だるそうな声が響く。俺はほっと溜息を落とすと一ノ瀬さんの方へと顔を向けた。


「あ、ありがとう一ノ瀬さん。助かっ―――いねえ!?」


 さっきまで至近距離にいたはずの一ノ瀬さんがいない。教室の前の方に視線を向けて探していると、背後からプレッシャーを感じた。


「ちょっと」

「ひゃい!?」


 地獄の底から響くような声がしたので振り向くと、さっきより威圧感が五倍増しになっている一ノ瀬さんが俺を見下ろしていた。なんか息が切れてるし鋭い目からの殺気が凄い。正直ちびりそうだ。


「それ、濡らしたいんでしょ。交換してあげる」

「えっ? あ、ああ……えっ?」


 突然一ノ瀬さんから突き出された手には花柄のハンカチが握られている。少し水が滴っているそれをぼーっと見ていると、一ノ瀬さんは苛立った様子で俺の左手を掴んだ。


「痛いんでしょ。さっさとして」

「おふぇ!? は、はい!」


 なんとなく一ノ瀬さんの意図しているところを読み取った俺が慌てて指に巻いていたハンカチを解くと、一ノ瀬さんはそのハンカチを引っ掴んだ。


「アタシのと交換だからね……貰ってくよ」

「えええ!? いや、別に交換する必要は」

「あ?」

「なんでもないです」


 一ノ瀬さんの殺し屋のような視線に射抜かれた俺は、震えながら花柄のハンカチを指に巻く。ひんやりと冷たいそれは確かに痛みを和らげてくれた。


「あ、ありがとう一ノ瀬さん。このハンカチ洗って返すよ」

「いらない」

「へっ?」


 それはあれですかね、てめえの指に巻いたハンカチなんざ使えるかボケ殺すぞってことですかね。あ、なにこれ泣きそう。ていうか泣く。


「人んちの洗濯機で洗われるの気持ち悪いから洗濯はいらない。そのまま返せ」

「えっ。いや流石にそういうわけには」

「そ の ま ま 返 せ」

「はい……」


 カッと見開かれた一ノ瀬さんの目、明らかに瞳孔が開いている。やばい。逆らったら死ぬ。間違いなく殺される。

 俺は生存本能から、一ノ瀬さんの言葉に同意してコクコクと頷いた。


「フン」


 一ノ瀬さんは俺の返事を聞くとドカッと自分の席に戻って、つまらなそうに窓の外を見つめる。

 ああ、怖かった。なんか一日分の授業を受けたような疲労感がある。でもこれ、まだ一限目なのよね。


「つ、つらい。これがあと五つ残ってんのか……」


 俺は一ノ瀬さんが机を元の位置に戻したことを確認すると机に突っ伏し、疲労の回復に努める。

  国語の授業は終わったから教科書を借りる必要はないにせよ、まだ授業が残ってるってのは精神的につらいな。


「おーっすハヤトぉ! 一ノ瀬さんとラブラブできた?」

「ちょお!? アキラ馬鹿お前、聞こえたらどうすんだよ!」


  ちらりと隣を伺うと、一ノ瀬さんはいつも通り肩肘をついて窓の外を見つめている。よかった、どうやら聞こえてなかったみたいだ。


「それよりお前なんでそんな疲れてんだよ。まだ一限目だぞぉ?」

「そうだな。疲れてなかったらその顔面にパンチ入れてるとこだわ」


  うりうりと肘で頬を突っついてくるアキラに殺意を込めた視線をぶつける俺。元はと言えばアキラのせいじゃねーか。お前の教科書爆破してやろうか。


「今日はまだまだこれからだぞハヤト。帰りのホームルームが楽しみだ」

「帰りのホームルームぅ? 何やるんだっけ」


 俺はぼーっと時計を見つめながらアキラに質問する。普段は簡単な連絡事項とかクラス会とかやって終わりだったと思うが、今日のホームルームは何かやるんだろうか。


「忘れたのか? 今日は委員会決めがあるだろうが」

「あー、そういやそうだったな」


  うちの学園は基本的に全生徒が何かしらの委員会か部活に所属しなければならない。俺は帰宅部なので去年は図書委員をしていたが、今年はどうするかな。


「あ、そのホームルームではお前最後まで委員会に立候補すんなよ。これ命令だから」

「はぁ!? なんでだよ! 図書委員やらせろし!」


 アキラの意味不明な指示に半ギレで言葉をぶつける俺。しかしアキラは欠片も動じずメガネをくいっと上げながら言葉を続けた。


「落ち着け。俺の言う通りしてればモテモテだから」

「お前の言う通りにした結果筆箱と教科書を失ったんですけど!?」

「でも、女子と会話はできただろ?」

「ぐっ……」


 アキラの核心を突く一言に次の言葉が出てこない。確かに女子と関わる時間は格段に増えた気がする。モテてるとは全然違うが。

 そんな俺の内情が透けて見えたのか、アキラはぽんっと俺の肩を叩いた。


「オレに任せておけハヤト。悪いようにはせん。もっともオレの指示を無視したらお前のゲームは永遠に返ってこないが」

「普通に脅迫じゃねーか!」


 あのゲームはお小遣いを貯めてようやく買ったんだぞこの野郎。割るのだけは勘弁して下さい泣いてしまいます。


「帰りの会を楽しみにしているがいい! あーっはっはっはっは!」


 アキラはぶんぶんと手を振りながら自分の席へと戻っていく。俺の方を見ながら走ったせいで途中人の机に激突しているが、アホなんだろうか。きっとアホなんだろう。


「それにしても……不安だ」


 俺はもう一度大きなため息を落としながら、黒板の上にある時計を見上げる。まだ先は長いが、がんばろう。放課後の委員会決めまで体力を残しておかなければ。

 教室のドアを開けて入ってきた次の先生に気付いた俺は、机にある委員長のクマちゃん筆箱へと手を伸ばした。






 どうにかその日の授業を終えた俺は、黒板の前に立った委員長を見つめている。黒板には委員会の名前がずらりと書かれ、アキラの言う通り今日は委員会決めをするようだ。

 委員長は少し緊張した様子で深呼吸すると、クラス内を見回すように落ち着かない視線を泳がせた。


「えっと、まずは図書委員を決めましょう。誰かやりたい人はいますか?」


 委員長の言葉を受けたみんなはしばらく黙っていたが、一人手を挙げた事を皮切りにどんどん立候補していく。図書委員の椅子四つはこうしてあっという間に埋まるのだった。


「くっそ……立候補してぇぇ。でもできねぇ」


 俺は机に突っ伏して奥歯を強く噛みしめる。

 ゲームが。ゲームが割られてしまうのだ。俺がこの手を挙げることによって俺のゲームが割れるのだ。いやなんだよそのシステム意味わかんねえ。

 俺が恨みを込めた目でアキラを睨みつけると、それに気付いたアキラは楽しそうにウィンクしてきた。ゲームを守り切ったらあのメガネは絶対割ろう。

 そんなことを考えている内に滞りなくホームルームは進み、いよいよ最後の委員会……文化祭実行委員の選出に入った。

 その瞬間を感じ取ったクラスメイト全員の表情は強張り、明らかに委員長からみんな目を逸らしている。うちの文化祭実行委員は拘束時間が長い事で有名だからな、誰もやりたがらないだろう。


「では最後に文化祭実行委員ですが……やりたい人はいますか?」


 少し不安そうな委員長。そんな委員長の予想通り、誰も手を挙げる者はいない。誰か一人くらい手を挙げてもいいとは思うが、拘束時間が長いのも事実だからな。そりゃこうなっちまうだろう。

 委員長は困ったように眉をひそませながら言葉を続ける。


「他の委員会と兼任もできるんです、けど……いない?」


 委員長は少し泣きそうになりながら、じっとクラス中を見回す。助けを求めるような委員長の表情。丁寧に切りそろえられた委員長の髪がきょろきょろと動く顔に連動して小さく揺れ、それに合わせるように俺の心も揺れ動く。

 立候補してあげたいが、俺もできるだけ早く帰りたいんだよな……なんてことを考えていると、静かな教室に椅子の動く音が響いた。その方向に顔を向けると、アキラがメガネを輝かせながら立ち上がっている。まさか立候補するのか?


「いいんちょー。ハヤト君がまだ委員会に入ってませーん。みんな委員会に入るべきだと思いまーす」

「うぉぉぉぉい!? どういうアシストしてんだコラァ!」


 ここぞとばかりに声を張ったアキラに向かって立ち上がりながらツッコミを入れる俺。アキラはバチコーン! と勢いよくウィンクすると口をぱくぱくと動かし『頼んだぜ!』と伝えてきた。いやうるせえよバカ。勝手に人の委員会決めんな。

 俺はやらん。絶対に文化祭実行委員会なんてやらんぞ。いくら委員長の頼みであっても俺の意思は硬いのだ。


「えっと、藤宮くん。お願いできない……かな?」


 藁にもすがる想いなのか、委員長が今にも泣き出しそうな表情で俺に尋ねてくる。俺は考えるよりも先に口を動かしていた。


「是非やらせていただきます……はっ」


 しまったぁぁ! つい了承してしまった!

 口をついて出た言葉に動揺する俺と「馬鹿め」と呟きながらニヤニヤしているアキラ。ちくしょうあの野郎、公衆の面前でなければ窓から放り投げるのに。

 しかし委員長は俺の言葉を受けるとホッとしたように肩を落として花咲くような笑顔を見せた。


「よかったぁ……! ありがとう、藤宮くん」

「あ、ああ。うん」


 さっきまでアキラをぶっ飛ばすことしか考えてなかったが、委員長のほっとした表情を見るとこれはこれでいいのかと思えてくる。そんな俺の気持ちを知ってか知らずか、委員長はさらに言葉を続けた。


「文化祭実行委員は四人なので、あと委員会に入ってないのは……蘇芳アキラくんですね。さっきみんな委員会に入るべきだって言ってたけど……」

「ひぇっ!?」

「あっはっはっはっは! バーカバーカ!」


 完全に自分の発言で墓穴を掘ったアキラは豆鉄砲を食らった鳩のような表情で固まる。あの馬鹿め、完全に自爆しやがった。こうなったら地獄まで道連れだぜ。


「く……! オレとしたことが」

「へっ、人を操ってばっかいるからだ」


 俺はニヤニヤしながらアキラを見つめ、策に溺れた策士をあざ笑う。アキラはぐぬぬと奥歯を噛みしめるが、次の瞬間衝撃的な一言が委員長から放たれた。


「あとはえっと、一ノ瀬さんもまだ決まってないけど……」

「「えっ!?」」


 思ってもいなかった委員長の言葉に驚いて同時に声を上げる俺とアキラ。しかし委員長の言葉を受けた一ノ瀬さんは窓の外を見つめたまま微動だにしない。

 よく耳を澄ませると、一ノ瀬さんの方から微かに寝息が聞こえる。どうやらホームルームに飽きて寝てしまったようだ。その様子に気付いた委員長は慌てて言葉を続ける。


「えっと、一ノ瀬さんは後で委員会を決めるという事で。とりあえず文化祭実行委員には私も入るね」


 委員長は少し困ったように笑いながらぴょこっと片手を挙げて言葉を紡ぐ。そういえば委員長も委員会は決めてなかったな。てっきり生徒会に行くもんだと思っていたが……まあそこは委員長の自由か。

 こうして最後の委員が決まったことによって帰りのホームルームは終了し、みんなぞろぞろと教室を出る。

 しかしアキラだけは想定外の事態をまだ飲み込めておらず、しばらくは呆然と立ち尽くしたままだった。






 帰りのホームルーム終了後、アキラと二人で廊下を歩く。俺は頬をぽりぽりとかきながらずっと思っていた疑問をぶつけた。


「なぁ、結局お前の思惑ってなんだったんだ? 文化祭実行委員で俺と委員長を一緒にするつもりかと思ったが」

「ああ。まさかオレまで入ることになるとは思わなかった」

「やっぱりかよ! お前が他の委員に立候補すんの忘れてどうする!」


 みんな委員会に入るべきと言うなら、まず自分が他の委員会に入っていないと話にならない。そこを忘れてどうすんだ。

 俺が言葉を発すると、アキラは珍しくがっくりとうなだれながら片手で頭を抱えた。


「だって、だってハヤトが文化祭で苦しむ姿を想像してたら楽しくなっちゃったんだもん」

「ぶっ殺すぞ!」


 俺は今度こそ堪忍袋の緒が切れて、ハヤトの制服の肩を掴みながら言葉をぶつける。ハヤトはやんわりとその手を解くと言葉を続けた。


「落ち着けハヤト。とりあえず文化祭の倉庫に行ってみようぜ」


 アキラは手に持っていた倉庫の鍵を俺に見せながら力なく笑う。さっきふらつきながら職員室に行ったと思ったら、ちゃっかり鍵借りてたのか。まあ確かにこれから通うことになる場所なんだ。一度くらい見ておいた方がいいだろうな。

 俺は小さく深呼吸を繰り返して心を落ち着かせると、アキラへ向かって言葉を返した。


「まあ、そうだな。六か月後とはいえうちの学園の文化祭と言えば地域のちょっとした名物だし、倉庫くらいは先にチェックしておいた方がいいか」


 少し面倒だが仕方ない。決まったからにはきっちりこなさないとな。

 つみれ姉ちゃんも腹を空かせちまうし、早く帰って夕飯の準備したい。倉庫の方は手早く確認せねば。

 そんなことを考えながら廊下を歩いていると、アキラがメガネを光らせた。


「そんな大事な文化祭の準備をたった四人でやらせることから別名“地獄の委員会”と呼ばれてるんですけどね」

「それをお前がやらせたんだろうがぁ……!」


 俺は隣を歩くアキラの肩を掴んで前後に揺さぶる。アキラはカタカタとメガネを揺らしながら大きく笑った。


「はっはっは。まずは今ある物品を確認しようじゃないか。沢山の備品があるなら委員会の仕事も少ないかもしれんぞ?」

「まあ、そりゃそうか」


 俺は渋々ながらも納得し、アキラの肩から手を放す。

 そうして二人で歩いて倉庫に到着すると、アキラは鍵を取り出してドアの鍵を開ける。鍵が開いたことを確認した俺は取っ手に手をかけてドアを横にずらした。

 アキラは能天気な笑い声を響かせながら教室の中を覗き込む。


「いやー、さぞかし備品が揃っているのだろうな。案外オレたちの仕事なんてほとんどないんじゃないか?」

「そうだな。去年も盛大な祭りだったし、きっと倉庫も整理されてるだろう」


 アキラに言われたからじゃないが、そうして前向きに考えると少し元気が出てきた。

 俺達二人はにこやかに笑いながらドアを開け、倉庫の中へと視線を移す。

 しかしその刹那、絶望が俺達を襲った。


「え」

「……は?」


 俺たちの視界に飛び込んできたのは、まさにゴミ屋敷。椅子や机はもちろん、備品と思われるホットプレートや大きな看板までもが散乱し、視界のほとんどを遮っている。この部屋で、文化祭まで、過ごせと? ていうか、これを片付けろと?

 俺とアキラは呆然とそのゴミ……もとい備品の山を見上げ、途方に暮れる。

 しかしその備品の山の奥に、赤く光る何かを見つけた。


「い、一ノ瀬さん!?」


 一ノ瀬さんは備品の机の上に座りながら窓の外を見つめている。俺が声を荒げると、一ノ瀬さんは面倒くさそうにこちらを向いた。


「ああ? なにあんたたち」


 一ノ瀬さんは不機嫌そうな表情でこちらを見つめている。俺は心臓が口から飛び出そうになりながら隣に立つアキラの表情を伺うと、アキラもまた呆然とその場に突っ立っていた。


「……どういうことなのん」


 想定外の事が起きすぎたのか、アキラは光を失った瞳で中空を見つめる。

 俺もまた頭の処理が追い付かず、部屋に積み上げられた備品を見上げた。

 一ノ瀬さんと交差することのない視線。窓から吹き抜ける風だけが俺たちの間を吹き抜けていく。

 こうして俺たちを中心とした波乱含みの文化祭は、乱暴にその幕を上げるのだった。

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