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あの日以来、彼女はふらりと店に来てくれるようになった。
たまに雑誌を買い求めることもあるけれど、大抵はカウンターでコーヒーを飲みながら少し話をして帰っていく。彼女が近くに住んでいること、自宅で個人事業主として何らかの仕事をしていることはわかったけれど、それ以上のことは尋ねてもはぐらかされた。
人と接することが少し苦手らしくて、店内に他の客がいる時にはカウンターで静かにコーヒーを飲んで去って行く。ただ、会話の端々にはやはり深い教養が感じられたし、たまに口にする冗談にはウィットが効いていてハッとさせられる。
僕が淹れたコーヒーを口に含むと、彼女の頬がふわりと緩む。
あぁ、この人のことを、もっと知りたい。
いつしか自分の中に芽生えたその思いが、ちょっと風変わりな顧客に対する純粋な興味なのか、もしくはそれ以上の感情に発展し得る何かなのか……
そんな自己分析も怠ったまま、僕はある日、カウンターに座る彼女を食事に誘った。
「……いま、何て言いましたか?」
「もうこんな時間です。僕の店は飲み物しか提供していないから、もしこのあとご予定がないなら……」
「あ、えっと、決まった予定はないのですけど」
「じゃあ、一緒にディナーでもいかがですか」
沈黙。カウンターに視線を落として、長い髪に表情を隠してしまった彼女。
その小さな頭頂部を見つめながら、初めて合った雨の日のことを思い出していた。二人の距離は随分と縮まったと感じていたのに、それは僕だけの勘違いだったのだろうか。
「その、ごめんなさい。ちょっとこういうの、久し振りで」
「あ、いえ、私も久し振りですよ、こういうの」
「いま取り組んでる仕事がちょうど佳境に差し掛かったところなんです。なので……」
「あぁ、なるほど。いや、わかりました。それはそうですよね」
自分でもなんだかよくわからない相槌を打って、彼女との会話を切り上げてしまう。
何となく気まずくなった空気を嫌ってか、その日以来、彼女は僕の店に姿を見せなくなってしまった。
そう、こういうところはとても繊細な人なんだ。せめて連絡先くらい聞いておくべきだったか。いや、それはそれでまた気まずくなっていた可能性もあるし……
いつまでも解消されない思いを抱えながらも、時間は過ぎていく。
彼女と出会ってそろそろ一年になろうかという、ある日のこと。とある大手出版社の担当者から連絡があった。要領を得ない会話の流れに戸惑いながらも受け答えしていると、聞き覚えのある作家の名前が飛び出した。
それは彼女が初めて店に来てくれた日に、僕が薦めた本の作者。
そして、電話口の相手が言うには、その作者が間もなく発表する新作の出版記念サイン会を僕の店で開催したい、と言っているらしい。担当者自身にも理由はよくわからないが、作者本人の強い要望を受けて連絡しているとのこと。
僕の店は住宅街の少し奥まったところにあってわかりにくい旨を伝えたが、それでも構わないと言う。
正直、こんなこぢんまりとした書店でサイン会を開くことにどれほどの宣伝効果があるのか疑問だったけれど、先方がそう言うならば断る理由もない。
ちょうど毎月の売上も軌道に乗り始めて、カフェスペースの拡充プランを練っている時期でもあった。地元の設計事務所と打ち合わせを重ねるうちに、その日はやってきた。