第7話:知恵の輪と帰り道
「確かにもう遅いし、帰った方がいいかもね。じゃあ二人とも送っていくよ」
「えー!? もう帰っちゃうの!? やだやだ! みんな帰っちゃやだー!」
帰るという単語を聞いた瞬間感情を爆発させ、地面に転がりながらばたばたと両手両足を動かす姉ちゃん。ガッツンガッツン手が俺の足に当たって痛いんですけど。
「すげぇな。絵に描いたように駄々をこねている」
年上のお姉さんのあり得ない痴態を真剣な表情で見つめるアキラ。お前がうちに来始めた頃も毎回こうだったけどな?
「仕方ない……こうなった姉ちゃんには、これだ!」
俺はリビングにある机の引き出しから知恵の輪を取り出し、姉ちゃんの方に放り投げる。委員長と一ノ瀬さんは同時に目を見開いた。
「知恵の輪!?」
「なんで知恵の輪?」
委員長はあんぐりと口を開けて驚き、一ノ瀬さんは眉間にしわを寄せながら怪訝そうに床に落ちた知恵の輪を見つめる。だが俺が説明するより先に、姉ちゃんは地面に落ちた知恵の輪を拾った。
「なにこれ!? うわ取れねぇ! こうしてこう…………取れねえ!」
姉ちゃんは知恵の輪を解くのに夢中になり、こちらには目もくれない。その様子を見た俺はすぐにみんなに向かって声を発した。
「みんな! 姉ちゃんが知恵の輪に夢中になってるうちに早く帰るんだ!」
「知恵の輪ってそういうものだっけ!? 違うよね!?」
「この使い方は初めて見たね」
驚く委員長と相変わらず怪訝そうな顔をしている一ノ瀬さん。だってしょうがないじゃないか、これくらいの力技でないとつみれ姉ちゃんは止まらないんだから。
「ハヤト、お前無茶すんなー」
「これやらないとずっと駄々こね続けるし、みんな泊まることになるぞ?」
「つみれさんのワガママってそこまで強制力あんの!? 逆にすげえよ!」
俺の言葉を聞いたアキラは驚きながら大声を張り上げる。下手すると一晩中駄々こねてるからな……変なとこで体力がすげぇんだよ。普段そんなに体力ないのに。
「ともかく、こうなった姉ちゃんは誰にも止められない」
「言葉の重みがすげぇな!?」
アキラの言葉を受けて無言で頷く俺。これまで散々くらってきたからな、実感が伴ってるぜ。
そうこうしているうちに姉ちゃんは知恵の輪を両手で掴み、思い切り引っ張り始めた。
「ふんぬぁああああああ!」
「つみれさん知恵の輪を力ずくで外そうとしてない!? 知恵使えよ!」
「今それはいいから! 早く行こう! 二人とも送ってくよ!」
姉ちゃんにツッコミを入れるアキラに一声かけると、俺は二人を玄関へと誘導する。
二人は慌ててかばんを持って玄関に飛び出すと、スリッパから靴に履き替えた。
「え、あ、うん! お邪魔しました!」
「お邪魔しました」
ぺこりと頭を下げて玄関を通る委員長と、少し深く頭を下げる一ノ瀬さん。アキラはそんな二人の後ろで鼻歌交じりに靴を履くと、俺の肩をぽんっと叩いた。
「じゃあな! オレは夜にまた来るけど!」
「来んな!」
いい笑顔で言い放つアキラにツッコミを入れる俺。こうして文化祭実行委員会の親睦会は、超特急で唐突にその終わりを迎えるのだった。
親睦会の帰り道、家の玄関の前で「誰が誰を送るかグーパーで決めようぜ」と言い出したアキラの提案に乗り、同じグーを出した俺と一ノ瀬さん。
俺は星空の輝く高台の路地を一ノ瀬さんと歩きながら少しぬるい夜風に吹かれている。海に近い町のせいか、少し磯の香りを含む風に包まれた俺は、視線の遠く先にある海を見つめる。
高台にある俺たちの町からは海が一望できるが、夜の海は黒くよく見えない。だが町の明かりに照らされた船着き場は優しい光を映し出し、そこから広がる住宅街はまだまだ光をたたえていた
しばらくの沈黙の後、俺は帰り際の大騒ぎを思い出して一ノ瀬さんに謝罪した。
「なんか、ごめんね。バタバタしちゃって。やかましい家だったでしょ」
「別に」
「…………」
「…………」
き、気まずい。一ノ瀬さんが悪い人じゃないってのは十分わかってるが、まだお互いの間に壁があるような気がする。風に揺れる一ノ瀬さんの髪からは女の子特有の良い香りがして、俺はドギマギするのを隠すのが精いっぱいだ。ていうか、なんか距離が近くないか?
いつのまにか近くを歩いている一ノ瀬さんにそのことを話そうとした瞬間、俺のスマホはメッセージの到来を振動で伝えてきた。
スマホを起動して画面を見ると、アキラから「委員長が家の人の車で帰っちまって一人なんだが。つらい」とメッセージが届いていた。なんて悲惨なやつなんだ。
「アキラからメッセージで、委員長は家の人の車で帰ったらしい」
「ふぅん。まあその方がいいんじゃない。夜道は危ないし」
「だね、アキラは泣いてるけど」
俺は「ははは……」と笑いながら言葉を紡ぐが、一ノ瀬さんはそれ以降言葉を発してはくれない。重苦しい沈黙に俺が耐え兼ねていると、もう一度スマホが振動した。
「あっ、委員長からもメッセージ。今日はありがとうって、一ノ瀬さんにも来た?」
委員長のことだ、おそらく今日の参加者全員に送っているだろう。笑いながら一ノ瀬さんに尋ねると、一ノ瀬さんは少し暗い表情で俯いた。
「来たかもしれないけど、見れない」
「??? スマホどうかしたの?」
「落として壊れた」
「ええっ!? 大丈夫なの!?」
まさかすぎる一ノ瀬さんの言葉に驚きながら返事を返す。そんな……この間連絡先をみんなで交換したばかりなのに、なんてこった。神は死んだのか。
何より、一ノ瀬さんは不便じゃないのだろうか。
「まあ、普段からあんまり使ってないし大丈夫」
「そうは言っても親御さんだって心配するでしょ」
自分の娘と手軽に連絡が取れないってのは普通心配になるだろう。俺だって姉ちゃんと連絡とれないってなったら心配だわ、街中で遭難するしあの人。
「新しいスマホ買うようにお金もらったけど、どれ買えばいいのかわからない」
一ノ瀬さんは相変わらず暗い表情で言葉を続ける。本当に機械が苦手なんだな……俺になにかできないだろうか。
「えっと、ほとんど使わないなら安いのでいいかもだけど……OSは好みとかある?」
「は?」
「ごめんなさいなんでもないです」
わからない単語を使ってきた俺に苛立ったのか、一ノ瀬さんはさらに距離を詰めて睨んでくる。近い近い近い、赤い髪が顔に触れる。深い赤の瞳が街灯の光に照らされて輝く。俺は顔を一ノ瀬さんから背けると半歩下がって距離をとり、再び歩き始めた。
「…………」
「…………」
そして再び落ちてくる、気まずい沈黙。
その時俺は、何を考えていたのか。よく頭が整理できていないまま、気づけば勝手に口が動いていた。
「えっと、じゃあさ、一緒にスマホ買いに行こうか。委員会の連絡とかもスマホだろうし」
俺はぴっと人差し指を立てながら一ノ瀬さんへと提案する。いやいや何言ってんだ俺は、そんなん一ノ瀬さんが来るわけないだろ。スマホいらないって言ってんだし、まだそこまで仲良しになれているわけじゃないんだか―――
「いいよ」
「……へっ?」
一ノ瀬さんの言葉を受け、茫然と口を開ける俺。一ノ瀬さんはそんな俺の顔を見ると怪訝そうにしながら言葉を続けた。
「いいって言ったの。いつ?」
「えっあっ、じゃあ、明日の十三時に、駅前の時計塔広場で……とか」
「わかった」
一ノ瀬さんは進行方向に顔の向きを戻すと、何事もなかったように前を向いて歩く。俺は一ノ瀬さんの返事を反芻できないまま、もう一度口を開いた。
「い、一ノ瀬さ―――」
「ここからは人通り多いから。じゃあ明日」
「え、あ、うん」
片手を軽く上げて角を曲がり、人の多い商店街へと入っていく一ノ瀬さん。俺はその後ろ姿と残った甘い香りに包まれながら、近くにある街灯を見上げた。
「……え―――まじ?」
茫然とする俺に街灯の光が降り注ぐ。俺が事態を完全に飲み込んであたふたするようになるのは、その後自分の部屋に帰ってからだった。
委員長はたまたま通りかかった父の車に乗り、後部座席に座っている母の隣でスマホをいじっている。
「……よしっ、これでみんなに送れた」
今日はありがとうという内容をメッセージで送信し終わった委員長は少しほっとした様子で息を落とす。窓の外には見慣れた街並みが流れ、委員長は今日の出来事をゆっくり反芻していた。
していたのだが……
「それにしても咲ちゃん可愛いわー。それ、メイドさんって言うのかしら」
「へっ?」
隣に座っていたぽわぽわした母の言葉に驚いて自分の姿を見る委員長。その瞬間委員長の顔は真っ青に染まった。
「き、着替えるの忘れてた……!」
今までこの格好で外を歩いていたのかという事実に気付き、顔面蒼白の状態で前の座席を見つめる委員長。母はぽわぽわとした笑顔を浮かべながら「あらあら~」と呑気に言葉を落とす。
「ああおおおお。もう学校いけない……」
委員長は顔面を両手で押さえ、その場でまるくなる。
母は「まあ。まるくってかわいい」と娘の頭を撫でながら、相変わらず呑気に笑っていた。