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昼下がり、駅前の商店街。
行き交う買い物客の間をのんびりと歩きながら、出版社の担当者である横山君との待ち合わせ場所、この辺りではちょっと有名な老舗のビフテキ屋に足を向ける。
まだ若い彼は、私との打ち合わせの時にそのお店で食事するのをとても楽しみにしている。今日も一緒にどうかと誘われたのだけれど、いまの私はちょっとビフテキが入りそうなテンションじゃない。
待ち合わせ場所が視界に入るのと、横山君が手を挙げるのはほぼ同時だった。
手の振り方が若々しくて、無意識に頬が緩んでしまう。実際、彼は若いのだけれど時間にはキッチリしていて、そういうところはとても信頼している。
「先生、こんにちは! なんか今日は凄いッスね。ってゆーか、ちょっと気合い入り過ぎじゃないですか? 特にそのメイクとか」
……話し方がちょっとアレなのだけれど、これも愛嬌の一つだと捉えることにしている。
今日の私は白のドレスシャツに、程良くタイトなシルエットのストライプのパンツ。いつもダボッとして楽なワードローブを選びがちだけど、今日ばかりはちょっとキレイ目に。メイクもそれに合わせて普段よりは頑張った……つもり。
「いまから行く書店って、もともとは古くて小さい喫茶店だったらしいの。本を扱いだしたのもここ数年の話らしくて。横山君は初めてよね」
「そうッス。周りの先輩に尋ねても、誰も知らなかったです。しかし、今回の新作のサイン会、なんでそんな小さな店から始めることにしたんスか? もっと大きいところに絞ってやる方が効率良いのに」
「んー 私がそうしたいから、じゃダメかな」
「いや、確かに新作が仕上がったら多少の無理は聞くって約束しましたけど。こう、いちおー編集者の端くれとして、何かあるのかなって」
並んで歩きながら、スーツの肩越しにこちらをチラリと盗み見る横山君。二重瞼のくりっとした瞳に覗く、隠しきれない好奇心。
やっぱり、ちょっと犬っぽいな、彼。子供の頃、実家で飼っていた雑種犬の顔が浮かんだ。
「この作品を書けたのはね、そのお店と出会ったからなの」
「んー もうちょい具体的にお願い出来ないッスか?」
「もうね、ずっと長い間書けてなくて。このまま書くことやめちゃうのかな、って思ってたの。他人事みたいに」
「それは知ってるッス。オレも先生と一緒にそれなりに悩んだんですから」
「ビフテキ一緒に食べながら、でしょ?」
「まぁ、そうッスね」
「……彼のお店はね、本をとても大切に扱ってるの。売れ筋だとか、話題の本だとかあまり関係なくって。著名作家の本の隣に、ぜんぜん無名だったり新人の本が並んでいたり。本達が優劣なく並べられてて……なんて言うのかな、みんなであの空間を作ってるの」
「あー 最近あんまりないッスね、そういう本屋」
「あと、彼がサイフォンで淹れてくれるコーヒーが凄く美味しいのと、彼自身も……本のコンサルタントなの」
「コーヒーと……コンサルタント?」
「貴方にピッタリの一冊、お探しします」
「はぁ、なんスか、それ?」
細い路地を曲がり、ちょうどお店の看板が見えてきたところだった。
あの日と同じ、本のイラストがペコリとお辞儀をして私達を半地下へと誘っている。その横には、私の出版記念サイン会を告知する張り紙。
横に視線を向けると、横山君も気付いたみたいでコクコクと顎を動かす。
「貴方もやってもらうと良いわ。なんだか念術師みたいにね、並ぶ本の群に手をかざしてその中から一冊を抜き取るの」
「えー かなり眉唾っぽいんスけど?」
「そんなことないって。だって、彼は私に……」
「先生、さっきからずっと『彼』ばっかり」
「え、そう?」
「先生が新作書けたのって、ホントはその本屋さんじゃなくてその『彼』のお陰……」
ちょっとヤバいことを口走ろうとした横山君の背中をドンと叩いて、半地下への階段に押しやる。
「ちょっ、危ないッス、先生!」とか言いながらも、横山君は革靴でトントンッと軽快な音を立てて階段を下りていく。
その足音に気付いた彼が、視線を上げた。
今日もいつもの定位置。ズラリとサイフォンが並ぶカウンターの向こうでキリッとエプロンを締めた立ち姿。
彼はまず横山君を見て、次に私に視線を移した。
豊かな髭を蓄えた鋭角の顎先が、不思議そうに傾げられる。私の胸の深い所で、トクトクと鼓動が響き始めた。
鉄製の手すりの無骨な冷たさをギュッと握って、深呼吸を繰り返す。
そう、今日こそは伝えないと。
これまで黙ってたことを謝って、彼のお陰でまた書くことが出来たお礼を伝えて。そして、私が本当は誰なのかをちゃんと見てもらう。
「あ、もう何人かお客さんがお待ちですよ、先生」
ガラス扉を押さえながら、プレッシャーを掛けてくる横山君。
その無邪気さに苦笑しながら、コーヒーの香り漂う店内へと私はゆっくり降りて行った。
(了)




