いつも傍に居てくれる君へ
もやし初の恋愛もの。
短編とはいえ、少し長めの3万文字。
普段非日常を書くもやしが、日常を描くとこんな感じになるんだな、と気軽に読んでください。
春の優しい空気を感じながら通学路を歩き、新入生たちが学校の正門をくぐる。
保護者の姿もちらほら見える、高校に上がった初日。
軽く浮かれた頭で周りを見渡した瞬間、身体に衝撃が走った。
長く艶のある黒髪に憂いを帯びた瞳。
周囲すら華やぐように漂う色香を身に纏い、気高く美しい彼女がそこに存在した。
見るものを圧倒する姿に小さく息を引きこみ…けれど、そんな印象は次の瞬間には崩壊することになる。
「ジロジロ人を見て何か用なの?」
幻想は儚い…。
ケンケンとした威圧的な腕組みと尖った口調。
美人特有の冷酷で鋭利さを含む眼光に当てられ、気付けば意識を手放していた。
霞みがかった思考が、少しずつ晴れていく。
「一年二組、皇 雫…新入生、ねぇ?」
胸ポケットに入っていた生徒手帳を開く、女性の養護教諭の呟きが聞こえた。
ふぅ、と妙に色っぽい溜息を零し、「入学初日から保健室って珍しい子ね」と付け加えた。
大した怪我もなく休憩するだけで事足りたが、雫も元々保健室に用など無かったはずだった。
あんなことさえなければ…。
薄く目を開けた雫はそう思うしかない。
「おはよう。十分休憩したでしょ?
式もそろそろ終わりだから、早く教室に行って追いつきなさいな」
「はい…ありがとうございました」
雫はそう言って寝かされていたベットから降りて部屋を出る。
ガラリと引き戸を開けた時、背中に掛けられたのは、少しの微笑みを含んだ「向き反対。突き当たりから二つ目の教室」との教室へのナビ。
方向音痴を発揮した自分に恥じながら、雫は改めて礼を言って歩き出した。
今日は入学式と学校案内、最後に授業内容の説明。
帰りがけに教科書を受け取って終わりだったはずなのに、最初の予定からいきなり狂っていた。
転勤族の母とフリーランスで自宅を仕事場にする父を持つ雫は、高校に上がると同時に親の都合で転居したため、この地に知り合いが居ない。
まさか入学式の空席が目立たず、安堵することになるとは夢にも思っていなかった。
ついでに共働きの両親が揃って仕事で来れなかったのも不幸中の幸いかもしれない。
そんなネガティブなのかポジティブなのか微妙な感想を持ちながら、ガヤガヤと騒々しい廊下を歩いていく。
すっ飛ばしてしまった入学式の後はそれほど時間もかからない…午前中には家に帰れるだろうと当たりを付けて。
一年二組のざわつく教室の扉をくぐり、たまたま空席だった窓際の席に座ってぼんやり窓の外を眺める。
同じ中学から上がってきたり、社交性を発揮して早速友達作りに励んでいたり、と未だ現れない担任のせいで騒々しいのは仕方ない。
けれど何となく、雫の周囲だけぽかんと浮いているような、遠巻きに視線を感じるような気がするのは何故だろうか。
見渡してみると、その理由はすぐに判明することになった。
「………何であなたが目の前に座っているの」
雫が座るすぐ後ろ、窓際の最後尾。
名も知らない彼女は、先ほどの雫と同じように窓の外を眺めてふてくされていた。
あぁ、彼女だ。
雫は口にしないまま、今朝の出逢いを噛み締める。
改めて見る彼女は今朝と変わらず美しく、受ける印象と口や態度が正反対で吊り合わない。
無視するわけにもいかず、雰囲気に気圧されつつも雫は返答する。
「同じ一年二組だからかな」
「うるさい、理由なんか聞いてない。
朝から視線を感じて見れば、目の前で急に倒れられるし最低な気分よ」
「ならお互い様かな。僕も入学初日から保健室だしさ」
今朝以上の体験は簡単には得られない。
衝撃の初対面を経た雫は逆に落ち着いていた。
彼女は、一瞬驚いたような視線を送り、すぐにまたそっぽを向いた。
そんな不思議な仕草に首を傾げていると、彼女の口が僅かに開いた。
「はぁ、よく笑っていられる…」
「笑ってる…? あぁ、僕は笑ってるのか」
「…が……な…の?」
頬をくにくにと触って表情を確かめていた雫にぼそりと呟かれた声は、空気を読まないチャイムが鳴り響いてよく聞こえなかった。
仕方なく「なんだって?」と訊き返した雫に投げ掛けられたのは――
「うるさい。黙って前を向いていなさい」
――という冷たい言葉。
一度目、二度目の出逢いとも散々だな、と肩を竦め、取り付く島も無い相手から正面の黒板に視線を向ける雫。
チャイムが鳴り終えて暫くすると、教師が顔を見せた。
教壇に立つ担任は、全員に座るように指示したのち、静かになるのを待ってから磯部と名乗った。
そして学校案内を含めた説明を始める前に、席に着いた学生達に簡易ながら自己紹介を促した。
授業もない登校初日。
和やかな雰囲気で進む自己紹介。
順番が回ってきた雫は、手慣れた自己紹介の最後に「苗字と見た目のギャップが激しいけれどよろしく」と付け足した。
自分がいかつい名字とは全く印象の異なる容姿なのを知る、実に雫らしい自己紹介だった。
ただ、その時に雫の背後で鼻で嗤うような声が聞こえたのは、気のせいではないだろう。
雫と入れ替わるように立ち上がったのは、朝から名も知れぬ同級生。
彼女はただ「東雲 楓」と告げただけで席に座る。
前を向いていろと言われた雫は振り向けないので雰囲気しか分からないが、ずっと窓の外を見ているようだった。
雫は密かに窓から吹き込んだ風を受け、綺麗な長い黒髪がふわりとなびいていた楓の姿を思い浮かべていた。
***
上っ面の言葉だけで進む男女平等。
学生たちにも等しく強いられるそれは、男女混合で並べられた出席簿に反映されていた。
また、この出席番号順とやらは、学生たちにとって死活問題とも言える状況を生み出すこととなる。
それはつまり、新学期が始まってからの一ヵ月ほどは、おおよそこの並びで座席が決まっているところだ。
「何であなたが私の前なの」
「出席番号順でしょ?」
そっぽを向いて不機嫌そうに背後でぼやく東雲 楓。
ぶつけられた皇 雫は至極当然な返答をしていたが、それもこれも担任磯部の策略だった。
彼はどうも変な遊び心が過ぎるようで、出席番号を逆さにした席順を指定した。
ややこしいことこの上ないが、この措置によって楓の前にちょうど雫が座ることになってしまったのだ。
この処置に嘆きたいのはむしろ雫の方で、理由不明で目の敵にしてくる楓とは是非とも離れておきたかったのに。
「東雲と皇。資料の仕分けしてほしいから職員室に来てくれ」
「はい、今からですか?」「何で私が!」
返答は正反対。
前者が雫で、後者が楓…わかりやすい返事が磯部へと返された。
息が合っているのかいないのか、磯部が軽く笑って理由をつけた。
「今日は四月十三日だろ。出席順なら東雲が十三、皇が十四だからだよ」
「意味わかんない!」
「そう言うなって。とりあえず皇は良いらしいから来てくれるか?」
「わかりました」
こうした手伝いに雫はあまり頓着しない。
どうせ誰かがやらされるし、たまたま運がなかっただけ。
文句を言ったところで他のクラスメイトに回り、変に恨まれるくらいなら自分でやる方が良いだろう。
ただ資料の仕分けなんてのは生徒にさせるような仕事じゃない気はしていたが。
「行けば良いんでしょ!」
憤慨しながらも手伝う背後の楓に、振り返りもせず雫は苦笑していた。
***
雫と楓のこうしたエピソードは他にもいろいろとある。
むしろ楓の尖り具合が痛々しく、学校という集団生活において問題が発生することしばしば。
やることなすこと即断・即決・即応で雑だというのに、成績は常に三位以内をキープしていた。
また、自信過剰と見せかけて人を避ける傾向があり、我侭でありながらも最後には折れることが多く、彼女の精神性を理解するのはなかなかに難しい。
翻って雫の成績は平々凡々としていて、頼まれれば基本断らないお人よし。
そんな中、卓越しているのは受け流す能力だと言える。
流されているように見えるので優柔不断と思われがちだが芯があり、本人の根幹に触れる部分を曲げることはない。
教師でも時折やりにくさを感じることがあるので、本当に扱いに注意が必要なのは雫だったりする。
だからだろうか。
このクラスでは、二人をセットで扱うことが暗黙の了解となっていた。
自由行動が認められている写生や体育の授業で作る二人組はいつでも雫と楓。
出席番号が連番なこともあり、家庭科実習を始めとした移動教室でも大差なく、三人組以上の時は、なんというか…持ち回り制の人身御供的な意味合いになる始末。
教師からも楓のおもりとして雫を宛がっている気配がヒシヒシとしていた。
この扱いに雫は当然としても楓も気付いており、しばしば抗議することもあったが…楓を周囲が持て余し、結局雫が相手をすることになっていた。
こうしたやむにやまれぬ(?)事情から、当初は喧嘩腰だった楓は、次第に軟化していくことになる。
そうなると放っておかないのが周囲だ。
何せ楓の見た目は十人中十人が振り返るほどの美少女。
行動力があって頭もよく、能力だけを見れば誰しもが虜になってしまう。
現に今も
「お帰り、また断ったの?」
「……当たり前。何であんなやつと私が付き合わないとダメなの」
「モテるのは悪いことじゃないと思うけれど」
「相手による」
楓が「あんなやつ」呼ばわりしていたことで、今日の呼び出しは男だと確定した。
照れているのか、やはりそっぽを向いて答える楓は、人を惹き付ける美貌は男女を問わわない。
というのも、学年問わず女生徒も楓を「お姉さま」と呼んで困らせていたからだ。
ぶっきらぼうに一刀両断する楓は、いつか『同性の強み』を生かして攻略するつわものが現れるかもしれないな、と雫は苦笑交じりに「ごもっともで」と返すにとどまる。
「はぁ、私の何が良いのかね」
「見た目」
「…それは知ってる」
間違いのない事実なので、雫は視線も向けずに「自信過剰だね」とくすりと笑ってしまう。
楓と雫とのやり取りを知る周囲は、こうした『軟化』が一人に向けられたものだとよく知っている。
だから学年を跨いですら玉砕する多くの者に、憐憫と理解不能の視線を送る毎日だ。
ちなみに全滅と言った方が正確かもしれない。
そんなセット扱いが二カ月も続けば、お互い普通に話をするようにもなる。
結果的に、雫は楓の扱い方をマスターしてしまったと言っても過言ではないだろう。
「そうそう、実は僕もこういうものをもらってだね」
「………はぁ?」
「机の中に入っていたのさ」
ぴらっと手を振る雫と、視線で追う楓。
かくて、そこには手紙が握られていた。
「何、雫はそれ受けるの?」
「それが名前も用件も書いてなくてね。
一体誰が何のために僕の机に入れたのかもわからない」
「イタズラ?」
「ははっ、酷いな。けれど可能性はあるよね。
ま、中には場所と時間が書かれてるから行ってみるつもりだよ」
改めてひらりと手紙を軽く振って「今日は暇だしね」と軽快に答える雫。
そんな別段気取った風もない態度が、地味に楓の機嫌を悪化させていく。
「いつ? 何処なの?」
「それは教えられない。楓が野次馬するとは思ってないけどね」
「だったらなんで」
「見知らぬ誰かだけど、僕に宛てた中身を見せびらかすのは失礼な話だと思うんだ」
雫の中でのみ引かれる一線。
それは誰にも踏み越えさせることがない。
「何で手紙の話をしたのよ」
「そうだね、少し君に対抗心を燃やしたのかもしれないね」
くすりと笑う雫がたまに見せる心の揺らぎ。
踏み越えさせない一線があるなら、相手に気取られるようなことをしなければ良い。
徹底しきれないのは、やはり感情的でもあるからなのだろう。
「この件が終わったら教えてあげるよ。
でも僕にはオチは大体見えてるんだけどね」
不思議な物言いをする雫に、毒気を抜かれた楓は「オチ…?」と疑問符を浮かべる。
最初に出逢った時の険悪さは随分となくなっていた。
雫が指定されたのは、ひと気の少ない旧校舎の敷地。
放課後の少し傾いた日だと薄く影になっている快適な場所で、左側の肩にカバンを掛けて携帯片手に相手を待つ。
受け流す能力が高く、その副次効果で適度な距離感を保つ雫は、人付き合いのバランス感覚が絶妙に上手い。
学校では楓の面倒を見ることの多いこともあり、雫は意外にも友達は多い。
むしろ楓の問題行動が友達付き合いの始まりだったりもするので、一概に彼女が悪いとも言い切れないのが悩みどころ。
そんな各人の距離感に寄り添うような雫の姿勢は、安心感を持たせるためイベントの『数合わせ』に最適だったりする。
雫としても特別扱いを望んでいるわけでもなく、呼ばれるだけで新たな何かを得られる機会を得るのは願ったり叶ったり。
しかも『数合わせ』の場合は金銭的負担が軽いことも多く、本人も自身の能力を重宝していた。
今回のお誘いもその中の一つ。
まだ参加したことのない合コンとやらに無料で呼ばれ、面倒になれば行先のカラオケでひたすら歌っても良いと言われている。
何とも美味しいイベントの誘いを受けた雫は、参加の返事をしてからささっとスケジュール帳へ落とし込んだ。
そろそろ指定の時刻だ、と携帯で時間を確認して画面をブラックアウトさせる。
一人で佇む雫は「楓はもう帰ったかな?」と適当にぼやき、離れていても彼女を気に掛けている自分に苦笑を浮かべていた。
そこへスッと新たな人影が差した。
「お待たせ」
「うん、少しだけ」
素直な感想と共に、雫はすぐに『いつものやつだ』と把握する。
何せ相手は、呼び出したはずの自分への気遣いがほとんどない。
もう少し何かを匂わせてくれても良いんじゃないか、と現れた男子生徒に抗議したいくらいだった。
実際は気取られるほど雫の対人能力は低くなかったが。
「実は…皇に頼みたいことがあってさ…」
「それはこんなところに呼び出してまで願うことなの?」
「あぁ、誰にも知られたくない」
「僕はこれで知ることになるわけだけどね」
「…それとこれとは別の話だよ」
彼は何とも都合のいい解釈をしているらしい。
それに周囲のすべてが、彼の都合で動いているかのような言い方をするのにも、雫としては少し腹立たしい。
「………で、なんの用?」
用件はすでに分かっていたが、先手を打って潰してしまえば角が立ちかねない。
特に人の都合を考えない相手には、『わざと説明をさせる』ことが必要な手段だと雫はよく理解していた。
「あぁ、皇って東雲さんと仲良いだろ?」
「まぁ、おおむね? 保護者枠みたいなものだけど」
「そこで頼みが…」
「うん、で?」
「察してくれよ…恥ずかしいなぁ」
「君の名前も知らないのに無理な相談かな」
「あ、え? 二年三組の―――――」
心底面倒くさくなってきた雫だが、やはり距離感を取り間違えることはない。
首元に付けている校章の縁色で年上なのはわかっていたが、学年すら違うのだから彼を知るはずもない。
念のために『ただのその他大勢だよ』と遠回しに教えても気付く雰囲気はなく、自己紹介を始めてしまった。
皆が皆、他人に興味があるとでも思っているのか…と呆れてしまう雫の耳には届きもしなかった。
「先輩、他人はエスパーじゃないよ」
「そ、そうだな…東雲さんに告白したいんだが、協力してほしい」
入学してから二カ月強。
相手は『初めて受ける相談』なんて思っているかもしれないが、この短い期間に顔を真っ赤にしながら同じことを言われるのはこれで五度目。
二週間に一度以上のペースで起きれば、雫でなくとも手慣れたいつもの日常に成り下がるだろう。
「具体的には?」
頼まれる度にするお決まりの返答をする雫。
何をする気なのかで手伝えるかどうかの返答も変わる。
協力するにも、色々と計画が必要だ。
だからここから先は相槌を打ちながらの確認作業になるわけだ。
「具体的…って?」
「僕に何をしてほしいの?」
「だから告白の手伝いを…」
「内容ですよ内容。
先輩の後ろに付き添って告白を見守ってほしいわけじゃないでしょう?」
「そ、それは嫌だな…」
「まさか無計画? それなら僕にできることはありませんよ」
「え、ちょっと待ってくれ! 皇に断られたら誰に頼めば良いんだ!」
そんなの知るか、と叫ぶ心の声を雫は何とか押し込める。
ここまで頭の悪い相談は初めてなので、もしかすると告白に踏み切れない人ほど悪化していくのかな、と一人諦めムードに入っていた。
「僕を指名したのは、仲が良いからなんでしょう?
何か教えて欲しいのならともかく、立場と考えの違う僕に計画させて上手く行くと思いますか?」
「そ…それは…」
「それと僕からも一つ質問です。
長く彼女の隣に居る僕に『誰?』って聞かれる先輩は、楓にどれだけ知られていて、どれだけ印象を残しているんですか?」
印象など残っていないだろう。
下手をすれば挨拶すらしたことがないかもしれない。
それを初対面から協力を得る雫のことは呼び捨てにし、逆に楓のことを『さん付け』する辺りに他者への配慮が足りない。
特に扱いの難しい楓相手に、そんな杜撰な態度で興味を惹けるものか…雫の結論は至って真っ当だった。
「それと仮に他人が考えた方法で付き合えたとして、彼女に合わせ続けられますか?」
距離感を掴むことに長けた雫の言葉。
簡単なように思えて『相手に合わせる』のは非常に難しい。
相手の好みに合わせて自分を偽り続けるのは、常に自己否定しているのに等しい。
そのまま本人が変わっていけば良いが、無理をし続けて維持する関係性に楽しさはあるのだろうか…雫は非常に懐疑的だった。
多くの場面で雫は楓にまつわる問題の解決を求められることが多く、気付けば論理的思考が板に付くようになっていた。
ゆえに考えなしに相談した相手が実は最大の障壁であり、逆に直感的な楓を攻略するなら玉砕覚悟の告白が手っ取り早い…と、彼が気付くのはこの少し後のこと。
淡々と問う雫に打ちひしがれ、言葉少なめに「そう…か…、少し頭を冷やすわ」と言い残して去っていった。
是非とも二度と相談を求められないことを雫は願う。
***
「昨日の手紙、どうだったの?」
翌日、挨拶もなく開口一番問われる。
そこには朝一番のやり取りがこれか、と苦笑を浮かべる雫と、いつになく前のめりな楓が居た。
珍しい光景でもあるので、雫はあえて「おはよう」と前置きを入れるのを忘れない。
「…おはよう。で、昨日で決着はついたの?」
「んー…まぁ、そんな感じ?
実にくだらなくて、本当に無駄な時間を過ごしてきたよ」
「…何それ意味わかんない」
「その方が良いんじゃないかな。
少なくとも僕に青春が来るのは随分先になりそうだ。
それより今日の英語って楓が当てられるんじゃないの?」
「佐藤の授業? 私を当てる勇気があれば褒めてあげる」
楓の自信過剰に聞こえるが、実を言うと英語を担当するかの佐藤教諭とは一戦交えているのだ。
教師の立場と帰国子女を武器に、たかだか高校一年生の楓に挑んだ大人気ない佐藤教諭は、あっさり敗北の味を知ることになる。
というのも、教科書の内容だけでなく、日常会話にまで手を出してきたのが悪かった。
言葉とは時代によって変わっていくもので、教師生活の長い彼の知る『会話』はとっくの昔に時代遅れ。
進学校であるこの学校では外国人講師も常駐しており、審判役に任命されたメアリ先生が「昔はそんな言い回しもあったらしいね」と口を滑らせてしまったのだ。
しかも英語の発音まで錆びついていることまで発覚し、何ともいたたまれない空気が流れたのは記憶に新しい。
実際、英語で会話がこなせる教師ばかりなら、わざわざ外国人講師の出る幕などない。
佐藤教諭の自信は一体どこから来ていたのか、雫は不思議でならなかった。
そんな一幕を思い返しながら、カバンから荷物を取り出して机に放り込む。
確か一限目は数学だったはず、と話題が逸れてほっとする雫。
人間関係を読み解くのが得意な雫には難解極まりない授業だった。
***
過去何度も受けた恋愛相談。
しかしその相手がどれもこれもすぐ傍に居る相手だというのだから、その人気の高さに雫は嫉妬してしまいそうだ。
別に見た目が特別劣っているわけでもないのに、雫にはとんと話が来ないのは、やはり楓と並んでいるからだろうか。
そう、楓の方が群を抜いて整っているだけなのだから。
ともあれ、雫が相談されている間にも、楓は他の誰かからの告白が訪れる。
そうなると相談役に言えることは、結局いつでも「とにかく早く行け」くらいのものしかない。
まだ彼女の好みや趣味を聞かれるのならわかるのだが、計画の相談なんてされても知ったことではなかった。
そんな恋愛相談も、十人目を迎える頃にはさすがに面倒になってくる。
いっそのこと無視してやっても良いのだが、残念なことに雫は人間関係を大事にするタイプだった。
「皇に言いたいことがあるんだ」
「うん、それは手紙にも書かれていたね」
いつもと同じく、今回も面倒な流れになりそうな雰囲気を感じ取る。
少し顔を赤らめた相手は、気恥ずかしいのか言いよどむ。
相手が諦めるまで問答を続ける性格を差し置き、今回こそは適当なタイミングで切り上げようと心に決めていた。
そんな雫が言葉を投げるほんの少し前、意を決した相手が先に声を上げた。
「東雲といつも一緒に居るだろう?」
「おおむね? 学校では?」
「君らは付き合っているのか?」
余りにも突拍子もないことを言われ、頭が真っ白になる雫。
今まで色々と問われた中でも、ダントツでおかしな質問だと言えた。
けれど確かにベッタリと言われても否定はできない…。
思わず考え込んでしまう雫は、リセットするために「僕と楓が?」と一呼吸入れ、それから大げさに肩をすくめて続けた。
「そんなわけないじゃないか。
関係性を聞かれれば難しいけれど……いや、簡単だった。保護者枠だね」
「そう、か…安心したよ」
「何を言っているのかな?」
「いやぁ、恥ずかしいことに、君らの仲に入っていける気がしなくてさ」
驚きの波も引いて頭が回り始めた雫は、見当違いも甚だしい内容に呆れてしまう。
ただ、状況証拠だけを取り出すなら、楓は誰に何度告白されても頷かない。
雫に至っては誰からの誘いもないし、誰かに告白する予定もない。
第三者から見れば、確かにそういう選択肢も出てくるかもしれない…?
と驚愕の新事実に驚いていた。
「だからまずは確認を取っておかないとおっかなくってさ…」
「だとすれば答えはNOだ。何も気にせず、是非とも好きにしてほしい」
「そうか、教えてくれてありがとう!」
「どういたしまして」
ドッと疲れを感じた雫は、『なぜ今日に限って放課後ではなく昼休憩だったのだろう』と嘆く。
ただでさえ大した成績でもないのに、残っている午後の授業がきちんと聞けるか不安でしかなかった。
***
翌日の昼休憩。
教室内の違和感を感じ取る。
「………なんの用かな?」
思わず釣りあがった眉をひくひく動かしながら雫が問う。
相手はいつも通りの楓…ではなく、昨日の昼休憩に相談と称して雫を呼び出した男子。
岩城 陽介と名乗った彼は一年五組の生徒で、颯爽と去っていった昨日を思うと、あまりにも早い顔合わせだった。
「いや、一緒にメシでも、って思って」
隣の一組であれば、体育やらの合同授業も存在するが、五組ともなれば距離からして接点はない。
特に雫は高校に上がるときに親の転勤で引っ越しして来た経緯もあって中学時代の友達は居ない。
また、五組には楓の中学の同級生は居たものの、友達付き合いの少ない彼女に陽介の情報など耳に入るはずもなく、ただの初対面でしかなかった。
「…一年二組にまで来て何言ってんの?」
「え、本気なんだけど…ダメかな?」
「この人ダレ?」
伏目がちながら、ピリリと警戒心を持って呟く楓。
ただ一度だけ…それも呼び出されて確認されただけの相手なので、雫も全く同じ思いだった。
「あれ、さっき自己紹介したんだけどなぁ?」
「違う、そこじゃない。ちょっとこっちに来なさい」
間に挟まれていては埒が明かない。
雫は楓に「少し待ってて」と一言入れて、きょとんとしたままの陽介を連れ出した。
昨日、短めに終わったはずの厄介ごとが、日を跨いで訪れるとは思ってもみなかった雫は、脱力の溜息と共に移動した。
教室から引っ張り出した…いや、楓から緊急避難させた雫は、改めて岩城 陽介と名乗った生徒を眺める。
普段は居ない五組の生徒が教室内に居るだけで注目されるのは当たり前。
しかも雫よりも頭一つ分高い身長に、短く切り揃えた髪、意志の強そうな目元と見た目が随分と整っていた。
ここに何かと目立つ楓の存在まで足されれば、面倒ごとにならないはずがない。
「馬鹿なの、君?」
「どうして?」
「何でいきなり弁当なんか持って教室に来るのさ」
「いや、多分名前も知らないんじゃないかなと思って」
関係性が全くないのだから知りようもない。
となるとこうしたアプローチも間違いではないのかもしれない…と少しぐらついたものの、雫はぐっと抑えて言葉を返した。
そんなモノで平穏を壊されてたまるか、と。
「もう少し距離の詰め方ってものがあると思うんだけど」
「あぁ、そうだなぁ…だとしたら俺は頭悪いかもしれないわ」
たははと笑う陽介に、本当にこいつはどうしてくれようか…と溜息で返す雫。
あんなにも不十分な形で席を離れたので、楓へのフォローを考えると非常に憂鬱になる。
もういっそ適当な理由付けて自分だけ逃げようか…。
後は若い人に任せてなんて言ってさ、などと雫がなげやりに考えていると、陽介が少し不安気な表情で訊いた。
「もしかして迷惑だったか?」
「まぁ、いきなりだったしね」
「でも事前に連絡って無理だろ?」
「………そういえばそうだね」
思い返せば最初は古風な手段の手紙からだったわけで、楓狙いの男の連絡先なんて必要ないので交換もしていない。
何より事前に申し合わせがあっても迷惑なのには変わりない。
雫からすると、自分の知らないところで勝手にやってよ、が偽らざる本音だった。
「でもこれからは必要になるし、皇の連絡先もらえるか?」
「ちょっと待って。何で…いや、確かに…はぁ、わかったよ」
ただ連絡をもらうだけで、さっきのような急なイベントが発生することはなくなるだろう。
シレっとした顔で席を立てば、冷めた態度で楓が対応してくれるはず…と出会った最初のころを思い出す。
そんなことをすれば後で何を言われるか分かったものじゃないが。
しかし不用意に楓に近付けば心に怪我を負うため、雫の管理下に彼女が置かれることをクラスメイトは望んでいる。
つまり今の雫の位置取りは、周囲からの強制力のせいだ。
一歩離れたところから観察するような雫と、さらに輪の外から軽く眺める程度の楓。
存外、二人の相性を考えれば良かったかもしれないが、あの他人を寄せ付けない楓と距離を詰める方法なんてあるのか、と雫は首を傾げる。
「よっし、これでいつでも状況を聞けるな」
「…そんなに頻繁に連絡してくるつもりなの?」
「いきなり来たら怒ったじゃないか」
「困ったんだよ」
額に手を当てて溜息を一つ入れてあからさまなポーズを取る雫。
いきなり来たことに分の悪さを感じて苦笑いを浮かべる陽介は、どうしたものかと今後の対策を考えていた。
「雫、早く食べよう」
教室の引き戸からすっと現れた楓が雫を呼ぶ。
一緒に食べることもあるが、相手に用事があったり気分転換のために席を離れることもあるので、普段なら気にせず食べ始めているところだ。
それをお誘いとは…雫は不思議そうな視線を送りながら「うん、すぐ行くよ」と返答し、陽介に手をヒラヒラ見せながら「それじゃね」と適当に追い返した。
「…雫が帰れって言ったのに、なんであなたが居るの?」
「え、そんなこと言われたっけなぁ。さっきのって『せっかくだから一緒に食べよう』って意味じゃなかったのか?」
「うざい…ひたすらうざい。雫、どっか別のところで食べようか」
「お、良いね。まだ日差し強くないし中庭とかどう?」
「あなたはここで食べればいいじゃない」
「え、別のクラスで飯とかおかしくない?」
「だったら自分のクラスに帰りなさいよ」
人見知りというわけではないものの、どちらかと言えば他人を拒絶するタイプの楓。
いや、今まさに全力で拒絶している最中なのだが、陽介が全くめげずに返事をしている。
楓にしてはぽんぽんと会話のやり取りが続くな、と雫はぼんやりと眺めていたが、面倒になりもう勝手にしてくれといそいそと弁当を広げた仕草で語る。
「ちょ、雫食べるの?」
「お昼休憩は意外に短いんだよ。誰かのせいで十分は使っちゃったしね」
「…そうだね、わかった」
「やっと飯だな!」
「今日だけだから…」
「次は歓迎されるはずだ」
「次は無い」
「はいはい、いただきますいただきます」
ぼそぼそと言い合う二人に割り込むように、雫が適当にあしらって弁当をつつく。
楓はふんと溜息にも似た鼻息を一つしてもぐもぐと食べ出し、何故か余裕のある陽介は、彼女の様子にくすりと笑ってから弁当を広げた。
―もくもく
――もくもぐ
―――もぐもぐ
陽介がようやく食事に口を付けようとしてはたと気付く。
何故か黙々と二人は箱に詰め込まれたご飯を削り取ることに集中していた。
不審気な視線を送っても見向きもされないため、疑問を解消するべく咳払いをしてから尋ねた。
「普段どんな話をしてるんだ?」
「「………?」」
弁当から顔を上げた二人はそれぞれ疑問符を浮かべる。
思わぬ反応に陽介も「あれ?」と声を上げたが、特に気にするでもなく疑問の解消へと思考が向いていた。
「雫と何話してたっけ」
「楓と…特に思い浮かばないのは何でだろ」
「話すことあったっけ?」
「用がないと話してないかもしれない」
「えっ、そんなに一緒に居るのに?」
驚く陽介に対し、二人は大した感傷も気負いもなく、ただ「一緒…結果的には?」「うん、結果的には」と軽く頷いて答える。
これではむしろ二人の間に割り込んできた陽介のせいで無駄な会話が発生しているとさえ思えてくる。
陽介も邪魔している自覚はあっても、こんな方向だとは考えていなかったため、途方に暮れる。
「なら俺が質問するから答えてくれ」
「いやだけど」「めんどう」
「何でそういうところは意見ぴったりなんだよ…」
このまずい状況を新たな提案で切り抜けようとしたがあえなく撃沈。
大げさに項垂れる陽介には目もくれず、弁当へと視線を落とす二人。
追い討ちを掛けるように言葉を投げる。
「主に君のせいだろう?」
「そうよ、何しに来たの」
「あれ、何この敵地感?」
「ようやく気付いたみたいだよ楓」
「長かったわね雫」
「息ぴったりじゃねぇか!」
「「うるさい」」
「ア、ハイ…」
二組で五組の生徒が騒げば注目もされる。
いや、容姿が際立つ楓の傍に、雫以外の第三者が居るだけで、嫌でも目に入る。
休憩が終わるまでには変な噂が立っていそうですらある。
またも厄介事に巻き込まれたと嘆く雫と、相変わらず陽介をぞんざいに扱う楓。
二人の間で静かに弁当をつつく陽介は、一体何を考えているのだろうか…。
放課後になり、楓が雫に詰め寄った。
移動教室等で時間が作れなかったことと、五分・十分では解決しないと踏んだ楓が我慢をしていたのだ。
「あいつは何なの?」
「僕にもわかんない」
「でもお昼に二人で席を立ったでしょ?」
「いや、それ割とよくあるよね?」
問題勃発を防ぐ為、雫は闖入者が現れるととりあえず楓から引き剥がす役目を担う。
緊張で何も喋らなかったり、逆にやかましく騒ぎ立てたり、と何かしらの問題行動を起こすことが多いのだ。
その点陽介は、珍しく自然に入り込んで来たので、違和感を持ったのかもしれない。
「……そういえばそうかもしれない」
「でしょ?」
「でも一緒に戻ってくるのは初めてよ」
「楓が食べようって急かすからだよ」
「…私のせいなの?」
「いや? 悪いのは全部岩城ってヤツだと思うけれど」
「そう、よね…」
責任転嫁完了、雫は見事追求から逃れた。
実際に邪魔だったのは間違いないので、この表現で正しいだろう。
こういう素直な点は本当に助かる、と淡々と帰り支度をする雫。
そこへ
―――ヴヴッ、ヴヴッ
マナーモードにしていた携帯が震える。
雫はとても嫌な予感がしたので無視を決め込むが、気付いた楓に「出ないの?」と問われれば仕方ない。
携帯の液晶には『岩城』と記され……ていたので、すぐに切る。
一仕事終えたかのように「ふぅ」と雫は一息入れた。
「よかったの?」
「うん、重要だったらまた掛かってくるからね」
「そっか」
「それじゃ僕は帰るよ」
「うん、じゃぁね、雫」
「気を付けてね楓」
普段ならもう少し先まで一緒に歩くのだが、今日は友達と一緒に本屋と雑貨屋廻りの用事があった。
ついでに言えば、もうこれ以上追加で新しい問題はいらない。
いくら対人関係に大らかな雫でも、今日はもうお腹一杯。
是非とも陽介と楓とはおさらばしたかった。
***
同級生の話に相槌を打ちながら、本屋と雑貨屋廻りをした翌日。
―――ダンッ!
机を叩く音が周囲に響き渡る。
何事かと衆目が向く中、その視線の先には岩城 陽介が居た。
場所は一年二組、時間は昼休憩になったところ。
いくら彼が昨日一度このクラスに来たとは言え、騒ぎを起こすのはまた話が違うだろう。
「…何で出ない?」
「あぁ、昨日は用事があってね」
「だったらそう言ってくれよ。こっちはずっと待ってたんだ」
「そう、それは悪いことをしたね。でも自分の都合を一方的に押し付けるのはおかしくないかな?」
叩かれた机を気にも留めず、シレっとした顔で受け流す雫。
別におかしなことをしてるわけでもなし、文句を言われる筋合いはない。
事前に約束でもしていたら別だろうが。
「……そうだな、すまん。でも、できれば何か反応が貰えると助かる」
「気を付けるようにするよ」
「そこで『もうしない』って言わないところが皇らしいな」
「あんたうるさい」
「あ、すまん。気付かなかった」
割り込んできた楓への返答がそれとは思いやられる。
人に怒る前にもう少し良いところを見せたらどうか、と雫はそんなことを思っていた。
雫に連絡を取ったところで、どうせ目的は楓なのだから。
「帰れバカ」
「俺へのアタリきつくね?」
「自業自得じゃないの」
「おっかしいなぁ…変なこと言った覚え無いんだけど」
「押しつけがましい」
「ぐぅ…」
言い負かされる陽介を眺めながら弁当を広げる。
雫の中ではいつもと同じ光景が広がっていた。
いや、少し違ったのは陽介の手に弁当が無かったことだろうか。
「学食ならあっちだよ?」
「…二人も行かないか?」
「「いや、いい」」
「そっか…」
トボトボと一人教室を出ていく陽介。
残された二人は見送ることもなく食事を始める。
ちなみに楓は総菜パンを開けていた。
「何でまた陽介に詰め寄られたの?」
「昨日掛かってきた電話無視したからだよ」
「帰り際の? え、それだけで机叩かれたの?」
「メールか何かで返信くらいしとけば良かったかな、って今なら思うけどね」
「めんどくさいヤツ…」
それっきり二人は黙って食事を続ける。
そんな中、カバンに入れっぱなしだった携帯にひっそりと着信が刻まれていた。
***
《カバンに携帯入れてて気付かなかったよ。何か急ぎの用でもあったのかな?》
昼休みに入っていた陽介の着信に、家に帰ってから気付いた雫は、すぐにそんなメールを入れた。
メールなんてするとやり取りが発生しそうで気が重くなるが、今のところ陽介は嫌悪感を持つ相手ではない。
何より昼休憩に願われたばかりで無視するのはさすがに気が引けた。
とはいえ、放課後まで心労を抱えたくないと思うのは自然で、むしろ雫の付き合いが良すぎると周りは言ってくれるだろうが。
ともあれ、返信という大仕事を終えた雫は、再び携帯をカバンに放り込んで着替える。
人当たりが良くて気安く、それでいて噂に靡かない雫はなかなか人気者で、今日もまた買い物の付き合いを頼まれていた。
こうして連日になることは珍しいけれど。
「ねぇ雫、最近来てるあの男子って何なの?」
「最近って言っても昨日からだけどね」
「そうだっけ? 珍しいからすごく印象に残ってるんだよね」
「あぁ、確かに楓の近くに居続けるのはすごいね」
「やっぱり楓狙いなんだ?」
「だと思うけど…琴音、興味津々だね?」
「うん、仲良く話してるし、これは遂に楓にもお相手が!」
ウキウキするように話す同じクラスの吉川 琴音。
今日は彼女と雑談兼相談兼お買い物。
場所は駅周辺のショップで、気に入った店があれば片っ端から立ち寄るスタイル。
普段なら制服のまま出歩くが、少し都会に足を延ばすと『女子高生』は途端に声を掛けられてしまう。
それも余り歓迎できないようなお誘いばかりなので、雫による事前の申し合わせでお互い着替えてくることにしたのだ。
不快さを取り除くのも人付き合いのコツだった。
「………仲良く話してる、だって?」
「違うの?」
「あの修羅場を琴音は知らないらしい…」
「あー…いつも通りお疲れ様なんだね、雫は」
「そう思うなら琴音も参加して欲しい」
「無理無理、楓様を扱えるのは雫だけさ」
「酷い言われようだな楓は」
あれでも良いところもあるんだけどな、と雫は苦笑いを浮かべる。
ただ、その良いところに触れる前に周りが引いてしまうだけで。
そんな愚痴や雑談を交えた相談を終えた雫の手には、お礼と称されたシュークリームが一つ握られていた。
買い食いは余り褒められたものではないが、甘くて美味しいものは正義。
並んで頬張りながら帰路に着いている時、ふと携帯を放置していることを思い出した。
取り出して画面を見てみると、チャットの通知の中にあった陽介からの返信にようやく気付いた。
カバンに放置するクセを治さないと、と帰路で思いながらメッセージを開いた。
《ちょっと話したいことがあったんだ》
《あ、でももうちょい延期することにしたから悪かったな》
時間を見てみると、どうやら返信してからすぐに一通目、その三十分後に二通目が届いており、連続で見た雫は疑問符を浮かべる。
文面から読み取れるのは、内容も知らぬナニカがよく分からないけれど延期になったことくらい。
ぼかしているのか、伝える能力がないのか不明なので、そっと携帯を閉じる雫。
延期と書いてあるし、解決したわけではないらしいけれど…と雫が首を傾げている姿を、隣の座席に座る琴音はとても楽しそうに見ていた。
***
昼休みに陽介が来ることが増え、ちらほらと楓も話をするようになってきていた。
楓のガードは随分と硬いが、それでも顔を合わせ続ければ雫のように対応が柔らかくもなっていく。
突き放されてもめげない陽介の姿勢は『楓の攻略法』として機能しているようで、そんな様子を近くで見ていた雫は秘かに感心していた。
「パンって珍しいじゃん」
「たまにはね」
「にしても、よく菓子パンが昼飯の代わりになるよな」
「黙って食べる」
「アッ、ハイ」
いつも通り、情報収集を目論む陽介と、鬱陶しそうにあしらう楓の攻防が繰り広げられていた。
雫は今日も平和だなぁとぼんやり思う。
というのも、陽介が昼食に参加してからは、放課後に雫が呼び出されることがなくなったのだ。
代わりと言っては何だが、楓がよく呼び出されているので、危機感を持った有象無象さんたちは果敢にアタックをしているのだろう。
ご愁傷様です、とは雫の心情だった。
また、楓が呼び出される度に『合わせる気もない一方的な告白で相手の好意を勝ち取るなんて随分と夢見がちだな』と雫は思っていた。
赤の他人同士が寄り添うには、お互いの歩み寄りが大事になる、と人付き合いを大事にする雫は実感もしている。
けれど、自己紹介もせず、相手のことを知ろうともせず、いきなり告白なんて手段で挑むのは、相手のことを考えていない証明でもある。
その点陽介は楓の日常に入り込んで来ているので効果的なんだろうな、と二人を眺めて考えを伸ばす雫。
そこへ楓が声を掛けて来た。
「雫、今日ちょっといい?」
「なんだ、どこか行くのか?」
「んー…今日は予定があるかな」
「そっか、じゃまた今度誘う」
あっさり引き下がってくれる楓に、雫は心地良さを感じる。
相談ともなれば個人的な内容になるので、一々用件を伝えないのはいつものこと。
そして雫が参加する話は意外と面倒ごとも多いことを楓はよく理解していた。
また、後日談的に話せる内容なら聞かせてくれるため、楓もとやかく詮索することはあまりない。
「あれ、聞いてる? 俺の声聞こえてますかー?」
「もしかして何か急ぎでもあった?」
「大丈夫、楽しんできてね?」
「うん、ありがとう」
「っちょ…ナチュラルに無視はさすがに凹むぞ?」
「うるさい」
「アッ、ハイ…」
こうして平和な昼休みは過ぎていく。
放課後の用事とは、先日呼ばれていた合コンとやら。
初めての参加に、少しだけ期待を抱いて目的地を目指す。
ただ、合コンの何たるかを雫は知らないのは、意外な落とし穴だったかもしれない。
***
「何かあったの?」
どんよりとした空気を引き摺りながら登校した雫。
いつもとは違う様子に、珍しく楓が声を掛けた。
「え、あー…うん、昨日ちょっとね」
「昨日? あぁ、そういえば用事があるって言ってたね」
「合コンに参加したんだけど…」
「………雫そんなのに興味があったの?」
「いや、初めてだから全然分かってなかっただけかな」
「で、どうだったの?」
「結論から言うと楽しくなかった」
「その様子じゃね…」
過去一度も経験していない楓ですら、合コンの概要くらいは知っていたのに、雫は何の予備知識もなしに参加した。
それはそれで随分と人付き合いの良い…いや、むしろ好奇心旺盛と呼ぶべきだろうか。
楓としては呆れれば良いのか、それとも慰めれば良いのか、判断に困るところだ。
「何があったの?」
「そうだなぁ…いきなり告白されたくらい?」
「えぇ!? それでどうしたの!」
「ちょ、うるさいって。そんなの断るに決まってるでしょ」
二時間ほどでお開きになった合コンの直後、雫は一人だけ呼び出された。
何事かと向かえば、ただひたすら相槌を打っていただけの相手からの告白タイム。
まさかの事態に驚きを隠せずにいると、何故かOKされたと勘違いした相手が、頬を赤らめた照れ顔で近付いて来る。
人の行動理由や話を聞かない典型的なタイプと判断し、急激に危機感を煽られた雫はすぐに断ってその場を離れた。
そして現在同席している友人と合流し、近くのファミレスで反省会という名の夕食へと雪崩込んだのだ。
その反省会では、当然のように雫が呼び出された理由を問いただされる。
未だ衝撃冷めやらぬ雫は、告白の件を素直に答えてしまい、嫉妬と羨望の視線を集めることになる。
それなりに整った顔立ちの相手を断った理由を伝えても余り納得されず、「付き合えばいいのに」だとか「嫌いじゃないならお試しでも」だとか。
あの衝撃と恐怖を思い返すと、雫は不本意でしかない。
その間にも、ポケットに入れてあった携帯が震える。
念のために開いて確認する姿を「携帯が気になる?」とか「ちょっと見せてみ?」だとか言われて咎められ、奪い去られる雫の携帯。
お相手は断ったはずの告白者で、届き続けるのはロミオメールと呼ばれるタイプの感情に任せためんどくさい文面だった。
状況を知らないのは相手にとって幸か不幸か…。
雫からすると、内容を見られた相手に『ご愁傷様』としか言いようのない状況なのに、時間を置かずに熱烈なアプローチを通知してくる携帯。
最初こそ「すごい!」とか「熱々じゃん!」とか「何で断った!」といった盛り上がり方をしていたのだが、返信すらしていない携帯に続々と届くメッセージに冷め始める周囲。
いっそ極寒と言えるほどの空気の中で、携帯が奏でる通知と静かな振動音だけが空しく響く。
少し間が空き、状況を理解した面々は「何かごめんね」や「すごいのに当たったね」と雫の判断は正しかった言外に告げ、同情心を見せながら返される携帯。
当事者である雫は釈然としないまま、少ししんみりする空気になったころに頼んでいた食事が届いてうやむやになった。
雫はそっと《今後の連絡お断り》と相手に最後通牒を突き付けてからブロックすることも忘れず、届いたオムライスにスプーンを差し込んだ。
ちなみに数合わせで参加した雫には、今回の支払いが回ってくることはなかった。
もしかするとストーカー一歩手前の相手と出遭って苦労したことへの慰労金が含まれていたのかもしれない。
朝からそんな出来事を楓に愚痴っていた雫も、いつもの日常に浸ったことでお昼を過ぎた頃には随分と落ち着きを取り戻していた。
しかし事件は重なるものである。
「わざわざ呼び出して何かな?」
今はそんなバタバタとした一日を終えた放課後。
肩に掛けたカバンを背負い直した雫は、不服そうな空気を隠しもせずに呼び出しの理由を問うた。
「前に延期してた話をしようと思ってさ」
呼び出した相手は少し緊張した面持ちの陽介。
連絡先を渡していて電話もメールも繋がる。
楓を落とす方法を、本人の目の前で相談するわけにもいかないのは分かるのだが、わざわざ呼ばなくても事足りる。
何より今日も昼休憩には顔を出していたじゃないか、とは雫の感想だ。
「それで、今日は何の用?」
「改めて聞くが、東雲とは仲が良いだけだよな?」
「聞くまでもないことだと思うけどな。
何度もお昼を一緒に食べてるからわかるでしょ」
「わかってる。でも、お前の口から教えてくれないか?」
面倒な奴だな、と雫は呆れる。
ただそんなことで良いのなら、改めて伝えてあげよう。
「僕と楓は付き合っていないよ」
「…好きか?」
「そうだね、嫌いではないね」
「そうか…」
確認の意味は雫にはわからないが、何となくそわそわしているように見えた。
ただ、雫は昨日ストーカーモドキの相手をした心労が色濃く残っている。
相談ならさっさとしてほしいし、確認が終わったのなら解放してほしい。
特に昼休憩に楓が口を滑らせたせいで、陽介を巻き添えに一時的に盛り上がった記憶が新しい今は、一刻も早く家に帰りたかった。
いや、むしろさっさと帰ってシャワーでも浴びて寝てしまいたいと思っているくらいだった。
「確認が終わったならもう行くけど」
「あ、ちょっと待ってくれ」
「何? 時間が掛かるなら明日にしない?」
「いや…ほんの少し…ちょっと聞いてほしいんだ」
「うん?」
「お前が好きだ!」
感情が目一杯に詰め込まれた告白は、いかにも面倒で気怠げな表情をしていた雫にも届く。
ドキリと一瞬鼓動が高鳴るが、相手が違うことを思い出した雫が『たかだか練習に叫ぶほどのことか』と感じてしまうのはきっと悪いことではないはずだ。
「あぁ、ストレートで良いんじゃない?」
「……違う、皇。俺は最初からお前のことが好きだったんだよ!」
陽介の告白は、今度こそお目当ての雫に突き刺さった。
***
毎日毎日、何故こうも事件が起きるのか。
どんよりとした雰囲気で登校を果たした雫。
そして目の前には最初の障害が居た。
「おはよー」
「また、ひどい顔をしてる」
「そうかな」
「そうよ」
ただそれだけのやり取り。
カバンから教科書やノートを取り出して机へ入れる。
「何があったの?」
「ちょっと…ねぇ」
まさか陽介の狙いが自分とは…雫は昨日のことを思い返すと頭が痛い。
よくよく思い出せば、陽介はただの一度も『楓とお近付きになりたい』とは言っていなかったのだ。
そして手紙という間接的な手段で呼び出し、いつもの楓狙いと勘違いした雫と顔見知りになり、直接的に連絡先を交換していた。
何という策士か…虎視眈々と雫の情報収集に勤しんでいた陽介の所業を思い出すと、さらに陰鬱な空気が口から漏れ出てしまう。
「何があったの?」
勉強や成績も一端を担うが、学校という箱庭において、対人関係は最も大きなストレスになりかねない。
しかし雫はその対人関係が得意で、問題を起こしたこともなければ深入りすることもない。
非常に上手く世渡りをしている雫が、二日連続でこうなっていれば楓が疑問を持つのも頷ける。
ただ、自身のコミュニケーション能力を無自覚にも長所だと感じていた雫には、この二日間は消耗が激しく、楓への返答のかじ取りを間違えてしまった。
「そういえば最近僕のことをよく訊くようになったね」
「………訊いちゃダメなの?」
「そういうわけじゃないよ」
「なら何が問題なの」
「いや、問題なわけじゃなくて、不思議だなと思っただけ」
「…わかった、もう訊かない」
ふいっとそっぽを向いてしまう楓と、状況が読み取れず疑問符を浮かべる雫。
お互いの余裕のなさを露呈することになる。
しかしこのすれ違いは大きな亀裂になって横たわった。
そうして迎えた一年二組の昼休憩。
「よっ、雫!」
通うのが恒例になっていた陽介は、昨日の告白などなかったかのように声を掛けて来る。
いや、むしろ以前より遥かに馴れ馴れしい態度に、唖然とした雫は軽く溜息を入れて無視を決め込んで弁当を取り出す。
正面に座る楓は、急に呼び方を変えて乱入した陽介へと視線を向け、不機嫌そうに眉をひそめて問う。
「しずく?」
「あぁ、昨日雫に告白してな」
聞き耳を立てていたわけでもないだろうに、教室全体の空気がざわりと変わった。
陽介の次に視線が集まった弁当を箸でつついていた雫が、顔も上げずに「うるさい、黙れ」と抗議の声を上げる。
あの雫が、この態度…これでは事実だとクラス全員が確信に至ってしまう。
雫にしては痛恨のミスだっただろう。
「照れるなって!」
「寄るな気持ち悪い」
「おい、本気で凹むからやめてくれ」
「第いt
―――バンッ!
色々な思惑が錯綜してざわついていた教室が静まり返った。
椅子を蹴倒し、机を叩いた楓に視線が集中するも、本人は顔を伏せたまま教室を出ていく。
直観的・感情的な楓でも、あんな態度を取った姿を見たことがなく、雫は茫然と見送ってしてしまった。
そして
「帰れバカ」
「え、俺のせい?」
「断ったんだから、僕を避けろバカ」
「バカバカ言いすぎだろ。そう簡単に諦められるかよバカ!」
「うわぁ…めんどう…」
きっぱりと断ったので自然に離れていくものだと思っていたのに、追い縋るとはなかなかやる。
嫌いではなく、むしろ気の合う相手なので余計に対処に困る雫。
ともあれ、楓を放置するわけにはいかない…少なくともクラスメイトは追いかける展開を望んでいるだろう。
「行くのか?」
「うるさいな」
「俺も探そうか?」
「いらない…僕の仕事だから」
素っ気なく陽介をあしらい、雫はほとんど手を付けていない弁当を適当に片付けて楓の後を追った。
楓の行きそうなところ…大見得を切って出てきた雫だが、実は何処も思い浮かばない。
彼女は居るだけで何処であろうと主役になれる。
いつも顔を伏せがちにしていても、たとえ日陰に居ても、華やぎ周囲を彩る…そんな存在感の塊だ。
だからすぐに見つかると思っていた。
彼女の後を追えば、存在感の残り香がぽつぽつと見えると本気で思っていた。
実際、今までは感じ取れていたはずなのに…と、少し焦り気味に雫は速足で廊下を歩く。
はたして、人が集う食堂の裏手に佇む楓を見つけた。
確かに近くにひと気がある場所なら、楓の雰囲気を包み込んでくれるだろう。
変に納得してしまった雫は、思わず仄かに笑ってしまった。
「楓、ご飯食べに戻ろうか」
「……なんで?」
「お腹空くでしょ」
「ちがう、なんで今朝訊いた時に教えてくれなかったの?」
「え、うーん…。一度告白されただけでも驚きなのに、まさか二日連続は想定外だったからかな」
思い返せば、答えに行きつくまでに話題が切り上げられたのだ。
その場では雫の態度も悪かっただろうが、聞き手の楓も我慢が足りなかった。
お互いが気遣いを疎かにし、雑に対応した結果だ。
「…なら、慌ててただけ?」
「いつも通りなら普通に返事してたんじゃないかな」
現に一度目で疲れてはいたものの、合コンの件は楓に伝えていた。
少なくとも楓は雫の疲れた態度に疑問を持ったのだから、少しは配慮すべきだっただろう。
その答えに一定の満足をした楓は、覚悟を決めたかのように珍しく顔を上げて雫を見据えた。
「…雫、私はあなたが好き」
「うん? うん、ありがとう。僕も楓のことを好きになったよ」
一瞬顔を輝かせた楓だったが、すぐに意図に気付いて消沈し、次に「………愛してるって言えば伝わるの?」と絞り出した。
楓の口から零れた言葉に、昨日の陽介と同じく激しい衝撃を受け、恐れおののくように後退る雫。
思ってもみなかった可能性だが、このタイミングで言われればそういう意味以外には取れないはずだ、と反省する。
だが、これだけは言わねばならなかった。
「いや、気持ちは嬉しいけどさ…」
「けど何?」
「僕は『女』だよ?」
言外に『わかってるよね?』と雫は告げる。
カジュアルな赤茶の運動靴を履き、楓と同じブレザーとスカートの制服姿。
ミディアムの髪をふわりと緩く後ろで結ぶ雫は、誰がどう見ても女子高生をやっていた。
容姿が整いすぎている楓が傍に居て気付きにくいが、ひとたび離れれば雫も十分に人目を惹く魅力を持っている。
その証拠に、駅前に遠出した時に雫が警戒していたナンパだが、同行者の琴音は何のことかわかっていなかった。
つまり、本人含め違う他の友達と歩くと気にするほどではなく、雫となら呼び止められる。
楓が非常に目立つから忘れがちだが、雫にとってもナンパは日常的な光景だったのだ。
ともあれ、性別の問題は最初に出てくるもの。
一番最初に考えるべきで、むしろ考え抜いたから楓は声に出している。
雫も楓が同性に攻略される可能性に気付いていても、まさかこちらに向かってくるとは思っていなかったのだ。
「うるさい、だから何だ!」
「えー…性別はかなり大きな問題だと思うんだけど…」
「私のこと嫌いなの?」
「好きだよ」
臆面もなく即答する自分に、雫は我がことながら軽い驚きを感じた。
そして『そうか、だから陽介はあんなにも念を押して訊いてきたのか』と、いまさらに悟ることになる。
こんなことになる切っ掛けを作ったのも陽介なのは何とも皮肉な話でもあるが。
「だったら良いじゃない!」
「うん、何だか良い気もしてきたよ」
「でしょ!?」
楓を探し、告白されて消費した昼休憩に残された時間はあまりない。
昼食をとるのは絶望的で、もういっそサボってしまっても良いか、とも思う楓と雫は最早勢いだけで話していた。
思い返せば初めて楓を見た時に心を奪われていた。
楓はともかく、雫が抱くこの思いは恋心とは多分違う。
けれど、それでもやはり『心を奪われた』と表現するのが雫の中では一番正しい。
「でもなぁ…普通は男女間でするものなんだけどなぁ」
「…うるさい。雫はもう私のものなんだ」
「その台詞はぐっとくるけど、一足遅かったかな…」
「何が?」
「一昨日のロミオメールの中にあったよ」
たった二時間ほどの相槌でベタ惚れ(?)してきた、あの変な男を思い出す。
ぼんやりと宙に視線を泳がせる雫に、楓がぶつかるように抱き着いた。
「がーー! 雫がそんなだから、私がいつも怒るんだ!」
「そうなの? ははっ、それは良いことを聞いたね」
ギュッと抱き留める雫の腕の中で「っく…殴りたい…」と悪態を付くものの、嫌がるどころか楽し気にする楓。
体育で二人組になって触れ合う経験は数多あれど、こんな風に抱き着くことなんて過去に一度もない。
雫はよくわからない胸の高鳴りを感じながら、結局楓に押し切られる形で告白を受けることになっていた。
とはいえ、特に二人の関係性が崩れることはない。
ただ二人だけが知り、そして今までの距離が、触れるまでほんの少し近付いただけ。
また、口出しされても面倒なだけなので、周囲に知らせないことだけは取り決めた。
この誤差とも言える空気の違いは、近しい人にすら気取られることもないだろう。
ただ…雫を想い、振られることとなった陽介は、帰ってきた二人を見てつらい現実を感じ取ってしまっていた。
「そっか、そうなるかぁ…」
「ん? どうしたの?」
「いや、完璧に振られたなぁと思って」
「そもそも最初に断ったよね?
なのに一年二組に来て、公開告白を勝手に始めるなんて頭おかしいんじゃないの?」
いつになく辛辣な雫の言葉は、陽介に突き刺さって大ダメージを与え、失恋で消沈している心はさらに抉られて項垂れる。
逆に気分上々なのが楓で、表情や言動は普段と同じだが、なんとなく浮足立ったような雰囲気が微かににじむ。
元々漂っていた艶のある色香も呼応して華やぎ、ますます人を惹き付けるようになっていた。
告白件数の増加は間違いない…雫は他人ごとのように考えていた。
「うざい」
「東雲は相変わらずきつい…」
楓が放つ一刀両断の言葉に呻くくらいしか返せない陽介。
昨日、今日と多大な心的ダメージを負った彼のライフゲージはとっくに残っていなかった。
***
知人、では遠すぎる。
友達、だと物足りない。
彼女、と呼ぶのは何か変。
恋人、が最もニュアンスが近くても、何処か不自然さがある。
雫はそんな特別な相手で、不思議な立ち位置に居ると楓は考えていた。
そして仲の良いカップルがたびたび話題に上げるように、楓の前に座る雫もふいに質問を投げかけた。
「僕の何が良いの?」
学校の帰り道。
途中まで一緒に帰るようになった二人が、気まぐれに入った全国チェーンのカフェの端っこでポロリと零した純粋な疑問。
雫は自分の性格を把握していて、だからすり寄って来ることの多い相手も理解している。
気弱な性格で人と余り話せなかったり、承認欲求がことさら強かったり…と、相手の言動に依存症する性格に好かれるのだ。
その点楓は正反対。
芯が強く他者を拒絶する反面、近付ければ軟化する。
主張を曲げることはないけれど、意見を聞き入れないこともない。
直観的・感情的でありながらも理性的な側面を持ち、素直で賢いが表現が直接的で短文になりがち。
陽介への辛辣な物言いも、この辺りの性質が前面に押し出されているためだ。
こんな相反する性質を持つのは、時間差によって対応が変わるから。
瞬発的な判断は直観で即応、時間を取れるなら論理的に説き伏せるように変わる。
当たり前とはいえ、この落差が大きすぎる楓は、人に合わせるのが得意な雫にとって、予想外のびっくり箱を開けるかのようでいつも楽しませてくれるのだ。
「私を怖がらないから」
「いや、僕以外にたくさん告白されてるでしょ」
「そうじゃない。私の本質を知っていても怖がらないから」
「本質?」
「私が怖くないの?」
「え?」
きょとんとした雫に、顔を伏せる楓は少し震えているように見える。
何かいけないことを訊いたかもしれない…雫の危機感が警鐘を鳴らしていた。
「入学式の日に雫が聞きそびれた言葉だよ」
「聞きそびれた…?」
いつもと同じく伏せがちな楓の顔を覗き込むように問いかける雫。
記憶を遡れば確かにチャイムにかき消されて聞き取れなかった呟きがあった。
出逢ったばかりのあの時は『変わった奴だな』くらいで流していたが、今となっては重要な呟きだったのだろう。
そんな深い話をしたつもりはなかったのだが、どうやら随分と真面目な話へと突入してしまったようだった。
どうしたものか、とうつむきがちな楓を見ながら雫が対策を考えていると言葉は続いた。
「私が目を合わせるとね、みんな気絶しちゃうの」
「え?」
「…昔から私の前で立ち竦んでしまう人は多かった。
もっと小さい頃は『どうしたのかな?』って思っていたけど、ある時を境に気を失う子が出てきちゃった」
その『ある時』を楓は明確に覚えてはいないらしい。
けれどこれは、彼女が小さなころから抱えるトラウマに他ならない。
恐らくこんな話をした相手はそう多くないはず…そう察した雫は、相槌を打つように初対面のことを思い浮かべた。
「それで僕も初対面の時に…」
「うん、だからいつも人と目を合わさないようにしてるんだ」
伝わるように頭を使い、引かれないように言葉を選び、そして何より嫌われないように懸命に伝える。
被害者面はできないししたくないが、加害者であることは不本意であるとは知ってもらいたい…。
楓はテーブルの下で手をギュッと握りしめ、起こりえる様々な結末に覚悟をしていた。
対する雫は入学式の出来事を思い返していた。
確かに視線を合わせた瞬間、意識がブラックアウトしてしまった。
特に何かをされたわけでもないのに、本当にいきなりスッパリと…その後のことは覚えていない。
介抱をして人を呼んだのは楓だそうなので、ある意味慣れっこなのかもしれない。
あぁ、そうか。
と雫は変に納得してしまった。
かたくなに視線を合わせないのは相手のため。
強気な態度で拒絶するのも同じ理由。
わざわざそんな障壁を自分で作っているのに、それでも近付いてくる人が居れば拒絶しきれない…。
彼女は人知れず優しくて、だからいつも寂しい思いをしているのだろう。
「そんな目に遭った本人たちも理由はよくわからなくて問題になったことはないよ。
けれど私はみんなを避けていた。
関わらなければ目を合わせることもないし、目を合わせなかったら人が倒れることもないからね」
「だから楓は人を見ないんだね。
嫌ってるわけじゃなくて、相手のことを思って…」
「まぁ、ね……でも雫はそんな私と視線を合わせようとしてくれる。
今も合わせたらどうなるか分からなくて怖いけど、それが嬉しくて…気付けば、ね?」
やはり目を合わせようとせず、黒髪の奥で揺らめく視線を下げ、不安気な表情がらも頬を染める楓。
そんな楓が信じる現実を、雫は少しだけ外から、そして斜めに見る。
たとえば「家族は大丈夫なの?」と。
「大人は大丈夫」
「大人は…か。何となく理由は分かったよ。
でも多分、もう僕には心配いらないと思うよ」
「どうしてそんなことを言えるの?」
「予想だけどね」
教わった条件をいくつか並べた雫は、ピッと人差し指を立てて説明口調で楓に語り掛ける。
実際に体感した雫の意見も含めると、意外と簡単な答えにたどり着いたのだ。
そうして導き出した答えを証明することは難しいが、雫には確信があった。
「楓は見た目が整ってるでしょ」
「うん、まぁ…」
「否定しないところが楓らしくて良いね」
「茶化さないで!」
「こほん、では改めて。楓から発信される情報が多すぎるんだよ」
「…わかるように教えて」
「僕はね、楓を初めて見た時に感じたんだ。
楓が風景から浮き出すような印象。周囲を書き換えるような存在感。引き込まれるような感覚を強烈に覚えてる」
少しだけ気障ったらしく表現した、直接的ではない誉め言葉。
そこに気付くほど楓に余裕はなかったが、少しだけ雫の頬が赤みを増していた。
「余計にわからないんだけど…」
「だから楓から受け取る情報が多すぎるんだよ。
全神経が、楓を理解するために集中しているところに『感情を表す』って言われる目まで追加されたら、情報過多で意識が飛んじゃうのさ」
「え? は?」
今まで理由もわからず悩んでいたことだ。
戸惑う楓を雫は優しく笑って頭を撫でる。
指先を通して受け取る柔らかいすべすべの黒髪の感触は、いつまででも撫でたくなってしまう。
「ま、感覚から考えた適当なでっち上げなんだけどね」
「適当なの!? 私は真剣なのに!!」
「ははっ、別に嘘ってわけじゃないよ。
僕はその答えで合ってると思うし、実際にその通りなんだからね」
「…ちゃんと説明して」
「条件の一つ目、大人は大丈夫で、子供は気を失う。
二つ目、立ち竦むことが多く、視線を合わさなければ大丈夫。
三つ目、過去に意識を失くした僕でも、今なら楓を見つめていられる」
黒髪の合間から雫を見ていた楓の視線に合わせ、ジッと近距離で見つめる。
思いもよらぬ答え合わせにぽかんとしていた楓の頬が色づくのを見計らい、にこりと笑って撫でていた頭をぽんぽんと軽く叩いて手を放す。
少し背伸びした態度を取った自覚のある雫もこっそりドキドキしていたが。
「あっ! 危ないよ雫!」
「まぁ、大丈夫だったし良いんじゃないかな。それにその時は楓がきちんと面倒見てくれるでしょ?」
「う…するけど…しますけど!?」
恥ずかしさの余り、少し引きつった声を張り上げる楓。
目立つ楓の声に衆目を集めたのを気にし、即座に声のトーンを落として「雫のバカ…」と呟いた。
実に微笑ましい態度に、雫はカップに口をつけて零れる笑みを少し隠し、表情を落ち着けてから話を続けた。
「きっと子供には刺激が強すぎるんだよ。
それか感受性が豊かとか…ほら、大人なら大丈夫だし、僕みたいに楓と触れ合えば周りも慣れるんじゃない?」
「そう、かな…?」
「さぁ…?
試してみても良いし、やらなくても良いんじゃないかな。
楓は今のまま、横顔を見せてるだけでも周りを惹き付けるわけだしね」
「雫は私の見た目だけが好きなの…?」
おずおず、といった雰囲気で問う楓。
おかしなことを聞いてくるな、と雫は呆れてしまう。
けれど確かに面倒ばかり見られているように感じて不安を持つのも仕方ない。
「僕は楓が気になって仕方ないのに酷いな」
「答えになってない…」
「そうかな?
楽しいことも、困ったことも…何をするでも、僕の予想を外す楓のことばかり考えているのに?」
「………今はそれで許す」
「そ、良かった」
好意の質は少しずつ違っても、お互いを想い合う気持ちは深い。
二人は独特の雰囲気でカフェの一角を陣取る。
知らぬは本人たちばかり…声のトーンが抑えめでも、目立つ楓となだめる雫は周囲の興味を集める。
初めて出逢った時に楓が見せた憂いの浮かんだ瞳は、今は雫に向けた優し気な笑みに満たされていた。
お読みくださりありがとうございます。
楽しんでいただけたでしょうか?
さて、普段は魔物倒したり、迷宮攻略したり、対人に至っては戦いすらしなかったりと、ファンタジーで大暴れする子供ばかり書いているので、非常に苦労しました。
正直完結させられたのが奇跡なんじゃないのと思うくらいで、上手くまとまっていれば嬉しいです。
そんなもやしの感想よりも重要な謝罪から。
必須項目との指摘を受けたので、チェックを入れた上で少し手直しして再掲しております。
流れに大きな変更はありませんが、読み返したく小説になっていれば幸いです。
さて、もしも思惑通り、性別に騙された方は、その旨を感想欄などでご報告いただければ幸いです(笑
この短編に限らず、他の作品もご用意しておりますので、そちらもご覧いただければ喜びますよ!