第2話:一ノ瀬さんとハンカチ(前編)
委員長の筆箱から黒い装置が飛び出てきた日の翌日。珍しくつみれ姉ちゃんも寝坊せず`起きてきたので二人でのんびりとテレビを見ている。
朝の日差しは今日も爽やかで、カーテンの隙間からさす朝日がカーペットを柔らかに照らしている。今日もいい天気になりそうだなーなんて考えながらテレビを見ていると、そこに一軒のマッサージ店が映し出された。
どうやら街の名所を案内するという企画で、今日はタレントさんがマッサージ屋さんに行っているようだ。
『いやーきもちいいですねー』
毎朝見慣れているテレビタレントのお姉さんは気持ちよさそうにマッサージを受けている。その様子をぼーっと見ていた姉ちゃんは頭の上に電球を光らせて俺の方に顔を向けた。何か嫌な予感がする。
「……ねえはーちゃん。マッサージ―――」
「やだ」
「はやいよおおおおお! マッサージしてよおおおおお!」
姉ちゃんは椅子から転げ落ちると地面でやだやだしながら大声を張り上げる。何歳児だこの人は。俺はこれから皿洗いがあるんだよ。
「やだやだ! マッサージしてくんなきゃ小説書かないもん!」
「姉ちゃん明日締め切りじゃん……編集さん困らせるなよ」
相変わらずじたばたと暴れる姉ちゃんに大粒の汗を流す俺。このままだとまた編集さんから「先生が書いてくれないので説得してくれ」と泣きつかれるのがオチだ。もうあのお姉さんの涙は見たくない。見たくないが、正直めんどくさい。マッサージとかやったことないし。
「やだやだやだやだ! いだい!?」
「ああもう、なにやってんの……」
じたばたしていた姉ちゃんは椅子の脚に手をぶつけて涙目になりながら起き上がる。いかん今にも泣きそうだ。もうこうなったら仕方ないか。
「―――はぁ。わかったよ姉ちゃん。じゃあソファーに横に」
「イヤッフゥゥゥゥゥ♪ よろしくお願いしまーす♪」
「はやっ」
姉ちゃんはさっきまでの涙目が嘘のように元気になってソファーに横になり、水色チェック柄のパジャマが朝日に照らされている。俺は腕まくりをしながら姉ちゃんの横へと近づいた。
「俺プロじゃないんだから、気持ちよくなくても文句言わないでよ?」
「言わないよぉー♪ ふへへ」
姉ちゃんはうつ伏せになりながら楽しそうにぱたぱたと足を動かす。動かれるとやりにくいんだけど……まあいいか、とりあえず腰の辺りを押してみよう。
「じゃあいくよ」
俺はゆっくりと狙いをださめながら指先で姉ちゃんの背中を押す。しかしその指先が触れた瞬間姉ちゃんは体をよじった。
「ふひぇっ!? あはははは!」
「え!? なになに!?」
背中にちょんと触った瞬間姉ちゃんはソファの上で飛び上がり、やがて爆笑する。俺は何がなんだかわからず困惑して両手を姉ちゃんの背中の上でさまよわせた。
「姉ちゃん、触らないとマッサージできないから。ちょっと動かないで」
「わ、わかった。う、うふっあははははは!」
「あーもー動くなっての!」
姉ちゃんは指先がちょっと触れるだけで爆笑して体をねじってしまう。これじゃマッサージにならんぞ。
俺はできるだけ刺激が一瞬になるようにちょんちょんと素早く触れる。
「えい」
「あひゃひゃひゃ!」
「えい」
「うひひひひ! うひぇひ!」
「なんだこれ」
マッサージしようと触れる度に姉ちゃんは爆笑しながら体をよじって逃げてしまう。どうしろってんだこんなの。
「あー面白かった。ありがとー」
「終わり!? なんだったのこの時間!?」
姉ちゃんはひーひーと息を切らせて涙目になりながら起き上がる。結局なんだったんだこれ。
「くすぐり遊び楽しい」
「マッサージじゃないんかい! てか姉ちゃんくすぐったがりすぎるでしょ!」
指先で触れるだけで笑われたんじゃどうしようもない。座り仕事だから腰とか悪くしてんじゃないかと思ったけど、なんとなく大丈夫そうだ。
「だってくすぐったいんだもんー。てかはーちゃん、時間だいじょぶ?」
姉ちゃんはソファでだらーっとしながら時計に向かって体を向け、俺に向かって質問する。反射的に時計を見た俺はその顔から血の気を引いた。
「ぐはああ!? やべえ、俺もう行くわ!」
「おーう、気を付けてねぇー」
まだくすぐりの余韻が残っているのか、ほわほわと笑いながら手を振る姉ちゃん。俺は昼食が冷蔵庫に入っていることを確認するとその場所を姉ちゃんに伝え、急ぎ足で家を飛び出した。
「今日は……うん、とりあえず委員長に筆箱返さないとな」
しばらく走った俺はアキラの家の前に到着し、切れていた呼吸を整えると鞄の中に委員長の筆箱が入っていることを確認する。
鞄の中に入っているクマちゃんは太陽の光を受けて心なしか喜んでいるようにも見えた。
「おっはようハヤト! 車乗ってく?」
「乗らねーよ! 毎朝しつけえな!」
「はっはっは! すまんすまん!」
突然現れたアキラは片手を上げながらいつもの質問を投げかける。俺が車に乗ることを断ると反省しているのかいないのか、両腕を組みながらメガネをキラリと光らせた。毎日よく飽きないなこのやりとり……まあいいけどよ。
「今日は朝のホームルームが始まる前に委員長へ筆箱返したいんだ。だからちょっと急ぐぞ」
委員長も最低限の筆記用具はあるだろうが、いつまでも借りてるわけにはいかないだろう。俺は急ぎ足で通学路を歩き、アキラもその横を早歩きで並走した。
「ふむ、確かに委員長に筆箱は返さねばならんな」
「だろ? 委員長困るだろうし……てかアキラ。お前俺の筆箱は?」
「忘れた」
「うぉぉぉぉい!? 駄目じゃねえか!」
俺は進めていた足を止めてアキラへとツッコミを入れる。アキラはぺろっと舌を出しながらバチコーンとウィンクする。
「お前の筆箱洗剤に漬けといたらそのまま忘れちゃった♪ めんご♪」
「めんごじゃねー! 今日の授業どうすんだよ!?」
「そのまま借りてればいいんじゃないでしょうか」
「なんで敬語!? ぶっ飛ばすぞ!」
口を3の形にしながらすっとぼけた表情をするアキラ。その頭をぶん殴りたい衝動を必死に抑えて言葉をぶつける。鬼のような顔の俺を見たアキラは数歩後ずさると両手を盾のようにしながら言葉を続けた。
「落ちつけハヤト。それより急がないと委員長以前に遅刻なんじゃないか?」
「げっ!?」
腕時計を見ると確かに時間はギリギリだ。まだ走ればなんとかなるだろうが、とにかく急がなくては。
俺は鞄を肩にかけ直すと本腰を入れて走り出した。アキラはその横で涼しい顔して走りながらメガネを光らせる。
「やっべー。マジでギリギリじゃんはっはっは」
「笑うな! 大体お前が筆箱忘れたせいでもあるんだからな!?」
「学校間に合うといいですね」
「だからなんで敬語!? 眼鏡のレンズ割んぞ!」
「こいつは割らせねえぞコラァァァァア!」
「だからどういうタイミングでキレてんだよ!」
襟首を掴んで来たアキラを払いのけ、お互いに肘で小突き合いながら校門に向かって全速力で走る。この時の走りが功を奏してどうにかチャイム前に教室に到着したが、俺の息は再び激しく乱れることになってしまうのだった。