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彼女が初めて店に来た日のことを、僕ははっきりと覚えている。
雨にぐっしょりと濡れたネイビーのワンピースと、それよりももっと濃色に輝く長い黒髪。日本のホラー映画に登場する古典的な女幽霊を思い浮かべたのは、いまでも秘密。
熱心に書棚を見て回る彼女が風邪を引かない様にタオルを渡して、カフェカウンターに誘った。ちょっと口べたみたいだけれど、黒いボストンフレームの奥で揺れる瞳には強い知性を感じた。
リラックスしてもらう為に淹れたコーヒーも気に入ってくれたらしい。ショップカードの裏に記したキャッチコピーに、彼女は興味を示した。
「あの…… これって?」
「あぁ、本のコンサルタントなんですよ、私」
「本の、コンサルタント?」
「あくまで、自称ですけどね。ただ本を並べて売るだけじゃなくて、貴方にピッタリの一冊と出会う体験をご提供したい。そんな風に思って、この店をやっているんです」
「へぇ……」
ついさっきまで伏し目がちだった彼女の瞳が、にわかに挑戦的な色を帯びる。
「あの、それじゃ、いまの私にピッタリの一冊を教えてくれますか」
僕を見上げる彼女と、しばらく見つめ合う。おもしろい。極まれだけれど、こういう人と出会えるのはこの仕事の醍醐味と言える。
「わかりました。普段はどんなジャンルの本を?」
「特にこれといったジャンルはないですね。仕事柄、雑多な本に目を通します」
「ふむ…… じゃ、最近どんな本を読みましたか?」
「最後に読み終えたのは…… 経済小説でした。上場企業の粉飾決算に関与した人達が、それぞれの視点から事件を語るんです。どこまでも身勝手な人達の保身に走った言い分を淡々と記述して、粉飾決算を招いた人間達の複雑に絡み合った利害と欲望を描く作品」
「なるほど。その作品は気に入りましたか?」
「いいえ、あまり。私、大きな会社で働いたことがなくて、社会人としての経験も豊かとは言えないから…… ちょっとピンと来ない世界でした」
「じゃあ、お気に入りの作家さんはいますか」
「お気に入りの作家はもちろんいるけど…… それ言っちゃったら面白くないと思うわ」
「フフッ。そうですね。では、最後の質問です。いま何か悩み事ってありますか」
「……仕事がちょっとうまくいってないです」
少し時間を貰いたいと彼女に告げて、店内の書棚をゆっくりと巡回する。
実を言うと、さっきの質問に深い意味はない。ただ、受け答えする時の表情や雰囲気を見たかった。そして、ここからの作業は、とても感覚的なものになる。
先ほどのやり取りで得た彼女の印象を脳裏に留めながら、目の前の本の群をぼんやりと眺める。
タイトルは見ない。ぼんやりと焦点を外して、全体を映像として捉えながら視線を巡らせると、本の方から稀に呼びかけてくれる……気がする。
それは「占い」とまでは言わないが、いわゆる「ダウジング」に近い感覚かも知れない。古いスペイン映画で見た、ゆらゆら揺れる振り子を片手で下げて荒野をゆっくりと巡り、地下水脈の流れを言い当てる手法。
これが僕の数少ない特技の一つだけれど、根拠の程ははなはだ怪しい。
これをやる時の癖で、左手を顎に当てて、右手を前方に伸ばして摺り足気味に歩く。
書棚をゆっくりと巡回する。
三周目。四周目……
五周目に差し掛かって自分でも少し不安になってきた頃、思いも寄らない方向に意識が引き寄せられた。
陳列棚の奥まった一角、とある作家の処女作。
その単行本の表紙には、霧に満ちた早朝の入り江を背景に、胸の前で祈る様に両手を組み合わせて佇む女性。
逆光になったその表情は窺えないが、首を片側へ大きく傾けたシルエットを明け方の寂光が縁取っている。
それは、僕が特に大事にしている一冊でもあった。そうか、この本があったか。
カウンターでこちらを静かに見守っている彼女と手元の本を交互に見比べながら、僕は確かな感触を得ていた。