As time goes by
「もう後十分くらいで着くよ」
その言葉に利香が顔を向ければ、SUVの後部座席の窓から見える風景はいつのまにか、ビニールハウスの畑が連なる長閑な景色から防風林の松林に変わっていた。
「ごめん、利香。日焼け止め貸して」
「いいよ。待って」
横からの声に頷き、鞄の中を漁る。取り出した日焼け止めを差し出せば、「サンキュ」と、それを受け取った菜々の手首で金の輪が揺れた。
ブランド物のそれは、去年のクリスマスに菜々が彼氏と互いにプレゼントしあったものだ。ペアブレスであるそれの片割れは、現在運転中の真也の腕で同じように揺れている。
二人の出会いから付き合うことになった経緯まで、利香は全部知っている。菜々は高校時代からの利香の親友で、真也も高校時代からの利香の友達だ。今はそれぞれ別の大学だが、三人の関係は高校の時から変わらない。
菜々からはよく喧嘩の愚痴も聞かされるが、ミーハーな部分もあれどお洒落で明るい菜々と、好奇心旺盛で新しいもの好きな真也は、つくづく似合いのカップルだと利香は思う。おまけにとても世話焼きというか、二人とも心の優しい、友達思いのカップルだ。
『今度の土曜、利香も一緒に海に行かない?』。木曜の夜、友達の誘いを断って一人暮らしのマンションの部屋にいた利香に、そう電話をかけてきたのは菜々だった。
最近サーフィンを始めたという真也の願いで、近頃のデートはもっぱら海ばかりらしく、行くのはいいが、真也が海で波と戯れている間、菜々は一人でつまらない。特に予定がないなら話し相手になってほしいという頼み口調のその誘いに利香が頷いたのは、電話口で十五分近く粘られたせいもあるが、以前よりずっと家に籠るようになった自分を、菜々が心配していることを知っていたからだ。
元来の利香は、家に一人でいるより、外で誰かと一緒にいることのほうが多い人間だった。幼い頃から社交的で大勢でわいわい遊ぶのが好きだったし、多少気が強く意固地な面もあるものの、フランクな性格で男女年齢関係なく交友関係も広かった。 楽しいことが好きでノリが良く、大体いつも賑やかな集団の輪の中心にいる人、それが利香だった。
菜々はそんな利香を知っているから余計、今の利香が心配なのだろう。別に家に一人でいるからといって、菜々が危惧するようなことはないのだが、そう言って聞かせたところで心配が薄れないことも知っている。親友に心配をかけすぎるのもよくない。それに、海は好きだ。クラブの騒音や疲れるだけの酒の席に付き合うより、ずっとましだと思った。
それがまさか、こんな裏があろうとは。
「あ。そういえば、悠くん。この前言ってたあれ、買ったよ」
「お、マジで?」
思い出したような菜々の声かけに、助手席に座って真也と談笑していた顔が振り向く。
約一ヶ月半ぶりに目にすることになったその顔に、利香は体の奥で溜息にならない息を零した。
利香が悠と初めて会ったのは、遺品処分の際に借り物の分まで紛失してしまったレコードを探すため、男友達とレコ屋を回っていた時だった。
悠は、利香の友達の友達が連れていた友達だった。雪がちらつく寒い日だったことは憶えているが、その時悠と直接言葉を交わしたかどうかは、利香は憶えていない。ただ、口の大きな人だなと思ったことはぼんやり憶えているから、顔は見たのだろうと思う。
二度目に会ったのは、ほぼ無理やり参加させられた友人宅での飲み会だった。
レコ屋で顔を合わせてから、二週間かそれくらい後だったはずだ。そこで初めて悠の名前を知ったし、通っている大学や利香より一つ年上であることも知った。気さくで楽しい人という印象も、その時持った。だが、友達の友達という認識から外れるほどのものは感じなかったし、その場に居合わせたのも偶然なら、連絡先を教えてと言ってきたのもいわゆる社交辞令で、顔を合わせるのもこの場限りだと思っていた。
しかし、三回目に会った時。ちょうど桜が咲き始めた頃だった。度重なる誘いに断る口実もついにはなくなり、食事だけならと渋々応じたら、その帰りに好きだと言われた。
正直に言うなら、その前から薄々分かってはいた。初めて会った時に一目惚れしたという話や、あの日利香がレコ屋にいた理由や事情など人伝に聞いて色々と知っていること、その上で、利香を紹介してもらうために友達に頼んで飲み会をセッティングしてもらったという打ち明け話には多少驚いたものの、度々の誘いや実際会っている間の態度などから、悠が自分に特別な好意を抱いていることが読み取れないほど利香は鈍感ではなかった。
しかしながら、そういうのはもういらない。それが利香の素直な気持ちだった。だから、付き合ってほしいという悠の告白をその場で断った。
別に悠がどうこうというわけではない。相手が誰であれ答えは同じで、そこに迷いは微塵もなかった。
それから、数カ月。もう会うこともないだろうと思っていた利香の予想は外れ、悠はちょくちょく利香の日常に現れるようになった。利香が赴いた先に、悠が度々居合わせるようになったのだ。
元々友達の友達だから、行動範囲や交友範囲が被っていても別段おかしくはないのだが、いつのまにか利香の友達と悠が友達になっていたりして、顔を合わす頻度が段々と多くなっていった。菜々や真也もそうだ。二人とも、いつのまにか悠と友達になっていた。
別に、そうやって共通の友達が増えることが嫌なわけではない。悠は優しくて気が利くし、フレンドリーな分、あらゆるところで顔も利く。年相応に真面目で不真面目でノリもいいし、一緒にいて楽しいタイプだ。友達になりたいと周りが思うのも分かるし、好きにすればいいと思っている。
利香が嫌なのは、悠が利香に対してまだ恋愛感情を持ち続けているということだ。
と言っても、別に悠はしつこく言い寄ってくるわけではない。少なくとも利香に向かっては、その話を蒸し返すような類のことは一度も口にしていない。だから利香にしても、友達の一人として普通に接する他ないのだが。
しかし、隠すつもりがあるのかないのか時折じっと見てくる目や、些細な気遣いなど、悠が利香だけに向けるそれらに無頓着でいられるほど利香は純粋ではないし、それらの根底にあるものに対して無関心を貫けるほど強くもなかった。
だから、出来るだけ会わなくて済むようにした。出来るだけ、会いたくなかった。
だというのに。
「なんで、悠くんまでいるわけ?」
「なんでって。いたらいけないってことはないでしょ。友達なんだし」
砂浜と道路の境になっている階段に並んで腰かけ、睨むような目つきを向けた利香に、菜々は大きめの日傘をさしながら言い訳するように口を窄めて返した。
穴場だという海岸には人は殆どおらず、悠や真也のようにサーフィンやボディボードに興じている人が遠くに数人いるだけだ。
九月も半ば入ったとはいえ気温はまだ夏を引きずっていて、早朝を過ぎた太陽の日差しに階段のコンクリートがゆっくりと熱を孕みだすのがデニムのホットパンツ越しに伝わってくる。
海風に泳ぐ肩より少し長い髪を耳の後ろに撫でつけた利香の横で、アップにした髪の後れ毛を同じように泳がせながら、菜々が軽く肩を竦ませる。
「悪くないと思うけどな、悠くん。優しいし、雰囲気もなんとなく利香と似てるしさ。顔だってかっこいいじゃん」
「そういう問題じゃない」
思ったよりもきつい響きになった自分の声に、利香はやや目線を落とした。
菜々はそんな利香を少し見た後で、どこか労わるような声を寄越した。
「内緒にしたのは謝る。悠くんが来るって言ったら、利香、来ないと思って」
「まさか頼まれたの?」
「違うよ。でも利香、ここのところ引き籠りに更に磨きかかってるし、利香がどうしても嫌なら無理強いはしないけど、たまにこうやって一緒に遊ぶくらいはよくない?」
ぶすりとして自分の足元を見る利香に、菜々が子供に言って聞かせるように言う。
足は階段の上で、砂浜には降ろしていない。それなのに、海風で飛んでくるのか、サンダルの中に砂が入り込んでざらざらする。そのざらつきが心までざらざらにしていくようで、利香は立ち上がった。
「あっちに自販機あったよね? 冷たいの飲みたいから、何か買ってくる」
話から逃げたことは明白だが、さっぱりと明るく言って見下ろした利香に、菜々は合わせるように明るく笑ってくれた。
「私、柚子サイダー!」
「はいはい。菜々、本当それ好きね」
「日傘持ってく?」
「んーん。大丈夫」
掲げるように日傘を持ち上げた菜々に首を横に振って、財布を手に歩き出す。
サンダルの中の砂は纏わりつくように、ざらざらと利香についてきた。
しつこいその感触に小さく舌打ちし、腰の高さほどの防波堤に手をついてサンダルを脱ぐ。砂を手で払い、海風にふと顔を上げれば、水平線の彼方まで広がる海がきらきらとそこに存在していた。
寄せては返す波のように、利香の体の奥に、吐くことの出来ない溜息が溜まっていく。
別に引き籠っているわけではない。大学は夏休みだが、数日に一度はスーパーに日用品等の買い物に行っている。遊びにも、誘われれば二割くらいは応じているし、海にだってこうして来ている。これ以上、何を利香に望むというのか。利香は何も望んでいない。離れて暮らしてはいるが親もいるし、友達もいる。生活に不足があるわけでもないし、体だってどこも悪くない。これ以上、何を望めというのか。何も望まない。何もいらない。何もかも、欲しいとも思わない。
自分はもう死んだのだと、利香は思う。一年と八ヶ月前に死んでしまった。
もう、死んだ当初のような苦しみもなければ、痛みも悲しみもない。ただ時々、たまらなく辛い。
今だって、太陽の熱が辛い。海の眩しさが辛い。肌に触れる潮風が辛い。生きていることを知らせる、生きているものから発せられる全部が辛い。
いっそ本当に死ねたなら、きっとこんなふうにはならなかった。
ざらざらときらきらを持て余し、溜息を抱え込んだまま辿り着いた自販機には、菜々所望のジュースはなかった。
あまり利用する人もいないのだろう、どことなく古びた、世間から忘れられたような自販機を前に羨ましさを感じてしまう人間は、自分の他にどれくらいいるのだろう。そんなことを頭の隅で考えつつ、お茶にするか炭酸飲料にするかで少し迷う。どうせ四人いるのだし、二つずつ買っていけばいいかと利香が手を動かしかけたその時、出来ればあまり聞きたくない声が背後からした。
「彼女、ひとり~? 奢ってあげよっか~」
「本当~? 嬉しい〜。じゃあ旦那と子供の分合わせて三十人分よろしく~」
「どんだけ子沢山?」
ふざけた応答に笑って近づいてくる悠を、利香も同じように笑いながら振り返った。
海から上がったばかりなのか、裸の肩にバスタオルをかけ、サーフパンツにビーサンといった出で立ちの悠は、普段街で見るより何となく幼く見える。濡れた前髪を後ろに流して額を出しているせいもあるかもしれない。
菜々が言っていたように、悠はかっこいいと称される部類の顔立ちをしている。二重の目も、少し大きめの口も、形がよくバランスがいいし、背も平均よりやや高く、程よい肉付きの健康的な体躯で、ぱっと見で目を引く。利香はよく目立つタイプと言われるが、恐らく悠もそうだ。そういうところも含め、育ってきた環境やこれまでの経験など、決定的な一つを除き、利香と悠は何かとよく似ている。悠のほうが、性格的に利香より人当たりが柔らかいのは否めないが。
きっと、雰囲気が似ているというのはそういうところから来ているのだろうと利香は思う。そしてきっと、だから悠は利香にシンパシー的なものを感じてしまったのだろう。だが、悠は肝心な部分を見落としている。利香はもう死んでいるのだ。
「どうしたの?」
「うん」
顔に浮かべた笑みを崩すことなく聞いた利香に、横まで来た悠がタオルで髪を雑に拭きながら言う。
「車に忘れ物取りに来たついで」
「菜々達は?」
「真也はまだ海。菜々ちゃんは待ってるって。俺、炭酸がいい」
質問に答えながら自販機に千円札を食べさせている悠を目に、また一つ、利香の中に溜息が増える。
「りょーかい、お汁粉ね」
「炭酸っつったよね、俺、今。一文字も被ってなくね?」
ついでも何も、車を停めている駐車場は反対方向だ。そも、悠が出だしに「うん」と言う時は大抵、答えを誤魔化そうとしている時だというのも、利香はもう感づいている。とはいえ、そこを敢えて追及したところで、吐くことも出来ない出来損ないの溜息が増えるだけだ。
腫れものに触れるのを厭うように、表面上だけの軽口を叩きながら四人分の飲み物を買い、自販機の取り出し口から取り出す。しかし、腰を屈めた拍子に顔にかかった髪を耳にかけたところで、結局また利香は体の奥で溜息を零す羽目になった。
「何?」
屈めていた体を起こし、横からの動かない視線に顔を上げる。案の定、悠はじっと利香を見ていた。
「うん。いや。元気?」
「元気よ。生理痛で今にもぶっ倒れそうだけど」
「え、マジで?」
「嘘」
ぞんざいに言い捨てて、悠の分の炭酸飲料を渡す。溜まっていく一方の溜息が重い。目は口程に物を言うとはいうが、悠のそれは口より物を言うと利香は思う。もっとそっと盗み見するとか、こちらが注意していないと気づかない程度ならまだ救いがあるものを、勝手にサンダルに入り込んで自己主張をしてくる砂並みに厄介だ。いや、簡単に取り除いてしまえない分、もっとひどい。
「ジュース代、ありがとう。戻ろ?」
促して、そそくさと踵を返す。悠とあまり長くいると、出来損ないの溜息で窒息してしまいそうだ。菜々と真也には悪いが、来なければ良かったと心底思う。メンバーに悠がいることを知らなかったとはえ、その可能性はゼロではなかったのだから、いくら菜々の誘いでも応じるべきではなかったのだ。
意識せずとも、心が荒くざらざらになっていくのが分かる。砂どころか、もはやヤスリのようなそれに、利香自身、心地が悪い。
知らず俯き加減になっていた視界に、不意に影がさした。咄嗟に身を引いた利香の前で、横から伸びてきた手が、利香が両手で胸に抱えるようにして持っていた三つの缶のうち、利香が自分用として買った一つを残して他二つを取って去っていく。
「手、冷たいっしょ」
思わず一瞬きょとんとして見た利香に、悠が片手で缶二つを持ちながら当たり前のように言う。
確かに冷たいことは冷たかったが、別に氷のようというわけではない。それくらい持てると言いかけた言葉は、しかし、利香の前に飛んできた小虫を払う悠の動きに声になることなく消えた。
悠はいつもそうだ。街中では、気が付けば利香を庇うように車道側を歩いているし、前からでも後ろからでも自転車が来れば、さりげなく利香を脇にやって庇ってくれる。安いだけが取り柄の居酒屋でみんなで飲んでいて、トイレに立った利香が知らない人に絡まれそうになった時も、至極自然に間に割って入ってきて助けてくれたし、ペットボトルなどの蓋が固くて苦戦していれば、利香が助けを求める前に手を貸してくれる。
周りの女友達は、そんな悠を優しいという。利香は愛されているねともいう。確かに優しいのだろう。大事に思われてもいるのだろう。それは否定しない。しかし利香にとってすれば、それらの悠の行動は辛いだけだ。
小さな子供じゃないのだから、車にせよ、自転車にせよ、酔っ払いにせよ、固い蓋にせよ、冷たい缶にせよ、虫にせよ、利香一人で何とか出来る。実際、悠がいない時は、利香一人で何とでも出来ていることだ。そんなにいつもいつもお姫様みたいに守ってもらう必要はない。悠が利香を恋愛感情で好いているのであれば尚のこと、そういうのはいらない。欲しくない。辛くて泣きたくなってしまう。爪の先ほどでも自分を思ってくれるなら、知らん顔で放っておいてくれたほうが、どれほど。
「悠くんさあ」
ざらざらになりすぎた心の壁に擦られて、蓄積した溜息が一斉に爆発した。そう思うほどに突発的に勢いよく、気が付けば利香は口を動かしていた。
「モテるでしょ。優しいし、かっこいいし。大学の子とかに結構告られたりしてるんじゃないの」
「なに、いきなり。何のヨイショ?」
「もうやめなよ、私のことなんか好きでいるの」
突然の話題の内容に、は、と、笑い顔になった悠の顔を横から真っ直ぐ見上げて言う。
途端、悠の笑い顔が強張るのを利香は目を逸らすことなく見ていた。
「え、マジでなに。てか、利香ちゃん、俺がまだ自分のこと好きだと思ってんの?」
「実際好きでしょ?」
間髪入れず問いを突きつけた利香に、悠がたじろいだように動きを止める。逃げ場など与える気はなかった。もう終わりにしたい、その一心だった。
立ち止まった悠に合わせて、利香もまた立ち止まる。少し離れた松林からだろうか、蝉が鳴きだすのが聞こえた。
悠は躊躇いがちに利香を見たり、やや斜め下を見たりと一人視線を彷徨わせていたが、僅かな沈黙の後、結局降参したように不承不承に言って返した。
「……実際、好きですけど」
その答えに、利香は務めて明るい声と笑顔を作った。
「やめなよ。時間が勿体ないよ。悠くんなら、すぐに彼女の一人や二人や三人や五十人出来るって」
「いや、そんなにいらないし。……つーか、久しぶりに会えて話せたと思ったら、なにこの流れ。なんで俺、二回もフラれてんの」
「久しぶりってほどでもないじゃん」
「久しぶりじゃん。俺、何回電話したよ」
「私、電話嫌いって言ったじゃん。ラインは返したでしょ」
「一回だけ、それも業務連絡みたいなやつだけね」
「業務連絡って」
故意に軽く笑う。利香のそんな軽い調子や明るい口調が気に入らないのだろう、悠は悄然としながらも非難めいた目を向けてくる。
「ずっと、誰がいつ何に誘っても、顔出さなかったじゃん」
「今日こうして来てるじゃん」
自分は酷なことをしていると今更ながら利香は思う。けして悠を手酷く傷つけることが本意なのではない。しかし同時に、目の前で悄然としている悠をどこか他人事のように感じているのも本当だった。今悠が感じているはずの胸の痛みは、利香も嫌というほど経験したことがある痛みのはずなのに、ぼんやりとした感情の輪郭しか思い出せない。やはり自分はもう死んでいるのだろう。
利香がそんなことを考えている前で、悠は飲みかけのジュースの缶を持った手で頭を掻こうとして、やりにくかったらしい。徐に利香に背を向け、後ろの防波堤に缶をまとめて置くと、結局頭を掻くことはせず、大きな溜息をひとつ吐いて、また徐に利香のほうを振り返った。
「あのさあ。すげえ今更な話していい?」
間に自転車が一台余裕で通れるほどの距離を挟んで、悠が利香の顔を見る。
じっと見てくる悠の目は、やはり口よりずっと雄弁で、利香は溜息を吐きたくなったが、これが最後だと黙って受けて立った。
「俺、結構マジなんだけど」
「ごめん」
「……俺のこと嫌い?」
「嫌いとか好きとか、そういうんじゃない」
「……気持ち変わるまで待つっつーのは?」
「なしで」
「は、容赦ねえな……」
即答できっぱり口を動かす利香に、悠が眉を歪めて困ったように小さく笑う。しかしながら、その苦い笑みも長くは持たなかった。
打ちのめされたように、ふらりと力なくその場に座り込み、挙句腕で顔を隠すようにして消え入りそうな息を吐いた悠を目に、多分もしかしなくても、ここまできっぱり拒否されることは悠のこれまでにはなかったのではないかと利香は思った。
少し考え、立ち位置は同じまま、同じ目線になるようしゃがみこんで、汗を掻き始めたジュースの缶をアスファルトの上に直接置く。そうしてから利香はつっけんどんに口火を切った。
「性格悪いでしょ、私」
「はあ?」
顔上げた悠が渋面で見返してきたのを良しとして、殊更不愛想に口を動かす。
「嫌いになっていいよ。顔は好みだけど、中身が最悪だったってことでいいじゃん。さっさと他に行きなよ」
「さっさと他に行きなよって……んな簡単に言ってくれんなよ」
「簡単でしょ」
突き放すように言って、利香は真っ直ぐ悠を見た。
「悠くん、一目惚れって言ったよね。それって単純に顔が好みってだけでしょ。こんな顔、探せば似たようなのごろごろしてるよ。なんなら、誰か紹介しようか? 可愛い子いっぱいいるよ」
口を挟む余地を許さず捲し立てて、最後に畳みかけるように笑顔をつける。効果はあったのだろう、信じられないほど不愉快なものを見るような表情で悠は利香を見ていた。
悲しみの感情よりは怒りの感情ほうが、人は消化しやすい。利香が経験から知ったことの一つだ。
さすがに明日や明後日には無理でも、あまり長く悠が失恋の傷を引きずらずに済めば、それが一番いい。そのために必要なら、利香のことなど忌み嫌ってくれていいし、罵詈雑言でも何でも浴びせてくれて構わない。全部責任もって受けるから好きに罵れと、利香はやや顎を上げてみせた。
しかし、それがいけなかったらしい。
「あー、はいはい、分かった。ムカつかせて嫌いにさせようって魂胆ね」
そう言った声は不機嫌に変わりないものの、悠はその表情を怒りというよりは呆れの色が強いものに変えてしまった。まだたかだか二十歳前後の人間の浅知恵ではあったが、完全に見抜かれているあたり、もしかしたら、悠も同じことをいつか誰かにしたことがあったのかもしれない。微妙に失敗に終わった企みに、利香はすぐには次の言葉が出てこなかった。
一方で悠は、利香からやや顔を逸らして、苛々を吐き出すような溜息を吐いた。自棄気味に片手で髪を掻き毟り、その手で頭を抱えるようにして言う。
「俺が好きでいたら、そんなにダメ? 別にどうしても付き合いたいってごねてるわけじゃないじゃん、ただ好きなだけで」
「ただ好きなだけでも。好きでいられるのが辛い」
「はっ、なにそれ……。俺のほうが辛いわ」
「じゃあ、やめなよ」
傷つけたいわけじゃない。ただその気持ちが辛いから、もう本当に限界だから、やめてほしい。それだけなのに、通じないもどかしさに知らず利香の声が強くなる。意図せず撥ねつけるような響きになったその声に、悠の眉根にぐっと力が入った。
「なら、利香ちゃんもいい加減、『修ちゃん』やめろよ」
瞬間的に自分がどんな表情を浮かべたのか、利香には分からない。だが、恐らくそんなに変化はなかったはずだと思う。
以前は確かに、思わぬところでその名前を聞くだけで、利香は心の均衡を失っていた。だが、それらの苦しみはもう利香の上を通り過ぎている。それに何より、周りを安心させるために表情を作るようになってからこっち、本当の意味での表情筋は錆びついてしまって殆ど動かない。だから、恐らくそんなに変化はなかったはずだ。
しかしながら、その時利香を見ていた悠の表情は利香に、自分はそんなに酷い顔をしただろうかと思わせるほどのものだった。
「ごめん……」
謝りながらも、どこか愕然としたように悠が目をやや俯ける。その酷く傷ついたような顔を不思議な気持ちで見ながら、利香は静かに口を開いた。
「修ちゃんのこと、どこまで聞いた?」
初めて利香に好きだと言ってきた時、悠は人伝に聞いて修介とのことを知っていると言った。だから、知っていることは分かっているが、何をどこまで聞いて知っているのかは知らない。
それを聞きたくて利香は尋ねたのだが、悠は目線を俯けたまま、言い淀むように口籠ってしまった。もし修介について多くを聞いているのなら、それをありのまま口にすることが憚られるのだろう。修介はそういう類の人間だった。それでも利香には、この世の何よりも大事な存在だったが。
「まあいいや。最終的に自殺したのは聞いたよね。あの時、修ちゃんが死んだ時、私も死んだの」
返事を諦めて、口を動かす。淡々と、しかしきっぱりと言ってのければ、悠が目線を上げて利香を見た。
じっと見てくるその目に言い聞かすように、利香は出来るだけ真っ直ぐに顔を向けて続けた。
「もう死んでるんだよ、私は。だから、諦めて」
「……生きてるじゃん」
「死んでるの。もういいじゃん、いい加減放っておいてよ。私は何ももう欲しくないし、何もいらない、必要ない」
知らん顔で放っておいてくれた方が、どれほど楽でいられるか。周りの人達の優しい気遣いも、労わりも、心配も、同情も、愛情も、何も欲しくない、望んでいない。自分が酷い我儘を言っていることは分かっている。恵まれていることに感謝すべきことも。しかし、どうしようもないのだ。そういうものを向けられるたびに、どうしようもないほどに、たまらなく辛いのだ。
親も友達も、利香を愛してくれる。利香がいなきゃ嫌だと、利香が必要だと言ってくれる。利香だって、修介に同じことを心の底から本気で思っていた。
あの頃の利香には、修介以上に大事なものなどこの世になかった。修介に初めて会った頃、利香はまだ中学生だった。修介は利香の年上の友達の先輩で、利香より五つ年上で、最初は当然子供な利香など全く相手にもしてくれなかったが、利香は最初から好きだった。切れ長の細い一重の目も、すっと通った鼻筋も、声も、話し方も、笑い方も、歩き方も、背中も、大きな手も、好きで好きで、ひたすら追いかけて、ちょっとでも構ってもらえたら、それだけで舞い上がるほど嬉しくて。今思い返せば、あの頃の自分は主人に構ってもらうのが嬉しくてたまらない子犬のようだったと思う。
修介の人生は始まりの時点から修介に厳しくて、利香とはまるで違ったが、そのことは関係なく利香は修介に惹かれたし、修介があまり表立って言えない類の人間でも、欲しくて必死に伸ばしてやっと掴んだ手を離す気は利香にはなかった。幾度恐怖に身が竦むような思いをしてやつれるほど傷ついても、修介の手を離す選択肢だけは絶対になかった。もし修介が一緒に死んでと言ってくれていたなら、間違えなく利香は喜んでその手を抱いて一緒に死んでいた。親も友達も、自分すらも頭になかった。修介さえいれば良かった。それほどに、誰よりも何よりも。利香には修介がすべてだった。
修介が帰らぬ人になって、ショックによる錯乱状態が落ち着いた後、暫くの間、利香の頭には『どうして』しかなかった。どうして一人で死んだ。どうして一緒に死なせてくれなかった。どうして自分はここにいる。修介がいないのに、どうしてこの心臓は動いている。どうしてどうしてと、そんなことばかり、眠りもせずに考えていた。
自分の中だけに籠っていられたあの時に、ぐちゃぐちゃ考えていないでさっさと死ぬことが出来ていたなら、今ほど自分は辛くなかっただろうにと利香は思う。
しかしそれは、今となってはもう叶わぬ夢だ。利香はもう、修介の後を追えない。
利香の心はもう死んでいる。修介が死んだ時に、粉々に砕けて死んだ。だが、周りの人達が向けてくる愛情が鎖のように利香の体に巻きつき絡みついていて、利香を自由にはしてくれない。その鎖を断ち切って自分の望みだけを遂げることが、どれほどに酷いことなのか知ってしまった今の利香には、それはどうしても出来ない。
そのことが時々本当に、どうしようもなく辛くなる。誰かからの鎖を感じるたび、その重さや強さを感じるたびに、望みを遂げることが叶わない現実を突き付けられるのは勿論、修介が、利香が修介に伸ばしていたありったけの愛情の鎖を断ち切ってしまえたこと、そこにある事実を叩きつけられるようで、ただひたすらに辛い。
だからもう何も欲しくないし、何もいらない。これ以上はもう、耐えられない。そう言っているのに。
「やだ」
見据えるように利香をじっと見つめて、悠が言い放つ。利香は思わず頭を抱えたくなった。
「なんで」
「好きだから。生きてるから。放っておきたくない」
「だから、いらないんだってば、そういうの」
「なんで?」
頭痛がしてくるような思いにこめかみを指で押さえた利香に、今度は逆に悠が問いを投げてくる。
「なんでそんな頑なに拒否すんの? 『修ちゃん』に悪いって思うから?」
「違う」
「じゃあ、なんで?」
「聞いてどうすんの? 理由なんて言ったところで何も変わらない」
「そんなん言ってみなきゃ分かんないだろ。つーか、フるならフるで、理由くらい教えてくれたっていいだろ」
不貞腐れた顔で、悠が語気を強めて言う。
悠の言い分は確かに尤もなのかもしれないが、それを口にするのは利香にはきついことだった。口に出して言葉にするというのは、それを認めることと同じだ。自分は修介に望んだほどには愛されていなかった。頭ではそれが答えだと分かっていても、感情がまだそれを認めていない。納得できていない。
しかし、口籠った利香を、悠は聞くまで梃子でも動かないといった具合に見てくる。
「言わないなら、好きなのやめない」
更にはそんな脅迫じみたことまで言ってきて、利香は悠を見るというよりは睨みながら、ぐっと唇を噛んだ。
どうして、何の権利があって、ここまで人の内情にずかずか入り込もうとしてくるのか。悠のことはこれまで好きでも嫌いでもないと思っていたが、嫌いだと思った。その刺々しい感情に背を押されるようにして、利香は嫌がる口を動かした。
「私には修ちゃん以上に大事なものなんてなかった。修ちゃんがすべてだった。でも、修ちゃんはそうじゃなかった。自分がいなくなったら私がどう思うかどうなるか、そんなの関係なく一人自由に死ねるくらいには、どうでもいいちっぽけな存在だった。それをこれ以上、思い知りたくないの。それが理由」
自分の言葉に胸が抉られる思いがした。気が狂いそうな苦しみも痛みもとっくに通り過ぎた場所にきたと思っていたのに、抉られた胸からそれらが広がって染みていく。
体に絡みつく他者からの愛情の鎖は目に見えるものではないが、確かに存在している。利香は、親や友達からかけがえもなく愛されていること、自分もまた彼らを愛していることを知って初めてその重さを実感した。
修介に家族と呼べる人はいなかったが、少なくとも、利香はいた。簡単に断ち切ってしまえるほど軽く柔い、ちっぽけなものだったのだろうか、修介には。利香の愛情は。二人で過ごした年月は。愛されていたことを知らなかったとは絶対に言わせない。あれほどに、あれほどの想いを。
悔しいのか悲しいのか、もう麻痺してよく分からない。たが、もし、今一度修介に会えるなら、噛みついて引っ搔いて泣いて喚いて言葉の限り罵って、あばらの一本でも折ってやりたいと心の底から思う。しかし、それは叶わない。怒りも疑問も涙も利香の中にあるものすべて、受け止めて消化させることが出来るのは修介だけなのに、修介は死んでしまった。
修介が遺書も何も残さず突然自ら命を絶った日、その数時間前まで利香は修介と一緒にいた。何もかもいつも通りだった。いつも通り、もっと一緒にいたいと駄々をこねる利香にちゃんと学校に行けと子供にするように頭を撫でて、キスを強請れば、煙草を吸いながらいつも通りのキスをくれた。あの時傍を離れなければと今も夢に見る。
死ぬ前に少しでも利香のことを考えてくれただろうか。その思考の中の利香は、死を思い止まらせるだけの力は本当に少しもなかったのだろうか。少しでも、ほんの少しだけでもいい。修介の中の本当で、利香を心から大事に想ってくれたことは一度もなかったのだろうか。分からないことが辛い。『どうして』の答えが辛い。どうにもできなかった無力な自分が何より憎くて辛い。こんな辛いだけの思いはもう嫌だ。
真面目な顔でじっと見てくる悠を睨みつけたまま、必死に歯を食いしばる。それでも、どうしても盛り上がってくる涙に、利香はとうとう顔を逸らした。
「……俺がいたら、それを思い知ることになんの?」
「なるね。すっごく。だからやめてって言ってる」
一呼吸置くようにして、そう聞いてきた悠に、二つ三つ流れ落ちてしまった涙を手の甲で拭いながら、ひたすらつっけんどんに返す。
ややあって、じゃりっとビーサンがアスファルトに擦れる音がして、悠が座り直したのが気配で分かった。
利香は小さく息を吐いて、泣いたことで上がった体温を冷ますべく、悠のほうは見ないまま少し顔を上げた。
日差しは次第に強くなってきているものの、アスファルトはまだ照り返すというほどには熱を持っておらず、海からの涼風が涙で火照った目元や頬を冷やしてくれる。
懸命に抑えつけたこともあって、すぐに涙は落ち着いた。一人の時ならともかく、そうじゃない時にあまり修介のことで泣いたりするのは心配をかけてしまうから自制する癖がついていたし、そうじゃなくても、悠の前でこれ以上泣くのは癪だった。
「利香ちゃんが泣くの初めて見た。なんつーか、予想通りの泣き方で参った」
「何それ」
けして茶化すような響きはないもの、くだけたその物言いに利香が少しむっとして悠を見ると、悠は困ったような微笑を浮かべていた。
「思ったけど、なんだかんだで結構図々しいよね、悠くん。すごいむかつく」
その表情が更に癪に障って強めの口調で言えば、悠はくしゃりと顔を顰めるようにして笑み顔を深めた。
「図々しいって長所じゃね?」
「本当、図々しい」
「利香ちゃんも長所だと思うよ。すべてって言えるくらい全部で誰かを好きになれるところ。そういうとこ、本当いいなと思う」
「顔だけで好きになった人が何言ってんの」
「そりゃ最初はね」
にべもなく言い捨てた利香に、悠が折って立てた膝に腕を置きながら言う。
「利香ちゃんは、なんで『修ちゃん』を好きになったの?」
「そういう話はしたくない。てか、もういいでしょ。いい加減戻ろう、菜々達が心配する」
「あ、大丈夫。さっき菜々ちゃんにラインしておいたから」
「は?」
何食わぬ顔で飄々と言ってのけた悠に、思わず眉間に皺が寄る。
「利香ちゃん泣いてるし、ちょっと口説くから遅くなるって」
「はあ?」
「うっそ、冗談。ちょっと話してるから遅くなるって言っただけ。菜々ちゃん、『ごゆっくり~♡ 何かしたらコロス』ってよ。こわ」
サーフパンツのポケットから出したスマホの画面を見せるようにしながら、悠が言って笑う。
いつのまにと思ったが、恐らく先ほど利香が他所を向いていた間にしたのだろう。利香は呆れて立ち上がった。
「もう話すことないし。戻る」
「待って待って待って」
「いや」
「お願い、マジ頼むから、ちょっとでいいから話させて」
「もう話すことないって言ってるじゃん」
「俺はあんの」
「壁にでも喋ってれば? ばいばい」
「ちょっと待ってって。五分でいいから、本当に。ジュース奢ったじゃん」
「せこっ」
「せこくていいから、待って。五分だけ座って俺の話聞いて、お願い」
呆れて見下ろす利香に、悠が真剣な声で手を合わせて頭を下げる。少しの逡巡の後に、利香は溜息を吐きたい気持ちを抑えて、その場にまた腰を下ろした。
「五分ね」
「マジ五分でいい、ありがとう」
投げやりに言えば、悠が顔を輝かせた。
どうしてそうしようと思ったかと言われれば、必死な悠の姿が、必死に修を追いかけていた頃の自分と被って見えたからとしか答えようがない。利香も修介によくしつこいと言われたが、悠も大概だと思う。それでもこのまま無碍に立ち去るのは、その必死な気持ちを知っているだけに、あんまりに感じたのだ。
「そこ暑くない? こっち来たら?」
「いい。早く話さないと五分経つよ?」
といっても、利香は時計をしていないし、スマホも鞄の中に置いてきているから、時間など分からないのだが。自分の横を手で叩いて示した悠に、不愛想に言って返して話を促す。
悠は背後の防波堤にもたれかかるようにしながら、利香を真っ直ぐに見て口を開いた。
「俺、やっぱり利香ちゃんが好き。さっき、泣いてるの見て本当思った」
「趣味悪。てか、理由教えたら好きなのやめるって言わなかったっけ?」
「言ってない」
その返答に思いっきり顔を顰めてみせた利香に、悠が苦笑して続ける。
「そんな怒んないで、俺の話聞いてよ。初めて利香ちゃん見た時、俺、確かに可愛いって単純に思ったよ。顔が好みっつーのも反論しない。けど、それだけならとっくに諦めてる。俺の身になって考えてもみ? やたら気が強くてああ言えばこう言うわ、どうかしたら人の気持ち抉るようなきっついこと言ってくるわ、絶対勝てない前彼がいるわ、全然見向きもしてもらえないわ、そんなん顔だけで好きでいられるわけないじゃん。ふざけんなっつーの」
「じゃあ、やめたらいいじゃん」
「はい、そこ。話蒸し返さない」
思ったまま突っ込んだ利香を、悠がびしっと指さして咎める。利香にしてみれば、話を蒸し返しているのは悠のほうではないかと思うが、一応話を聞くと言った手前、大人しく聞くことする。
不承ながら黙った利香を目に、悠はまた口を動かし始めた。
「最初、紹介してって尚くんに頼んだ時、やめとけって言われた。百パー望みないからって。俺、その時彼女と別れて一人だったけど、まあコンパとか飲み会行けばお持ち帰り出来るし、別にどうしても絶対ってわけじゃなかったんだ。だから、尚くんに利香ちゃんは絶対無理って言われて、最初は、あーだめかーくらいしか思わなかったんだけど、尚くんから『修ちゃん』の話とか色々聞いて、なんか、こう言ったらあれだけど、利香ちゃんに興味が湧いてさ。俺、そんなふうに捨て身で誰か好きになったことも、好きになられたこともないから、そういう恋愛する人ってどんな感じなんだろうなって思って。それで、会うだけでいいからって尚くんにお願いして紹介してもらった。けど、実際話したら、利香ちゃん、打てば響くっつーの? ぽんぽん反応返ってくるから面白いし、それに、めっちゃけらけら笑うし、一緒にいてすごい楽しいじゃん?」
「別に面白くないし、私の笑いなんて殆ど作り笑いだよ」
「知ってる。その時は気づかなかったけど、利香ちゃん作り笑いする時眉あんま動かないけど、本当に笑う時はへにゃってなるもんね。あれも可愛くて好き、俺」
勝手に抱いているらしい幻想を壊してやろうと口を挟んだ利香に、悠が物知り顔で笑う。利香は面白くない気持ちになったが、別に悠でなくても、それこそ菜々や真也などは気づいているだろうことだ。気付いていて、みんな気付かないふりをしてくれている。利香の気持ちを思いやって。結局、自分は周りに甘えているだけなのだと痛感してしまう。
僅かに目線を俯けた利香に、しかし悠はしみじみ感じ入ったような声を出す。
「『修ちゃん』が亡くなった直後の頃の話とかも俺聞いてたからさ、その時は、この子そうやって笑えるようになるまでどんだけ頑張ったんだろうって思ったし、作り笑いって分かってからは、利香ちゃん本当強いんだなって尊敬した」
「作り笑いの何を尊敬すんのよ、意味分かんない」
「だってあれ、周りのこと考えてやってんでしょ? 利香ちゃんがいつも通りじゃないと、みんな調子出ないもんね。それが分かってるから場の空気大事にして、内心がどうでも、いつもの利香ちゃんらしく笑ったりふざけたりしてさ。実際一緒にいたら楽しい気持ちにさせてくれるし、正直すげえと思うよ。俺もさ、利香ちゃんとは比べ物にならないけど、何年か前に家のことで凹むことあって。その時周りの人に色々心配かけたけど、それが分かっててもいつも通りにとか出来なかったし、そういうの考えもしなかったもん、自分のことばかりでさ」
場の空気を壊さないように気遣っているのは自分ではなく周りのほうだと口を挟みかけ、その後に続いた悠の言葉のほうに、つい利香は疑問を抱いた。
「家のことって、何かあったの?」
「親の離婚」
率直な問いに、悠は何でもなさげに答えたが、利香はやや憂い顔になった。子供にとって両親の不仲は当然のこと離婚ともなれば、精神的にひどく堪えることは利香もよく知っている。
「それは凹むよ、仕方ないよ」
「で、そういうとこ優しいし。ああ、この子は自分がきつい時でも、人の痛みがちゃんと分かって思いやりが持てる子なんだな、すごいなって思うじゃん」
「いや、別すごくも優しくもないし。私、自分のことしか考えてないよ。思いやりがあるのは私じゃなくて、周りの人のほう。悠くん勘違いしすぎ。てか、本当に優しかったらわざわざ掘り返して聞かないでしょ、凹むことあったって言ってんのに」
「そうかな。俺は、終わったことでも凹むことがあったなら、話聞いて気持ち共有しようとしてくれる人のほうが嬉しいし、それに、周りが優しいっていうなら、それを理解できるその人も優しいんだと思うけど。まあ、けど、そういうところも、俺が利香ちゃん好きな理由のひとつだよ。俺とは違うものの見方する。それ思ったのは、散々誘って断られてやっと初めて一緒にご飯食べに行ってくれた時ね」
沢山喋って喉が乾いたのだろう、ジュースを一口飲んで、悠がまた続ける。
「年取って後悔しないように、その時やりたい本当のことをするのが理想の人生みたいな話したの覚えてる? 俺がそう言ったら、利香ちゃん、後悔の一つもない人生なんて無理だと思うから、後悔することがあってもいずれはその後悔を納得して許すことが出来るような、そういう人生が理想って言ったよね。あれ、なんか、感銘っていったら大袈裟だけど、なるほどなって思たんだ。この子のこともっと知りたいって思ったし、もっと一緒にいたいって思った。だけど利香ちゃん、ただご飯食べるだけでもなかなかオッケーしてくれないし、次会えるのいつだろって思ったら、なんか気が焦って、それで急遽あの日、付き合ってって言った。ばっさりフラれたけど」
「急遽だったんだ」
「そりゃあ、顔合わせるの二回か三回目くらいで、しかも脈なしって確実に分かってんのに普通告白しないっしょ」
「そう? 私は脈なしだって分かってても、言える時は毎日修ちゃんに好き好き言ってたよ」
言いすぎて、うるさいとたまに怒られたが、それでも言っていた。言わずにはいられなかった。好きの気持ちが後から後から溢れて止まらなかった。一方的でも何でも、その思いの重さで留めておかないと、修介が手の届かないどこかに行ってしまう気がしていた。実際、逝ってしまったが。
本当に自分は修介に、呆れるほどひたすら片想いをしていたんだなと思う。
そんなつもりはなかったものの、修介がいた頃のことが酷く昔に思えて一瞬少し遠い目になった利香に、悠が心底羨まし気な声を寄越す。
「俺もそういうふうに好かれたい。利香ちゃんから」
「無理」
「ですよね」
ばっさり言って返せば、悠は小さく苦笑気味に笑って、話を仕切り直すようにまた口を開いた。
「まあ、だからさ。俺も色々考えたわけよ。友達でいいから、なんとかしてもっと一緒にいたいって思って、人脈駆使して利香ちゃんのいる場所サーチして顔出したり、他にも色々、あの手この手使ったりして」
「ただのストーカーじゃん」
「ごめん。けど、偶然装って会うくらいしか方法なかった。利香ちゃん、俺がいくら誘っても全然会ってくれないし」
「当たり前でしょ、真也とか尚くんとか完全にただの友達ならともかく、一度告白されて断った相手がまだ自分に未練たっぷりなの分かってて、付き合う気もないのに二人で映画やご飯に行く女の子いないよ」
「そういうきっぱりしたとこも好き。利香ちゃん、浮気しなさそうだよね」
「馬鹿じゃないの」
にこにこと称賛するように言う悠に、呆れを隠さず言い捨てる。悠は気にする様子もなく、口元に笑みを残したまま、また言葉を紡ぎだす。
「利香ちゃん、俺が持ってないもの一杯持ってるからさ、憧れるっつーか、俺もそうなりたいっていうか。けどやっぱ女の子だし、弱いとこもあって、なのにいっつも一人で大丈夫って片意地張ってて、なんていうか、守ってあげなきゃって庇護欲みたいなの湧くし、『修ちゃん』のこと考えたら、敵わないの分かってるけどやっぱ悔しいし、そういうのじゃないって分かってても他の男と楽しそうにしてたらムカつくし、そんなこんなで、気がついたらすっげえ好きになってて。だけど利香ちゃん、全然見向きもしてくれないから、どうすっべかなって考えて、『与えよ、さらば開かれん』みたいな言葉思い出して」
「『求めよ、さらば与えられん』ね」
「ああ、それそれ。ちょっと意味違うけど、そんな感じで、利香ちゃんが全力で『修ちゃん』を好きでいたみたいに、俺も二十四時間三百六十五日全力で利香ちゃんを好きでいたら、いつかそのうち利香ちゃんも俺のほうを見てくれるんじゃないかなって思ったんだ。それが、えーと。四月五月くらい? そんで、そっから長期戦で行こうと思って頑張ってたら、今度は利香ちゃん、俺のこと避け始めただろ? 電話もラインも無視だし、俺がいるだろう場には誰の何の誘いでも絶対来なくなったよな。正直、めちゃくちゃ凹んだ。自慢じゃないけど、凹みすぎて体重まで減ったもん。好きな人のことで悩んで体重減ったの初めてだよ」
「乙女かよ……」
憎まれ口を叩きながらも、利香は罪悪感からやや俯いて、己の膝を抱いた腕に顎を乗せた。
悠はあくまでざっくばらんな口調だったが、嘘を吐く必要もなし、本当に痩せるほどの思いをしたのだろう。けして悠をそこまで悩ませ傷つけることが利香の本意ではないし、むしろ出来るだけ傷が浅ければいいと思っているというのに、ままならなさに拗ねた気持ちになってくる。
しかし、だからといってどうにもしようがない。利香ももう本当に限界なのだ。悠には悪いが、その気持ちが本気であればあるほど許容することも黙認することも出来ない。
結局どうしたってお互い傷つくだけという結論に、利香は密かに口を窄めた。そんな利香を前に、悠は、話す速度を少し緩やかにして言う。
「さっきさ、利香ちゃん見て確信したけど、やめるとかやめないとかそんな次元はとっくに超して、もう完全に『修ちゃん』は利香ちゃんの一部になってるじゃん? 勝てるわけないのは勿論分かってたけど、なんか利香ちゃんの想いの強さを見せつけられたっていうか。あー、やっぱ敵わねえなってしみじみ思ったりもしたんだけど。……だけど、その後利香ちゃん、俺といると思い知るって言ったじゃん。俺、『修ちゃん』のこと直接知らないし、利香ちゃんと『修ちゃん』が実際どんな感じだったのかも知らないから突っ込んだこと言えないけど、利香ちゃんがそう感じるってことは、少なくとも俺の全力の好きは、利香ちゃんにちゃんと正しく届いてるんだなってちょっと嬉しくなった」
「私は、それが辛いって言ってるんですけど」
「うん。まあ、それは追々ちゃんと考えなきゃいけない問題だけど」
「誤魔化さないで」
丸めていた背筋を伸ばしてぴしゃりと言って、利香は悠を見据えて口を動かした。
「てか、とっくに五分過ぎてんでしょ。顔だけとか言ったのは悪かった。それは謝るけど、 でも、好きになってくれてありがとうとは思わないし、そうやって好きでいられても悪いけど私は変わらない。もうやめてくれる?」
最終通告のつもりだった。毅然として利香が見つめる先で、悠は利香を少しの間見つめ返した後に、立てた膝の上に置いた自分の手の指を見るようにして、そこにもう片方の手で触れながら言葉を返してきた。
「もし『修ちゃん』にやめろって言われてたら、利香ちゃん、やめられた?」
その返しはずるいと咄嗟に利香は思った。実際、俺なんかやめておけと、何度言われたか分からない。修介にだけではない。周りにも散々言われた。それでも、どうしても好きだった。だから、悠の気持ちが全く分からないわけではない。しかしながら、悠と利香では状況が違う。そう反論しようとして、だが利香はすぐに開きかけた口を止めた。
違うのは状況ではなく人であること、今ここにいる人が違うのだということに、その時本当に瞬間的に気がついたのだ。
利香は利香のままなのに、今こうして利香の前にいるのは悠だ。修介ではない。いつだって、利香とこういう話をして向き合っていたのは修介だったのに、今そこには悠がいて、修介はいない。利香はいるのに、修介がいない。
気付いてしまった自分の中の本当に、利香は喉の奥が潰れる心地がした。
悠といると辛くなるのは修介に望むほど愛されていなかったことを思い知るからじゃない。悠がいることで、修介がいないことをむざむざと思い知らされて辛いのだ。
修介がいない。どこにもいない。手を伸ばしても、腕に触れることはできない。名前を呼んでも、利香を見て笑ってくれることはない。一人で勝手に逝ってしまったことや、愛されていなかったことより何より、ただそれが、どうしようもなく寂しくて辛くて、だから、修介の不在を強く感じさせる悠を利香は許容することが出来ないのだ。
修介がもういないことなどもうずっと前から理解していたはずなのに、今更過ぎる喪失感の大きさに、二度と声も出ない気がした。体の中ががらんどうになったように、ヒールのサンダルを履いたつま先にも、膝を抱いた腕にも、何の重みも感触も感じない。太陽も風も海も変わらずそこにあるのに、利香だけぽっかりと穴が開いたように空虚だ。
愛してくれてなくてもいい。いてくれるなら。あの日までの当たり前のように、そこにいてくれるなら、それだけでいい。いくらそう願ったところで、利香の前にいるのは悠で。変わらない。けして叶わない。
茫然と視界の先の悠をただ目に映す。二重のくっきりした悠の目は、懸命に覗いても何を考えているか分からないことの多かった修介のそれとは違い、明け透けなまでに雄弁だ。些細な表情さえ見逃したくないといわんばかりに視線で相手を追いかけて、ちょっとの動作も見逃さないように相手を常に視界に入れて、気まぐれでもいいから自分のほうを見てほしいと常に乞い焦がれている。
相手がそこにいてこその恋情が籠ったその目で、悠が強く利香を見る。それはそのまま、修介がいないのに利香がそれでも生きてここにいることを証明するのと同じで、利香は自分が、けして這い出ることの出来ない奈落の底にいる気持ちがした。
「さっきも言ったけど、俺こんなふうに誰かを好きになったことこれまで一度もないし、利香ちゃんだからここまで好きになったんだと思うし、それをちゃんと感じ取ってくれる利香ちゃんがますます好きだと思ったよ。利香ちゃんが『修ちゃん』がよくても、俺は絶対利香ちゃんがいい。利香ちゃん以外いらない。こんなふうに思ったのも思うのも、人生で利香ちゃんしかないと思う」
どうしてこの人は、修介ではないのだろう。じっと強く見てくる目を見返しながら、無意識にそんなことを考えて、死にたくなる。いっそ殺してくれたらいいのに。叶いもしないことをまた考えて、どうしようもない辛さに溜息すらつけず、利香は膝に顔を埋めた。
どんなに死にたいと思っても、利香は死ねない。周りの人の愛情の鎖がある限り。悠も、利香がいくら願ったところで、利香を殺してはくれないだろう。悠に巻き付いている愛情の鎖が、悠にそれをさせることを許さないはずだ。利香と悠は何かと似ているから、恐らくそういうところも似ている。本当に、どうしようもない。どうして悠は悠で、利香は利香なのだろう。せめてどちらかでもちょっとでも違えば、この辛さも少しは楽になったのだろうか。
不意に聞こえた音と気配に僅かに顔を上げれば、頭の上にタオルが被さってきた。移動してきたらしい悠が、利香のすぐ前にしゃがみ込む。痛ましいものを見るような悠の表情に、利香はようやく、自分の視界が涙でぼやけていることを知った。
「泣かせてごめん」
自分自身泣きそうな顔で悠が言う。利香は滲んで睫毛を濡らしていく涙もそのままに、それを聞いた。
「辛い思いさせて本当にごめんね。だけど、お願い。利香ちゃんの辛いのも寂しいのも全部、俺が引き受けて受け止めるから、お願いだから、俺といて」
「……なんで、それをあんたが言うのよ」
「なんでって……」
利香に辛い思いをさせているのも、寂しくさせているのも修介で、悠ではない。だから、利香のそれを引き受けて受け止めるのも修介であるべきで。
修介以外からはそんな言葉は聞きたくない。修介でないといけない。修介以外はいらない。修介だけでいい、修介がいい。あの日砕け散った心は確かにまだそう叫んでいるのに。
了承もなく勝手に入り込んでくる砂のように、それらの言葉が耳から利香の中に入ってくる。まるで、修介がもうどこにもいないことを知らしめるかのように、がらんどうになった利香の中に、修介とは違う顔で、声で、話し方で、言葉が、想いが、悠が刻まれていく。
あたかも当然のように、会うたびに感情の籠った素直な目で利香を照らして、見たくもないものを利香に見せて、欲しくもないもので埋め尽くして、知りたくないことを浮き彫りにして、死んでいた利香の心を図々しく掘り返して、どうしようもないほどに辛くさせて。修介でもないくせに。修介ではないくせに。
―――修介ではないのに。
「あんたなんか大嫌い」
堰を切ったように利香の目から涙が一気に溢れた。腹立ちと悲しさが複雑に入り混じった感情に、衝動的に頭のタオルを取って悠に叩きつけ、一方的に言い募る。
「私が何したっていうの? 何の権利があってこんな酷いことするの? 私は修ちゃんがいいの、修ちゃんじゃないと嫌なの、なんで放っておいてくれないの!」
「ごめん」
「絶対許さない、大嫌い!」
拒絶するように言い捨て、利香は立ち上がった。もう一分一秒も悠といたくなかった。だが、背を向けるより早く、それを阻止するように悠に手を掴まれてしまった。
「許してくれなくていい、大嫌いでもいいから。俺がその分好きでいる。だから俺といて」
振り払おうと出鱈目にもがく利香を力の差でその場に留め、縋るように見上げながら、悠が必死な声で言ってくる。
利香は憤懣やるかたない気持ちをそのままぶつけるように、きつく悠を睨み付けた。
「いいわけないじゃん。そんなの辛いだけだよ、何もいいことない」
「利香ちゃんがいるだけでいい」
「そんなの絶対嘘」
「嘘かもしれないけど、仕方ないじゃん、どうしようもないんだから!」
聞く耳持たず撥ねつけた利香に、悠は真っ赤な目で、語気を強めた。
「俺だって、この一ヶ月半くらいの間何回ももうやめようって思ったよ。辛いし虚しいし、苦しいし、どうしていいか分かんないし。けど、どうしても無理なんだよ、本当に」
切々とそう訴え、悠は顔をやや伏せた。だが利香からはそれでも、その口元が泣きだしそうなのを堪えるように歪んでいるのが見えた。
「頼むから。俺は『修ちゃん』じゃないし、どうしたって『修ちゃん』にはなれっこないけど、『修ちゃん』の分までずっと、利香ちゃんの傍にいさせてよ。辛い時は俺にぶつけてくれていいし、寂しい時は俺が『修ちゃん』の分まで『修ちゃん』の代わりに一緒にいるから、ずっといるから。お願いだから、俺といて」
掴むように握った利香の手を離すことなく、項垂れるように顔を下げて悠が懇願する。握られた手の強さやその声の震えが、本気で悠がそう願っていることを利香に伝えたが、その願いが本気であるなら尚のこと、利香は泣き濡れた顔も放ったらかしで、憤懣に肩を震わせた。
「なんでそんなこと言うの」
声を苦らせて、未だ首を垂れている悠を睨む。
「修ちゃんの分までって、悠くん修ちゃんじゃないじゃん」
「だから、『修ちゃん』の代わりでいいって言ってんだろ。他に利香ちゃんの傍にいられる方法あるなら教えてよ」
顔を上げて憤然と反論してきた悠に、利香は腹立たしさから滲む涙もそのままに、噛みつくように言って返した。
「馬鹿じゃないの、修ちゃんの代わりなんて出来るわけないじゃん! 悠くんは悠くんでしょ。だから辛いって言ってるのに、何も分かってないじゃん!」
「じゃあ、俺を好きになってよ! 『修ちゃん』じゃなくて、俺を好きになって俺といてよ!」
「そんなに簡単にいかないよ! 私はずっと修ちゃんの……ッ、修ちゃんが……ッ」
その先は声にならなかった。言える言葉が存在しなかった。
力なくはくはくと開けた口から嗚咽が漏れる。利香は堪らず、崩れ落ちるようにその場にしゃがみ込んだ。
どうしていないのだ。どうして今この場にいて、利香は俺のだからと言ってくれない。どうして。ずっと、『修ちゃんの利香』でいたかったのに、利香にはそれだけで良かったのに、どうして利香を手放して一人にした。
修介に対する今更どうにもならない思いの数々が胸を貫いて、猛烈な勢いで込み上げてきた涙が止める術なくぼろぼろと零れ落ちては、後から後から溢れて呼吸すらままならず、辛くて痛くて苦しくて、ただひたすらしゃくりあげて、膝に顔を埋めて泣き伏せるしかなかった。
不意に膝の辺りに触れた柔らかな感触に、利香が泣きじゃくった顔を僅かに向ければ、悠がタオルを押し付けるように差し出していた。利香はしゃくりあげながらも、それを受け取って顔を埋めた。そして、こうして修介を求めて激しく泣いている時でさえ、傍にいて利香を支えようとしてくれるのは修介ではなく悠なのだという、どうすることも出来ない現実にまた泣いた。
どんなに修介が恋しくて、どんなに駄々をこねて泣いても、現実は変わらない。修介は死んだ。利香だってそれは理解している。理解しているからこそ、それでも修介が恋しくてたまらないことが、変えられない現実が、辛くて辛くて辛いのだ。
修介が死んで、利香を立ち直らせようと色んな人が、時間が経てば、苦しみも痛みも薄れて少しはマシになるからとにかく今を乗り越えろと言った。利香も、修介を失うまではそう思っていた。だが、修介がいなくなって知った。喪失の苦しみや痛みは薄まることはない。ただ、時間の経過によって心が麻痺していくだけなのだ。しかしそれでも、人は救われる。少なくとも、押し潰されそうな重さから多少は逃れられる。この辛さもいつかは麻痺するというのなら、今この瞬間がいい。利香に生きろというのなら、今すぐ辛さを麻痺させて、この地獄から利香を解放してほしい。でないと、もう潰れてしまう。折れてしまう。そのほうが楽だと思ってしまう。
「……辛い」
「俺も辛い」
嗚咽と一緒に思いの丈を短く零せば、小さく聞き取りにくいものだっただろうに、すぐに悠が声を返してきた。その行動から感じずにはいられない悠からの鎖の重みに、涙がまた零れた。
「寂しくて死にそう」
「俺がいる」
「修ちゃんがいい」
「……俺で我慢して」
嗚咽交じりにぽつぽつと、思いの丈が詰まった短い言葉を吐き出し交わす。その間もずっと、悠は握った利香の手を離そうとはしなかった。
少しも緩まることのないその頑丈な手から伝わってくる体温や、潮の匂いがするタオル、更には、しゃがみ込んで顔を下に向けている今でさえ頭上から変わらず公平に照らてくる太陽の存在に、悠を含め、周りからの目には見えない鎖は利香を縛るものであると同時に、利香を守り支えるものでもあるのだと改めて深く感じ入る。重く息苦しさすら感じるほど、それほどに自分は守られて生かされているのだと、だからこそ生きていかなくてはならないのだと、そう感じるほどに、どうしようもなく涙が零れた。
皮肉にもそれは修介が最後にその命でもってして、利香に刻み付けたことだ。いくら辛くても、愛してくれる人にこれほどの苦しみを背負わせるなど利香にはとても出来ない。
修介はもういない。それでも利香は、この現実の中で生きていかなくてはならない。どんなに寂しくて辛くて、何度折れそうになっても、この鎖が利香を縛り守り、それを望んでいる限り、どうしたって。
それが、一人何も持たず何も残さず逝ってしまった修介の死を生かす、利香に出来る唯一のことでもあるのだいう考えに行きついて、利香は身を切るような思いにまた新たに込み上げてきそうになった涙を押し込んだ。
タオルに顔を埋めたまま、涙に喘ぎそうになる喉に力を入れ、抑えつける。その体内の力の振動が伝わったのかどうかは分からないものの、悠が励ますように握る手にぎゅっと力を入れてきて、その力強さと温もりに支えられて利香はなんとか涙を落ち着けることが出来た。
泣きすぎで目元どころか全体がむくんだように腫れぼったく感じる顔をのそのそとタオルから上げて、鼻を啜って息を吐く。
「大嫌いとか、他にも酷いこと色々言ってごめんね」
悠のほうを見ることなく謝れば、悠が首を横に振るのが気配で分かった。
「俺もごめん」
「……あんな酷いこと言われてまだ好き?」
「好き」
「悠くん、マゾか何か?」
「それ言うなら、利香ちゃんも相当だと思うよ」
「……言えてる」
ほんの少しながら笑えて、そのことを安心すればいいのか悲しめばいいのか、よく分からない気持ちで利香は悠に顔を向けた。
恐らく利香のほうがかなり酷いことになっているとは思うが、悠もなかなか酷い顔になっていた。目は勿論、目の周りが赤くなっているところを見ると、腕で擦ったのだろう。ちくりと胸を刺した罪悪感は、お互い様という言葉で押しやった。事実、悠がずかずかと内情に踏み込んでこなければ、利香はここまで泣くこともなかったのだから、お互い様で正しいはずだ。とはいえ、元をただせば全て修介の、いや、修介のことを割り切ることが出来ない利香のせいではあるが。
そんなことを考えながら、じっと見てくる悠の相変わらず雄弁な目に、利香は思ったまま口を動かした。
「私が私じゃなくて、悠くんが悠くんじゃなかったらよかったのに」
利香が利香でなければ、修介のことをもっと楽に割り切って悠を受け入れることが出来たかもしれないし、悠が悠でなければ、こんなふうに体当たりで向かってくることなく、利香を諦めていただろう。それならきっと、もっとお互い楽だった。しかし、それが出来ないのが利香で、それでも体当たりで向かってくるのが悠なのだ。やはり自分達はどこか似ていると利香は思った。
「俺は利香ちゃんが利香ちゃんでよかったよ」
一途に利香を見ながら、悠が真面目な声で言う。ひたむきなその眼差しに、修介を追いかけていた頃の自分を見ている気がして、利香は思わず苦笑に近い笑みを小さく零した。
「やっぱ嫌い」
「俺は好き。めちゃくちゃ好き。俺は利香ちゃんと出会うために、今まで生きてきたんじゃないかなとか痛いこと真面目に考えるくらいマジで好き」
「……痛いというか若干キモい。てか、いい加減手離して」
「やだ」
「やだって」
「利香ちゃんのせいじゃん。責任取って、俺といて」
「なんで私のせい」
「だって、利香ちゃんじゃなかったらこんなに好きになってなかった」
はたしてそれは自分のせいなのだろうかと考える利香の前で、悠がふと利香の頬あたりに視線をずらす。その目の動きを利香が不審に思うより早く、声と手が伸びてきた。
「砂ついてる」
恐らくタオルについていたものが移ったのだろう。当然のように悠が指で利香の頬についたそれを拭い去る。かわす暇もなく自然に行われたその行動に、利香はやや呆れ気味に悠を見ながら言った。
「悠くん、砂みたい」
「え、砂? なんで?」
「教えてあげない」
きょとんとする悠に短く言って返しつつ、厄介なあたりと図々しいあたりが本当に似ていると利香は思った。
小さい子供の頃ならいざ知らず、修介以外の異性が顔に触ることなんてこれまでなかったのに、至極自然に悠がそれを上書きしてしまった。無論、それで修介との思い出が消えるわけではないし、悠も悪意があってやったわけではないのは分かっているが、そうやって勝手に自然と人の境域に入り込んできて、当然のように図々しく距離を詰めてくるあたりが修介とは違って、今ここにいるのは悠なのだと実感させられる。
利香も修介にとってこんな感じだったのだろうかとふと思い、いや自分はここまで図々しくなかったはずだと内心で自己弁護をしながらも、人が人と出会い、一緒にいるというのはそういうものなのかもしれないなと考える。図々しい云々は抜きにして、互いの存在に気づき目を止め、その存在独自の主張に互いに惹かれたり苛立ったり共感したりしたりしているうちに、気が付けば嫌でも距離が近づいていく。近づいた結果、逆に距離が開く場合もあるが。
「砂だって、ざらついたら取り除かれるしね」
つい口から洩れた内心の呟きに、悠が聞き捨てならないとばかりに眉を歪める。
「え、何、その微妙に不穏な発言。言っとくけど、砂は泥になるからね? 泥になったら、こびりついて取れないからね?」
何を思ったのか、微妙に焦ったような顔と声で頓珍漢なことを言ってきた悠に、思わず利香は吹き出した。泣きすぎた目元がひりひりするのも構わず破顔して、軽く肩を揺らしながら、くつくつ笑う。悠ははじめ怪訝そうな顔をしていたが、笑う利香につられたのか、はたまた安心したのか、途中から笑み顔になって優しい眼差しで利香を見ていた。
ひとしきり笑って息を吐き、利香が改めて悠に顔を向けた時も、悠は利香を目に映したまま柔らかな笑みを利香に向けていた。利香が笑ってくれて嬉しいと言わんばかりの悠のその表情に、胸の痞えを吐き出すようにしっかりと深く溜息を吐く。そうしてから、悠を見ながら利香は口を開いた。
「私は修ちゃんみたいにはもう誰も好きにならないよ。もし仮にこの先私が悠くんを好きになることがあったとしても、その好きは修ちゃんとは違うし、私は修ちゃんを忘れることはないから、きっと修ちゃんのことで悠くん嫌な思いも沢山するよ。それでも本当にいいの?」
目を見つめ念押しするように言う。悠は真面目な面持ちで頷いて返した。
「いいよ。利香ちゃんがいてくれるなら、それだけでいい。修ちゃんに勝てるとは最初から思ってないし」
「……ガッツがない。やり直し」
「えっ」
思わぬ返しに頓狂な声をあげた悠を涼しい顔で尻目にして、利香は風で顔にかかる髪を耳にかけ、ふと足元に置きっぱなしだったジュースの缶に目をやった。すっかり汗を掻いて、汗を流し切った感さえあるそれは、アスファルトの上に染みを作っていた。
時間の経過を知らせるその光景に、止めることが出来ないそれに対して、胸の奥がひっそりとじんと切なくなる。
修介がどうして死を選んだのか、利香にはどんなに考えても納得のいく答えなんてないし、本当の答えは修介しか持っていない。利香に分かるのは、修介への想いは変わりようがないということ。この先時間の経過と共に他の誰か――たとえば傍にいるという悠を好きになったとして、修介がいて当然だった場所に悠が立つことになっても、きっと変わらない。時間の経過で利香がどんなに変わっても、きっと利香は利香だから。
だから、自分を強く持って経過する時間と共に生きていこう。何度泣いてもまた笑って、何度傷ついてもまた立ち直って、そうやって、しぶとく。
大丈夫。どんなに泣いても、涙はいつかは必ず乾く。今、利香の頬がもう乾いているように。耐えられないほど辛くて折れそうで助けが必要な時は、偽らずに鎖の先に手を伸ばせばいい。自分から鎖を拒絶して断ち切ってしまわない限り、きっと誰か一人は手を差し伸べてくれる。今日の悠のように。それがきっと、生きていくということだ。
ジュースの缶を目に利香がそんな感傷に浸っている間も、悠は利香に向き合ったまま、ガッツのある文句を捻りだそうとあれこれと懸命に言葉をこねくり回していた。その中の一つに笑いを誘われまた吹き出しながら、これでいいのだと利香は自分に呟いた。
fin